筆に墨を付ける。
ほんのちょっとでいいのだが、つい力が入ってしまう。
べちゃという感覚と共に飛び散った墨のことは気にせず、とにかくいそいそと筆を硯にすべらせる。
そうして彼は、一気に最後の一筆を走らせた。
――山南ケースケ・作
「できたよッ!」
一人で叫ぶ。応じてくれるものはいない。
もっともそれは、山南自身が「自分が発明をしている時は近寄るな」と命じているからで、
そう命じなくてもおそらく誰も近寄ろうとは思わないだろうが、
ともあれ、こんな時には少し寂しかった。
「……」
無言でメガネの縁に手をやる。
「……ふふ」
それでも抑えきれない笑い。
「……ふふふははははッ」
深夜、まだ墨のしたたる図面を手に握りしめ、一人立ち上がって歓喜の笑いをあげる心戦組副長。
だから誰も近寄らないのだ、ということは、山南ケースケは知らない。
◆
それから数日後。
山南はいそいそと心戦組御用掛である精工所から、出来上がった品を受け取りに行った。
刀剣類その他、心戦組で使う武器くらいは自分のところで自作できるようにすべきだとは、
常々幹部会議で主張していることなのだが、なかなか理解されない。
助勤である山崎ススムにいわせると、「黒船くらいは造れるドッグが必要だ、は無茶です」だそうだが、
山南にはまったく理解できなかった。
――あれだけ刀は武士の魂だとか言っておいて、恥ずかしくないのかねえ。
――刀だって、黒船だって、似たようなものじゃないかッ!
「まあ、そうですが」と、山崎は言った。
「とりあえず面積と体積と予算について、考えてみませんか、山南さん」
「十も百も同じことだよッ!」「……そうですか」
あとはそれっきり、山崎は何も言わなかった。ただ、彼が呆れていることは、分かった。
いや、呆れているというよりは、諦めの感情に近かったような気がする。
それはきっと、山南の考えを理解しない凡人どもに対してだろう。……と、山南は思っていた。
「まあ、いいよ……」
ふっと笑う。天下の往来で。手にした荷物を抱きしめながら。
「私は私に出来ることをやっていくのさ……」
これは黒船ではないけれど、刀でもないけれど、大切な大切な発明品だった。山南にとって。
「ふふっ。ふふふふふっ」
受け取った相手の顔が楽しみだった。それを考えるだけで、山南の心は
自分を理解しない凡俗どものことなど忘れて、幸せになる。
――だからといって、往来でいきなり笑い出すのは止めてください。
山崎ならきっと、そう言っただろうが。
◆
「……」
そして、その当の山崎ススムは、山南ケースケが差し出した包みを見て、沈黙していた。
「プレゼントだよッ」
何を照れているのかな?と思って、山南は笑う。
「山南さんが、僕にですか」
山崎は淡々と尋ねる。そこには照れ以上の感情があった……なんだろう、よく分からないが。
強いて言えば……恐れだろうか。
「怖がる必要はないよッ」
ニッコリ笑って見せた。本当に本当に、早くこの包みを開けて、中を見て欲しかった。
「はい」
山崎はうなずいて、観念したように包みを開ける。……そんなに照れなくても、と山南は再度思った。
そこから出てきた物を見て、彼は沈黙した。
山南はその顔にうつる表情を、注意深く観察する。
一般に、山崎ススムは無表情な人間だと言われているが、山南にはそれも理解できなかった。
彼ほど表情豊かな若者もいないよ――、と思う。
どうしてみんな分からないのかなあと、不思議でしょうがなかった。
ほら今だって、その顔にはまず驚きが浮かび、ついで注意深く観察する視線になり、
それから何故山南がこれを出してきたのか考え込む顔になり、
最後に何を言ったものか思案する表情になる。まったく、手に取るようにそれが分かった。
……ただ、長年の経験から、つい身構えてしまうのだが。
山崎ススムは口調がするどい、それはちょっと、確かにそうだと山南も思っていた。
「山南さん……」
「うん!」
「これは、なんでしょうか」
「え?」
意外すぎる反応だった。彼ほどの明敏な若者が、見て分からないなんて。
「手裏剣だよッ」
「はい」
山崎はうなずく。それは分かっていますという深い同意が、そこには込められていた。
「ただし、巨大ですね」
「うん、そうだね」
刃の先から根本まで、大人が伸ばした腕の長さほどもある。
一抱えという言葉では、ちょっと足りないくらいの大きさだ。
「でもなんの問題もないよッ」
彼を安心させようと、先回りして言った。
「ちゃんと山崎くんの腕の長さは測って作ったよ」
「……はい。そういえば先日、いきなりそんなことを言われました」
「これは君なら使えるよ」
思わず笑みがこぼれる。自分が作り出したものに対する誇り。制作者としての。
それを見て山崎は……沈黙した。
「え、何か変かな?」
「いえ……。ありがたいと思うのですが」
「言いたいことがあるなら、言っていいんだよ」
「山南さん。手裏剣って、手の中に隠し持てるから手裏剣って言うんですよ。知っていますか?」
いやそこまでは知らなかったけれども。……山崎くんって博識だね、と山南は思った。
「僕は密偵なんです。動きを邪魔するようなものは出来るだけ持ってはいけないんですよ」
ああ、だから君はいつもそんな寒そうな格好をして、刀も差さないんだよね。
「これは、率直に言って邪魔です」
さくっ。率直すぎる言葉が胸に刺さる。
邪魔だなんて、邪魔だなんて……山南が山崎のために懸命に作ったものが邪魔だなんて……。
だ、だから、君はみんなに誤解されるんだよッと、心の中で懸命に応戦していた。
その一方で、心はふっとくじけて倒れそうだった。制作者というのは孤独な仕事だ。
だからこそ、土方にも近藤にもなかなか理解されない。……黒船ドッグの必要性が。
思わず現実から乖離しはじめた山南の心をつなぎ止めたのは、やはり山崎の一言だった。
「でも山南さんが作ってくださったものですから。使いこなしてみせます」
きっぱりとした一言。いかにも彼らしい、迷いのない、そして希望ではなく事実のみを述べる口調。
「そ、そうかい!?」
心は浮き立つ。たったその一言で、すべては報われたような気持ちになる。
「あ、あのね、僕だってちゃんと考えたんだよ。携帯するときは刃を折りたためるようにとかさっ」
もっとも、折りたたんでもそんなには小さくならないのだが。
「それで強度的には問題ないんですか?」
「あ、大丈夫だよ。手裏剣っていうのは飛ぶ、つまり回転する方向が一定だから、
加重の計算はしやすいんだ」
山崎は左手を伸ばして、机の上の手裏剣――巨大手裏剣を手に取った。
「君は常々、攻撃力の不足に悩んでいただろう?
一気に敵を制圧できるような力も、時には必要ですねって」
「ええ、確かにそう言いました」
「これなら、簡単に敵をなぎ倒せるよ」
「はい。巨大ですからね」
さくっと微妙に刺さるものを感じつつも、言葉をつなぐ。
「ちゃんと投げたらこっちに返ってくる機能まで付けたんだよッ」
「それはすごいですね」
山崎は深くうなずいた。皮肉ではなく、本心から言っているものだと分かった。
彼は山南のことを理解してくれる、数少ない人間だった。
山南の発明を、その価値を、ちゃんと理解して評価してくれる。……ただちょっと口は悪いけれども。
「そして、僕はそれを受け止めるんですね。敵を制圧できるような、巨大な手裏剣が戻ってくるのを」
「で、できないっていうのかなッ!?」
「いえ……できます」
やけくそのように叫んでみた山南に対し、山崎は軽くうなずいた。
「山南さんが作ってくださったものですから。使いこなしてみせます」
彼の瞳はじっとこちらを見ていた。皮肉ではなく、冷笑でもなく、ただ真摯に。
「大丈夫です」
その言葉はちょっと、山南にというよりは、自分に言い聞かせているようだったけれども。
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