夕月淡く照らす頃

「いやー、間に合うとは思わなかったよ。ご苦労さん」
そう言って趙量は、店のマスターは、悟浄と八戒に水を差し出した。
「ありがとうございます」
八戒はそう言ってグラスを受け取った。
「礼なんていう必要ね―んだよ」
毒づく悟浄はごくごくと一気に水を飲み干した。

 日が暮れる寸前、店を開ける時間の5分前、ようやく八戒と悟浄は(正確にいうと、ほとんど八戒は、なのだが)ペンキを塗り終えた。
「踏み台の威力は絶大だね。あれ持ってきてから八戒のスピードめちゃくちゃあがったもんなー」
悟浄がご満悦の表情で言って、マスターにもう1杯水を要求した。マスターはその手をぴしゃりと叩き落すと八戒に向かって笑顔を作って言う。
「ほんとは悟浄一人にやらせとけばよかったんだけどね。八戒さん、本当にありがとう」
そして、八戒の空になったグラスに水を注ぐ。
「なんだよ、何で扱いが違うんだよ」
「サボってばっかりのお前さんと、付き合う義理も手伝う理由もないのにこんなにペンキまみれになって店をきれいにしてくれた八戒さんとどちらをねぎらうべきかなどという愚問には、俺は答える必要を認めない」
「まあまあ…」
 八戒が苦笑して八戒に注いでくれたグラスを悟浄にまわす。悟浄は美味しそうに水を飲んだ。
 趙量はそれについては肩をすくめるだけで何も言わなかった。かわりに、晩御飯でも食べていけよ、と二人を誘う。
「勿論おごりだろーなー」
「何で俺がお前さんなんぞにおごらなきゃならんのだ」
「こんだけマスターの店に献身したのに、そんなカミサマみたいな客から金をとるっていうのかよ」
「……鳥頭か、お前さんは。献身してくれたのは八戒さん。お前さんはサボってたほうが多いだろうが」

そんな二人のやり取りを聞いているうちに八戒は心の奥でなんともいえない感情が湧いてくるのを自覚した。

あえて表現するなら、「いいなあ」という感情。

 悟浄と趙量はどう見ても悪口友達で、だいたいにおいて悪口友達をハタからみると、その二人の距離はとても近いもののように見えるという寸法である。
 当然、八戒は、悟浄の悪口友達ではなかった。
 
 自分と悟浄の距離がバカのように離れていると感じるのはこんなときだ。
 
 悟浄は優しい。
 本当に優しい。
 優しさを装うというよりも、うまれ付いて優しさを持っているとしか思えない。
 それだけ優しくて、だからこそ強い、悟浄に自分は気を遣わせてばかりだ。

 甘えて、そしてそんな悟浄を好きだ、などと思う自分がひどくみっともなく見える。

 ……好き?

 …何度でも確認できるが、それは確信をもっていえる。

 悟浄が好きだ。
 悟浄の笑顔が好きだ。
 悟浄のその鮮烈な紅の瞳が好きだ。
 食べるものはオヤジくさくても、家事処理能力はほぼ皆無に近くても、いつまでたってもゴミの日を覚えなくても、女好きでも、酒好きでも、煙草好きでも、それでも、悟浄のそばにいたいと思う。
 できることなら、自分でできることなら、いつだって笑顔でいてほしいと思う。

 それは本心だ。間違いない。

 しかし、そもそも、こうやってそばにいたい、だの、好きだ、だの、そういう感情が自分の中からあふれてくること自体八戒にとっては大変な驚きだった。

 ……好き?…自分が、悟浄のことを……?

 ……一口に好き、といったって好きにだって色々レベルがあるだろう。
 三蔵のことは好きだ。
 悟空のことだって好きだ。
 だから悟浄のことも好きだといって何らおかしいところはない。
 ない、はずなのに…
 
 何か少し、違う気がする。

 三蔵を好きなのと悟空を好きなのとはほとんど同じだ。
 でも、三蔵や悟空を好きなのと、悟浄を好きなのとでは、少し、違う気がする――――

「――――え?」
「……どしたの、八戒?」

 悪口交換会が佳境に入ったところで(いつだって佳境なのだが)、八戒が思わず声を漏らしたのに悟浄が反応した。
 鮮烈なその紅の瞳をまっすぐ八戒の瞳に合わせて心配そうな顔で覗き込む。

「…いえ、ちょっと聞こえなかったもので…」
「ダイジョーブ?疲れた?そろそろ帰るか?」
「大丈夫ですよ。もう少し、楽しんでいきましょうよ。せっかくのご好意なんですから」
 
 何とか笑顔を作って八戒は答えた。しかし、彼の頭の中はますます混乱してきた。

 だから、自分は悟浄のことが好きなだけだ。

 しかし、好きなだけ、とはいっても三蔵や悟空を好きなのとはちがう。
 それなら、どのレベルの好きなのかと言われれば、どのレベルなのだろう、と八戒は真剣に考えた。

 好きだ。悟浄が好きだ。
 ハグしたいと思うくらい、キスしたいと思うくらい、悟浄のことが……

 好き、だ。
 多分、特別に。

 …八戒の前のグラスに入っていた大きな氷が少し溶けて、カラン、と音を立てた。
 
 そう思ったとたん、八戒の心は恐慌をきたし始めた。

―――そんなことを思う資格はすでに自分にはないというのに。
 誰かを好きになること、それが特別だと思うこと、そんなことを思えるほど自分の犯した罪は軽くない。

 花喃は死んだのだ。
 自分の目の前で、自ら腹を抉り取り、そこに宿っていた憎しみの子もろともに。
 自分の特別は花喃だけだった。
 花喃の特別も自分だけだったのだ。

 それを――――

 彼女を守ることすらできず、彼女を苦しめて、あんな残酷に、死なせて……
 彼女を救うためだけに虐殺を繰り返し、咎なき人の血で、この醜い手を真っ赤に染め上げた。

 どう罵られても、どんな仕打ちを受けようとも、その程度のことで許される自分ではないことはとっくにわかっている。

 そんな自分が。

 1000回殺されてもまだ有り余るだろう憎悪をこの身に受けている自分が。

 本来なら普通の生活を送ることすら叶わないほどの罪を背負ったまま自分はのうのうと生き延びて、そしてその上さらにこの優しい、強い、紅の同居人に強く魅かれているなんて―――――
 
 絶対に、許される、ことではない。
 間違いなく、認められる、ことではない。

 こんな思いを抱くことができるほどの幸福を自分が享受してはいけない。
 
 この思いは、完全に押し殺してしまわなければならない。
 完全に――――そう、完全、に。

「…やっぱ疲れた?八戒、そろそろかえろっか」
瞬きもせず自分の前のグラスの氷を見つめている八戒に悟浄が声をかける。
一瞬だけ、背中をびくっと震わせて、そして八戒は悟浄を見上げて、笑顔で答えた。
「…はい、僕、帰らせてもらいます。―――悟浄は、もう少しいてくださいよ。もうすぐ『いけてるおね―ちゃん』のみなさんもいらっしゃるでしょうし」
…悟浄の顔がみるみるうちに青ざめ、そして、心の中に大きな氷の塊を突然ほおりこまれたような表情で固まった。

八戒は、冬の笑顔で答え、冬の笑顔のまま、席を立ち、店を後にした。
 

 
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