夕月淡く照らす頃
朝目がさめて、台所にいくと、テーブルの上には見慣れない金属の缶が6個、積まれていた。
多分、悟浄の戦利品なのだろうと思って手をつけずにいたら、玄関のドアの外にも、やっぱり6個積まれていた。
近づくと、ツンと特有の匂いがして、八戒はくらくらきてしまい、一体これは何なのだろうと真剣に考えた。
手にとると、ずっしり重く、両手にちょうどおさまるくらいの大きさのそれは、中身が流動物らしく、ゆらゆら揺らめく感触がした。
「―――なんでしょう、これ?」
悟浄が起きてくるまで、とりあえず八戒は、家の掃除をすることに決めた。
「―――八戒ぃー、おねがいがあるんだけどーーー」
相変わらずパジャマの前ボタンを留めず、だらしない格好で台所の入り口に現れた紅い髪の同居人は、「おはよう」の挨拶もそこそこに、寝ぼけ眼のまま八戒に言った。
「はいはい、悟浄。わかりましたから、まあ先にご飯を食べてください」
悟浄に椅子を勧めながら、八戒は熱いアールグレイをマグカップに注いだ。
悟浄はのそのそと椅子に座り、マグカップからアールグレイを一口飲んだあと、八戒が用意してくれたトーストとサラダ、目玉焼きとコーンポタージュの食事に口をつけた。
「美味しい・・・あんがと、八戒」
「どういたしまして。―――それより悟浄、この缶、何ですか?」
「ソレね…ん、じゃあさ、俺のオネガイ聞いてくれる?」
「―――何ですか、それ。そんなやましいところのある缶なんですか?」
「…いや、そー言うわけじゃないんだけど、何も聞かずにオネガイ聞いてくれるって言って」
「悟浄…」
「な、頼む、お願い、八戒さー――ん」
顔の前に片手を上げ、右目をつむりながら八戒に向かって悟浄が言う。悪戯っぽい人をひきつけてやまない表情が、八戒の反論を封じ込める。
「…わかりました。お願いを頼まれたら、この缶の中身を教えてくれるんですね」
「…引き受けてくれんの?ありがとうVVV八戒、大スキーV」
そう言って抱きついてこようとした悟浄の手を空中でうまく泳がせて、八戒はその缶を手にとってもう一度しげしげと眺めた。抱きつきそこなった悟浄が恨めしげな顔でその缶を見つめる。
「ソレね・・・」
「悟浄の戦利品ですか?」
「そう。昨日の夜はすごく俺イケててさー。勝ちまくったの」
本当に昨日の夜はどうしたのかと思うくらい悟浄はツいていた。だいたいカードを5枚全部取り替えてストレートフラッシュだなんてどういう確率でそうなるのかまったく計算してみたくなるくらいだ。相手も同じことを思ったようで、とにかくその自分の大負け振りに、とりあえず少しは勝っておかないと大変なことになる、と何回も勝負を繰り返し挑み―――そして、彼の手元には、鼠算式にふくらんだ悟浄への膨大な借金が残った、というわけであった。
「・・・でさー、そいつ、ペンキ屋だったの」
「・・・ペンキ・・・」
八戒は絶句する。なるほど。この缶はペンキ缶だったと言う訳だ。
「もうすってんてんで金がない、って言うからさー、俺、酔った勢いで気前よく『じゃあペンキでいいぜ』なんていっちゃってさ・・・」
ほんとにペンキを押し付けられるとは思っても見なかったんだよ、と口の中でごにょごにょ悟浄は言う。
テーブルの上の6缶と、玄関の外の6缶を、何に消費しようかと八戒は思案した。
「どうせだったら悟浄の部屋の壁、景気よく全部塗り替えちゃいます?」
笑いながら八戒は悟浄に提案する。悟浄は心底いやそうに、首を振った。
「でさー、俺のお願い・・・」
「―――あれ?でも、悟浄、景気よく勝ちまくってペンキ12缶ですか?」
八戒が首を傾げて言う。言うほど悟浄は勝っていないのではないだろうか、と八戒の胸に疑問が沸き起こる。
セリフの途中で無視された悟浄は少しふくれっつらをして、それでもきちんと八戒の質問に答えた。
「んなわけねーだろ。それこそもう、山のように、店中のペンキもってきたのかってくらいに持ってきやがったぜ」
「え、じゃあ残りのペンキは・・・?」
「そこ、そこなのよ、俺のお願い。頼むからさー、八戒、手伝って?」
「もちろん構いませんけど、でも、この家にペンキを山のようにつんでもねえ・・・」
「そうじゃなくて。実はさ・・・」
酒場のマスターに悟浄は大変お世話になっている。
本人にはその自覚がほとんどないが、マスターの方には大有りで、隙あらば悟浄にタダ働きをさせようと目論んでいた。―――何せ、悟浄のおかげで何杯客にタダ酒をおごる羽目になったか、マスターは几帳面な性格なので、全てをきちんと覚えていた。グラフにして悟浄に突きつけても悟浄は何もいえないだろう。
そこで、昨日山のようなペンキ缶を手に入れた悟浄に、マスターは、渡りに船とばかりに、店の外壁のペンキ塗りを命じたのである。悟浄も抵抗したが、それはほとんど無意味な抵抗であってだれがどう見てもマスターの方に分がある命令であった。・・・ので、仕方なく悟浄は「明日やる」といいおいて酒場を後にしてきたのである。とりあえず、12個だけペンキ缶を手にして。
「・・・だからさ、八戒、ペンキ塗るの手伝ってよ」
「・・・・・・・・・悟浄・・・・・・・・・」
あきれた顔でため息をつき、八戒は悟浄に背を向けた。
「八戒さー――ん、お願い、聞いてくれるって言ったじゃん」
「・・・分かってますよ。もう。―――で、何時に行く約束をしてるんですか?」
「んー――、店が始まる前までに塗り終わるってことになってる」
「じゃあ、早く行かないと―――ほら、悟浄、早く着替えてきてください」
悟浄をせきたてて、八戒は急いで悟浄の朝食の食器を洗う。
かちゃかちゃと音を立てて皿を洗いながら八戒は悟浄の気配が台所から去ったことを感じ取り、そしてふと言葉をもらした。
「―――もう、ほんとに、仕方ないんだから」
…そういった自分の顔が自然に笑顔になっていることに気づき、八戒はとても驚いた。
悟浄が自分にそうやって甘えてくれることがとても嬉しい、なんて・・・
人当たりの良い(ように見える)自分に、無理なお願い事を持ちかけてくる人間は結構いた。いやだとは微塵も表情に出さずにそのお願いをこなすことのできた八戒だが、それを嬉しいなどと思ったことはなかった。―――ただ一人の存在を除いては。
彼女が望むなら、何だってしてあげたかった。
彼女の笑顔を見るためなら、何をすることも苦痛ではなかった。むしろ、それは自分の喜びだった。
彼女の隣で、彼女の笑顔を見て、彼女を抱きしめて、そしてその細い腕が自分を抱きしめて、その形の良い唇が、「ありがとう―――」と自分の昔の名を紡ぐ・・・
それは、とてもとてもとても幸せな光景。
二度と、決して自分が手にすることの出来ない、温かい風景―――・・・
そのたった一人の存在を失ってから、無理なお願い事をされるような付き合いをする人間もいなかったので、八戒はそんなことをすっかり忘れていた。
誰かに、頼られる。
どんな些細なことでもいいから、誰かが、自分を必要としてくれる。
・・・いや、少し違う。
誰かに、必要とされたい、と思うこと。
誰かに、頼られたい、と思うこと。
そんなふうに思える誰かがいるということが、こんなに嬉しいものだということ――――――
「お待たせ―、八戒、行ける?」
身支度を整えた悟浄の声で、思考を中断され、八戒は我に返った。少しボーっとしていたらしい。
「ああ、ごめんなさい、悟浄。あと少しで洗い終わりますから、かっぽうぎと三角巾、用意しといてくださいね」
その言葉に悟浄が大げさに反応する。
「えええっ、そんな格好するの????」
「だってペンキ塗るんでしょう?手に付いたペンキならともかく、服や、髪についたペンキは絶対にとれないですよ?」
「―――――――――――――わーったよ・・・・・・・・・」
肩を落として三角巾を探しに行く悟浄の背中を見送って、八戒は大急ぎで残りの食器を片付けた。
「・・・ああ、あんたが八戒さんか。俺はここのマスターをやっている、趙量ってモンだ。よろしくな」
「・・・よろしくお願いします」
差し出された右手をにっこり笑顔で握り返し、八戒はその趙量と名乗った男の見事な口ひげに感心した。
「いやー、俺はどうでもいいんだけどね、悟浄がどうしても今までの借りを返したい、って言うもんだから、この店のペンキ塗りをお願いしたわけで。―――手伝い、本当にご苦労さん」
マスターの言葉に、八戒は苦笑し、悟浄は激しく脱力した。
「・・・・・・マスター、話が違う・・・・・・」
「全ッ然ちがわない。さ、悟浄、頑張って働いてくれよ」
冒頭の言葉にえらく力を込め、マスターは背中越しに片手をひらひら振りながら店の中へと消えていった。
「・・・悟浄、よっぽど普段の行いがいいんですねえ」
マスターの背中が店の中に消えるのを確認して、くすくす笑いながら八戒が言う。
「・・・もうなんとでも言って・・・」
肩を落として、悟浄が言う。かっぽうぎを着け、三角巾で髪を保護した悟浄の格好はとてもとても「いけてるおね―ちゃん」達には見せられないシロモノであった。
「似合ってますよ、悟浄。さあ、さっさとやってしまいましょう」
八戒はそう言って、濃い茶色のペンキをたっぷりとすくいとり、ローラーで壁に塗りつけた。しぶしぶ悟浄もそれに従う。
こじんまりした店だが、外壁はそれなりに広く、かなり気合を入れないと絶対に夕暮れ時の開店までには間に合いそうになかった。
まず、とりあえず東の側面をつぶしていくことにして、二人は黙々とローラーを動かした。
「…飽きた」
「…あっという間ですねえ。飽きたなら飽きたでかまいませんから、ほんとに早くやってしまいましょうよ」
八戒がローラーを動かす手を休めずに言う。なんでもそつなくこなせる彼は、すでに東の壁の右半分の下半分―――つまり全体の1/4を、塗り終えていた。
「だってこんな格好さー…」
「似合ってるって言ってるじゃないですか。ほら、うだうだしてても時間がすぎるだけですよ」
やる気のでない悟浄を励ましつつ、八戒は自分の背より高いところの壁にとりかかろうとしていた。
もともと身長があるほうなので、自分の胸から下はかなり楽に塗れた。
胸から顔にかけてはちょっとペンキの匂いにくらくらきてしまったがまだ何とか塗ることができた。
しかし、自分の背より高いところは、何か台を持ってこないとやはりペンキを塗るというのは無謀なことだった。
手を高く上げれば、ローラーからペンキがぼたぼたと八戒をめがけてふってくる。
三角巾とかっぽうぎにペンキのしみを7つつけたところで、八戒はこのままペンキ塗りを続行することをあきらめた。
台を持ってこなければ話にならない。
「…あれ?悟浄?」
いつのまにか悟浄の姿が消えていた。どうやら八戒が高いところに悪戦苦闘している間に、どこかに消えてしまったらしい。
―――だいたい、ペンキ塗り頼まれたの、悟浄なんだけどなあ…
少しぼやいてみてもバチはあたらないだろう。まだペンキの洗礼を受けていない壁はそこかしこに残っている。
とにかく手を動かさないことには何事も始まらない。
ため息をついて、ローラーを手に、何か台になるものを探しに八戒がきょろきょろした瞬間、ひざの後ろにひざがあたり、かくん、とそのひざが折られた。完全に不意打ちをくらい、ローラーを持つ右手を高く上げて、八戒はあわててバランスをとろうとした。
「――――っ悟浄―――!」
「あはは、ごめんごめん。こんなに簡単に引っかかると思わなくってさー」
ローラーからまたペンキが落ちて、かっぽうぎにまたしみを一つ増やした。
「…自分には塗るなよ」
悟浄の澄んだ紅い瞳が細められ、八戒の碧に重なった。ちょうどその瞬間に悟浄ははじけるような笑顔を見せて、八戒に言う。
文句をいおうとした八戒は、その笑顔に言葉を封じ込められてしまった。
きれいな紅い瞳が自分の心の深いところにつきささったように感じ、なぜだか分からないが鼓動が早くなっていくのを自覚した。
そのまま何も言えずに、悟浄の長いまつげをじっと見つめる。
鼓動はますます早く激しくなり、耳に血が上って多分赤くなっているだろうと思うとこめかみの脈打つ様子まで敏感に感じ取ってしまう。
なぜ…?
…どうして?
悟浄の笑顔がこんなに胸をかき乱す。
絶望の淵が、口をあけているだけのはずのこの自分の心の奥に、その笑顔が強烈な紅の光をもたらした。
どこまでいっても行き着くところのないと思っていた暗い暗い虚ろに底を作ってくれたのは悟浄。
そして今、その闇を照らすのも――――?
「どしたの?八戒」
悟浄が八戒の顔を下から覗き込んだ。