月は東の空に出て

 好きってナンだ?


 そんな言葉を言わなくちゃ俺の気持ちは伝わらないのか?


 八戒は、大切にしたい。何よりも誰よりも大切にしたい。
 そばにいたい。できることならずっとそばにいたい。
 八戒の笑顔が見られるなら俺はなんだってできる。
 八戒には笑っていて欲しい。
 八戒には、笑顔でいて欲しい。


 …あんなに悲しい顔をさせたかったワケじゃない。
 あんなにつらい思いをさせたかったワケじゃない。


 好きっていえば、そうやっていえば、八戒は笑ってくれたのだろうか。


 ……いや、多分、ちがう。


 嘘を伝えるわけにはいかなかった。
 きっと、八戒には伝わってしまうに違いなかった。


 好きってナンだ?


 好きな もの ならわかる。

 酒。
 煙草。
 …女。

 酒は酔えるのならば何でもよかった。
 煙草はハイライトがよかったが別にそれ以外のものでも何でもよかった。
 女は見目麗しくって、後腐れがなく、感度がよければ何でもよかった。

 そんなものしか好きじゃないのに、そんな「好き」を八戒に対して使っていいのか?

 豆大福が好きだ。
 八戒の淹れてくれるお茶が好きだ。
 八戒の作ってくれるさばの味噌煮が好きだ。
 八戒がアイロンをかけてくれたシャツに袖を通すのが好きだ。

 でもそれは、八戒を好きだということとイコールのことなのか。


 「…ま、深くはきかんがな、悟浄」
 趙量が悟浄の前にグラスを差し出しながらいう。
 「八戒と喧嘩でもしてきたのか?」
 ものすごく不機嫌な目でじろりと趙量を睨み、悟浄は黙ってグラスをあおった。

 本当なら後朝などというものは幸福に包まれて二人でむかえるものだろうのに。こんな酒場で、こんなふうに一人で酔いつぶれて。

 八戒を、一人にして――――――――――――――

 それでも、嘘は言えなかった。
 そんな安っぽい好きなら言わない方が3000億倍マシだった。

 「それにしてもあの八戒がねえ」
 趙量がつぶやいた。
 「喧嘩なんかするのかねえ」
 「…るせーな、んなもんしてね―って言ってるだろう」
 立て続けにグラスをあおり、不機嫌がとぐろを巻いてカウンターに座り込んでいるといっていい悟浄は、趙量に言葉を投げつけた。
 「アイツ、なんも悪くねーもん…」
 「そんなことはいわれんでもわかってる」
 グラスを磨きながら趙量は悟浄に言葉を返した。
 「それでもお前さんは、そうやって飲み続けないといられないんだろう?」
 言葉に詰まった悟浄を尻目に趙量は黙々とグラスを磨きつづけた。
 いつも以上のハイペースでグラスを空にする悟浄に、趙量は何も言わずに付き合った。閉店時間をとっくに過ぎ、とりあえず朝がきても悟浄はグラスを空にするペースを落とさなかった。ずっと無言で、とても悲しそうな目をして。
 
 ―――まるであの時と同じだ。

 趙量はひととおりグラスを磨き終わってしまったので、仕方なくもう一通りグラスを磨こうとして、ふと手を止めて思った。
 あの時悟浄がつぶやいたのは「ジエン」という言葉だった。今は、悟浄がこんなに酔いつぶれなければならないほどの相手といったら……

 「…はっかい……」

 唐突に一言だけ八戒の名を呼び、そのまま悟浄はカウンターに突っ伏してつぶれてしまった。
 
 

 
 月が傾いて、そして、その月が沈むのを待ちかねたかのように東から太陽が昇ってきた。
 
 何故、あんなくだらないことを口に出したのだろう。
 そんなことばを本当に自分は欲しかったのだろうか。
 口先だけで、いくらでもいえるそんな言葉を。

 そんな言葉などなくても、悟浄からは、あたたかいものを、たくさん、たくさん、たくさんもらっている。

 そこまでそんな言葉にこだわるだなんて一体自分はどうしたかったのだろう。

 何度くだらないことを繰り返したら、自分は悟浄を傷つけずにすむようになるのだろうか。何度悟浄を傷つければ気が済むのだろうか。

 あのときの悟浄の顔といったら――――

 たった2音のその言葉。

 悟浄を傷つけて、あんなにつらい顔をさせて、そこまでしても欲しかったのだろうか。

 八戒は頭を振った。
 そんなことは考えるまでもない。思い悩むまでもない。
 ……欲しかったのだ。たった2音のその言葉が。口先だけでなんとでもいえるだろうその言葉が。
 エゴの塊のような自分。いや。ようなどころではなくまさしくエゴの塊の自分。
 そんな言葉で気持ちを全て表せるわけがない。そんな言葉で悟浄の全てが手に入るわけではない。

 それどころかそれを欲したために悟浄をあんなに―――傷つけた。
 傷つけることぐらい簡単に予想できたはずなのに。

 自分が好きだという気持ちを持っているだけで充分なはずなのに。充分だと思っていたのに。
 永遠など手に入りはしない。いつかは必ず終わりはくるのだ。しかもそれはおそろしく簡単に、こんなときに、こんなことが起こり得るわけがないというときに。そこから先はまるでフィルムが焼ききれたように、いきなり時間は途切れる。

 それを自分はすでに知っているから。
 知っているからこそそんなくだらない言葉にこだわるのだろう、と八戒はわかっていた。
 
「…僕って最低の存在ですね…」
 
 …関節が、ぎしぎしいって悲鳴をあげている。
 その身体を引きずるように、八戒は上半身を起こした。

 八戒の隣には、悟浄はいない。
 悟浄の部屋にも、悟浄の気配はなかった。

 まぶしいほど白い朝日が八戒の顔に楡の木の葉の影をつけた。

「悟浄…」

 一人つぶやいて、八戒は、シーツをベッドからはがし、肩からかぶって床に降りた。

 シャワーを浴びたくてたまらなかった。
 自己嫌悪に吐き気がする。
 
 …愛情ではない、同情のセックス。

 そんなものでも、すがろうと思えばすがれるものなのだと、他人事のように八戒は思った。
 シャワーの蛇口を思い切りひねり、熱い湯を全身にかぶる。
 体液が身体から流れ出る感触が太ももをつたい、八戒は寒気を覚えた。
 そのまま風呂場の床に座り込み、ずっと、ずっと、熱い湯を浴びていた。
 うずくまる八戒の背に、勢いよく叩きつけられるシャワーの水滴がはねては小さな放物線を描いていた。
 


 

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