遊女の恋 中編


しかも彼の災難は、まだこれで終わらなかった。

数日後、上司が言ってきたのだ。「先日のお礼のために、彼女と一席もうけてきて欲しい」と。
「……自分で行ったらどうですか」と冷たく拒絶したのだが、「僕はああいう席は苦手なんだよッ」と
なんの説得力もないことを言われてしまった。
――「こ、これは命令だよ、山崎くんッ」
……理不尽極まりなかった。

というわけで、山崎は今、先日と同じお茶屋で彼女が来るのを待っていた。
こういったところの手配はさっぱり分からなかったが、そこは万事遺漏なく――珍しいことだ――、
山南が整えてくれた。それがまた、とてもムカつく。

さほど広くない座敷とはいえ、きちんと床の間には掛け軸が飾られ、花が生けられた席で、
目の前には酒肴を入れた一人分の膳が置いてある。足の高い、一人分だけの盆だ。
座っている座布団も上等なものだし、もちろん掛け軸も花器も一流品なのだろう。
この一席にいくらかかっているのか、考えることは無粋なんだろうと思いつつも、会計を預かる身としては
気にせずにはいられない。もっとも、これもまた、山南のポケットマネーから出ているらしかったが。
――やっぱり、理不尽だ。その思いを強くする。

「梅葉さん、いらっしゃいました」
女将がふすまを開けて、頭を下げる。その後ろには、先日の芸妓が立って、にんまりと笑っていた。
「今日はありがとさんどす」
しゃりしゃりと着物のすそを引きずりながら入ってきて、優雅に座り、深々と頭を下げる。
山崎もそれに対して、軽く返礼した。その程度の礼儀はある。
もっともここから先が、どうしていいのかさっぱり分からなかったが。

「では、ごゆっくり」
女将が退出したところで、芸妓はさらにこちらに近寄ってきて、酒器を取り上げる。
「今日は嫌やとは言わはらへんやろね」
「正直なところ、嫌ですが」
彼女――梅葉さんは、上品に微笑んだ。
「ほんまに正直なお人どすな」
そう言いながら酒杯を差し出して、山崎の手に握らせ、酒を注ぐ。
別に受けようとしたわけでもないのに、流れで自然と受け取ってしまっていた。
なるほど、これが酒席にはべる芸妓の技かと思う。参考になるところも、ないではない。

山崎はくいとまた一口でそれをあおった。
「では、これで」
彼としてはもう充分義理は果たしたつもりだった。
「あら、お帰りにならはるんどすか?」
「はい」
「それではうちが困りますわあ」
「お花代はきちんと払います」
つまりお座敷料さえきちんと払えば、あとは早く帰ってもいいだろうと、そういうことだった。
「あら、それは……」
「無粋ですか」
無粋でも一向に構わなかったが。
「ええ、無粋やね」
にっこりと微笑む。何を考えているのか相変わらず分からない笑顔だが、なんとなく悪意は感じた。

「それにうちも困りますわあ」
「何がでしょうか」
「恥をかきます」
「……」
それは確かに、困るかもしれない。誰が困るのかはよく分からないが。
ここはそもそも、よく分からない理屈で成り立っている街だし。
そして、彼女にお礼をしろというのが上司の命令だからして。

山崎は、率直に言って、どうしていいのかさっぱり分からなかった。
そして彼はひたすらに、自分をこんなところに放り込んだ上司を恨んだ。
「あらまた目が怖くなってはる」
「生まれつきです」
「うん、きっとそうやろね」
「梅葉さんは……」
彼は軽く首をかしげた。この女性はどうも、生まれつきの壬生人ではないっぽいなと思いながら。
「なんどすか」
「山南さんとはどういう付き合いなのですか」

「あはは」
ころころと鈴を転がすような音で、彼女は笑う。
「ほんまに単刀直入どすな」
「いけませんか」
「ええ、あんまり好まれることやおましまへん。この街ではやけれども」
「でも貴方も、ここの生まれではないでしょう」
ふっと笑いがやんだ。
「……ええ、ようお分かりにならはりましたな」
「そういう仕事ですから」
「でもそれも、無粋どすわ」
彼女はまた、空になった山崎の酒杯に酒を注ぐ。

「何故でしょうか」
「お兄さん。誰もが好きで花街に身を置いてると思わはりますのん?」
「……」
その言葉は、確かに山崎を一瞬絶句させるものがあった。
「まあ、うちは好き好んでこの街に来たんどすけどな」
梅葉さんはまたころころと笑う。――本当に意地悪な人だと思った。
「それでさっきのお答えやけれども」
「はい」
山南さんとの関係について、だ。
「昔からお馴染みにさせてもろうとります」
彼女は意味ありげな流し目で、こちらを見ながら微笑んだ。まったくもって、食えない。

「それはどういう意味でしょうか」
ひたすら単刀直入に聞く。別に無粋でも……そんなこと、構わなかったし。
「いややわあ」
そう笑いながらも彼女は楽しそうだった。
「嫉妬してはりますのん?」
「……そんなことはありませんが」
「どっちに嫉妬してはんのかは、面白いところどすけどなあ」
「……」
こうやってひたすらにはぐらかすのが手なら、どう話させたものか。
密偵としては、戦い甲斐のある相手かもしれないが。

「まあ、こちらも単刀直入に答えまひょ」
彼女はすっとまなざしをあげた。そうしている方が、ずっと魅力的だった。凛として華やかで。
「別にうちとあのセンセとの間には、なーんもあらしまへん。便利に使われてるだけどす」
「はあ」
「山南センセはこういうところが苦手どっしゃろ。だからうちみたいな芸妓が便利なんどすわ」
「……それはどういう意味でしょうか」
梅葉さんはふっと笑いながら頭のかんざしに手をやり、意味ありげに山崎の盆を眺めた。
そこにはもう一つ酒杯が置いてある。山崎はそれを取り上げて、彼女に渡した。
「ありがとさんどす」
頭を軽く下げる彼女に、酒を注ぐ。梅葉さんは一息でそれを飲み干した。ごく自然に。

「だって先日もそうどっしゃろ。
 あのセンセ、お話なはることと言ったら、ご自分の発明品のことばっかりやし」
「はい……」
「でもそれしか話せはらへんのが、山南センセってお人どすやろ」
「ええ」
「勘違いせんとってね。それはうちがこんなお商売しているから、分かることどす。
 別に他意はあらしまへん」
女性は本当に食えないなと山崎は思った。
でもだからこそ、人が惹かれる理由も、なんとなく分かる気がした。
「だから毎回うちを呼ばはりますし、お座敷を任せはりますの」
梅葉さんは再度杯を出す。山崎は黙ってそれに酒を注いだ。
「はっきり言うて、山南センセのほうが、あんたはんより何倍も無粋なお人やね」

黙り込んだ山崎を見てまた笑いながら、彼女は自分の酒杯を飲み干し、酒器を取り上げた。
山崎の杯に酒を注ぐ。
「……それは、どういうことでしょうか」
聞いてはいけないことのような気がしたが、それでも聞いてしまったのは、
やっぱり山南さんのことだからだろう。
「そこから先は、ご自分で考えておくんなはれ」
あっさりと拒絶される。
山崎はまじまじと、相手の姿を見た。島田に結った髪。そこにゆれるかんざし。
舞妓のように華やかではないが、落ち着いた品のある着物。でもどこか、自堕落な。
隙があるというのだろうか。でもそれも、きっと戦略なのだろう。花街で生きる女としての。
けれども、だからこそ彼女はどこか浮いている。祇園らしくない……そう思った。

彼女はそうやって見られることを楽しむかのように、微笑む。
「あなたは、山南さんのことが好きなんですか?」
「違います」
その言葉が本当か嘘か、分からなかった。

「代わりに昔話でもしてみまひょ」
「はい」
彼女の話の中から真実を探す。それがこの場合の答えのような気がしていた。

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