月は東の空に出て

 何時の間にか雨はやんでいた。
 遅く上った下弦の月よりまだ少しやせた月の光が窓から差し込み、八戒のまぶたの上をひとなでする。
 それにつられたかのように八戒はゆっくりと目を開けて、ぼんやりした頭を軽く振ろうとした。

 ―――――――なんだ?

 大きくて逞しい腕が自分を後ろから抱きしめている。少し首をよじってその腕の続く先を見ると、月明かりの中に鮮やかなまでの紅い髪にたどり着いた。
 自分の寝室で、自分のベッドの上に悟浄に抱きしめられて眠っていた自分は……?

 混乱している記憶を必死で取り戻そうと、ぼんやりする頭をどうにかなだめすかし、八戒は昨夜、一体何が起こったのか、きちんと思い出そうとした。
 昼間、悟浄にアルバイトのことを聞かれた。それがずっと頭の中に引っかかっていて、生憎降りだした雨とあいまって、いつもの夜以上に自分が自分の思うとおりにならなかったことを覚えている。
 雨の中いつもと同じように、いつも以上に慌てて帰ってきた悟浄に抱きしめられて、悟浄が何度も何度も自分の名前を呼んでいたことも覚えている。

 雨の夜、思い出すのはいつも、いつも無力で無能でどうしようもない自分の姿。

 花喃の姿かたちは鮮明に脳裏に焼きついているのに、雨の夜、どうやって彼女を失ったのかはだんだんおぼろげにしか思い出せなくなっている。

 「―――――っ」

 声にならないうめき声を上げ、八戒は身じろぎをしようとした。しかし、悟浄の腕はしっかりと八戒を抱きしめていて、そう簡単に身体を動かせない。
 悟浄の腕が自分を包み込んでいる。
 背中越しに悟浄の心臓の音が聞こえる。
 少し汗ばんだ感触がささくれている自分のこころに心地よい。

 雨が去ったからだろうか。
 それとも、悟浄がそこにいるからだろうか。
 確かに今自分は、花喃のことを考えていたのに。
 それなのに、何も考えられなくなるほど壊れてはいない。

 肌と肌とが触れ合うことはこんなにも安らぎをあたえるものなのだろうか。
 それとも、悟浄の腕だからだろうか。
 なんだかこのまま朝まで眠っていたくなるような――――――

 
 そこまで思って八戒は突然昨夜のことを全て思い出した。

 悟浄の深い口付けを。悟浄の腕が自分の背中に回るのを。そして悟浄が、自分の服に手をかけて、身体中にキスの雨を降らせ―――――

 壊れて、壊れかけて、壊れきる寸前の自分を悟浄はきっとどうにかしようとしてくれたのに違いなかった。

 呼びかけにも全く反応せず、悟浄の名を呼ぶことすらできない自分を前にして、悟浄はほかに方法がなく、仕方なくあの手段を―――とったのだろう。

 どう考えてもそれは悟浄の優しさであるという結論にしか達しなかった。

 誰がどこをどうみても悟浄が夜の相手に不足をしているわけがない。
 大体酒場に行けば悟浄に抱かれたい女性が山をなしている。悟浄にとってはよりどりみどりだ。
 
 そして、根本的にそもそも好き好んで悟浄が同性を――――抱きたいなどと思うわけがない。
 
 ただの気まぐれかもしれない。
 その可能性だって大いにある。

 だから、間違いなく悟浄は、仕方がなかったのだと八戒は考えた。



 それなのに。

 偽りでも同情でもなんでもよいから悟浄の腕の中にいられたことはなんだかとても満たされた気持ちになった。
 肌のぬくもりはあたたかかった。心地よかった。
 低く甘い声で自分を呼ぶ悟浄の声はいつまでも聞いていたかった。
 悟浄が自分を抱きしめてくれた腕が、そして合わせられた肌が、とてもとても大切なもののように思えた。
 とても、安心した。

 悟浄の唇が身体の上を滑っていく感触は八戒に快楽という感覚を思い出させた。
 悟浄が欲しい、と思った。
 悟浄の全てが欲しい、と。

 ―――そう。女のようによがり声を上げ、腰を振って自ら悟浄を求め―――――――

 そんな自分を、悟浄は一体どう思ったのだろうか。

 悟浄の優しさに、また、甘えて、甘えて、甘えきって、悟浄に負担だけかけている。いい加減いつまでたっても進歩がない自分に嫌気が差してきた。悟浄に謝らずにはいられなかった。
 どうして自分はこうなのだろう。
 悟浄には負担をかけたくないのに。
 

「…ごめんなさい。悟浄」

 
 
 腕の中におさめた八戒の身体が少し身じろぎをした。うとうとしていた悟浄はその動きにつられてうっすら目を開けた。
 目の前には八戒のこげ茶色の髪。その下には首があって、そして見事な曲線を描く肩が続く。
 夜目にも鮮やかなほど赤くつけられた首筋の刻印は、悟浄がはじめて見つけた八戒の性感帯だった。それがわかったのが嬉しくて、何度も、何度も歯を立ててしまった結果がこの通りだ。
 腕の中で、悟浄の名を繰り返し呼ぶ八戒が、欲しくて、欲しくて、欲しくて。全て、全部が欲しくて。
 木っ端微塵に砕け散った最後の理性はそれでもその欠片が原始へと還元される前に、間違いなく悟浄に警告を発していた。

 そんな状態の八戒を抱いたところで、八戒の全てなど手に入りはしないのだ、と。

 八戒は、ものすごく必死に悟浄の名を呼んでくれようとしたのだ。きっとまた自分に負担をかけるだのなんだのと考えて。
 ただでさえほかに何も考えられなくなるくらい、雨の夜の八戒には余裕がない。
 そのこころにすむ愛しい人の名前ではなく、悟浄の名を呼ぶことにどれだけ八戒がパワーを使うのか、悟浄には想像もできないほどのレベルであろう事だけはわかる。

 だから、間違いなく八戒は、抵抗できなかったのだろうと悟浄は考えた。


それなのに。

 偽りでも同情でもなんでもよいから八戒が腕の中にいてくれたことはなんだかとても満たされた気持ちになった。
 肌のぬくもりはあたたかかった。心地よかった。
 低く甘い声で自分を呼ぶ八戒の声はいつまでも聞いていたかった。
 八戒が自分を抱きしめてくれた腕が、そして合わせられた肌が、とてもとても大切なもののように思えた。
 とても、安心した。

 悟浄の唇に反応する八戒の身体は、射精するという目的以外のセックスがあるということを悟浄に思い知らせた。
 だから、八戒が欲しい、と思った。
 八戒の全てが欲しい、と。

 それなのに、そんな状態の八戒につけこんで、自分の欲望のために、八戒を―――――――

 そんな自分を、八戒はいったいどう思ったのだろうか。
 
 欲しいと思ってしまったらなにをどうあっても欲しいと思う自分の進歩のなさにいい加減嫌気がさしてくる。どんなに求めても手に入らないものが世の中には多すぎるというのに。
 どうして自分はこうなのだろう。
 八戒には、笑っていて欲しいのに。無理なんてさせたくないのに。

 そこまで考えた悟浄の耳に、八戒のつぶやきが聞こえた。

「…ごめんなさい、悟浄」



 …なにを八戒は謝るというのだろう?悟浄が謝ることなら山ほど考えつくが、八戒に謝られる覚えは悟浄には全くない。それともこれは、本当の「ゴメンナサイ」なのだろうか?もういい加減悟浄には愛想が尽きたから、ゴメンナサイでもしておこう、と。

「…なんで、あやまんの?」

 かすれた声で、悟浄が問う。
 悟浄にきかれていたとは思わなかった八戒が、思わず身を固くした。
 謝らずにはいられなかったのだ。悟浄に甘えることしかできない自分がいやで、いやで、たまらなくいやで。

「だって、悟浄……」

 そこまで言って言葉に詰まる八戒が、急に遠くに感じられたように思って、悟浄は思わず八戒を背後から抱きしめる手に力をこめた。

「だって、ナニ?」

 力強い腕に抱きしめられて、八戒はその腕にそっと自分の手を重ねると、ゆっくり悟浄の腕をはがし、そして、悟浄を向き直って言った。

「…悟浄、無理してくれたから……だから、ごめんなさい」

 言い終わったあと、目を伏せて、つらそうに肩で息をする八戒に、悟浄は困惑を隠し切れなかった。
 何故、八戒は、そんなことを思うのだろう。

「無理…ってなんだよ。俺、無理なんて全然してないぜ」
「…いいんです。悟浄。分かってますから…」
「いいって何がだよ。ナニ分かってるって言うんだよ」

 少し悟浄が声を荒げた。すぐに八戒は悟浄に負担をかけていると思い込む。悟浄が嫌がって物事を行っていると思い込む。
 そんなことはないのに。
 絶対にそんなことはないのに。
 いったいどうしたらこのきれいな碧の同居人にそれがきちんと伝わるのだろうか。

「悟浄」
 
 短く悟浄を呼んで八戒は顔を上げ、悟浄をまっすぐ見つめた。

「…あなたが、好き好んで野郎を夜の相手に選ぶとは思っていません。だから――――」
「だから、だからなんだって言うんだよ」
「だから、無理をさせて、本当にごめんなさ――」
「…ふざけんなよ!!」

 がばっと上半身を起こし、悟浄ははっきりと声を荒げて言った。

「何でお前はいつもそうなんだよ!どうしてそうやって勝手に何でも決め付けんだよ!!!」

 月の光に顔半分だけ照らされた悟浄の紅い瞳が、そこだけルビーのように光っている。

「お前は俺か?勝手に俺の気持ち妄想してんじゃねーよ!
 ―――ああ、確かに俺は好き好んで野郎なんかと寝やしない。でもなあ、お前だから、お前だから、抱きたいと思ったし――――お前の全部が欲しいって思ったんだよ!!」

 肩で荒く息をして、悟浄は一旦そこで言葉を区切ると、その紅い瞳で八戒をきっと見据えた。

「いったいどう言ったらお前に伝わるんだ?どうしたらお前、そんな悲しいこと思わなくなるんだ?俺ってそんなに甲斐性なしか?!」

 蒼白な顔で悟浄の台詞を聞いていた八戒は、悟浄の言葉が終わったことを確認すると、す、と視線を横にそらして、言った。



「――――だって、悟浄。あなた、一度だって…僕のこと、好きだって言ってくれたこと、ないんですよ……」

 

 

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