「昔あるところに、一人の舞妓がおったんどす。そりゃもう器量よしで、舞の才能もありましてな。
お座敷はいっぱいかかりましたし、旦那になりたいって引く手あまたでしたんえ」
彼女自身のことだとすぐに分かったが、もちろん口に出すような――無粋はしなかった。
「けれども彼女、自惚れてしまいましてなあ。毎晩のように遊び歩くし、芸事の稽古も放り出してね。
若かったんやろねえ」
首をかしげて、はんなりと笑う彼女に、酒を注ぐ。この酒杯に入る量などたかがしれている。
だからこれは、注いでもらうための器で、そして注いでもらうことによって酔うための器なのだ。
「気がついたらもう舞妓としてはええ歳で、けれども芸妓として一本立ちするには……能がのうてね」
「そういうものなのですか」
「ええ、花街はそんな甘いところやおへん。舞妓のうちはそりゃもうみんなちやほやしてくれますえ。
それは舞妓が子供やからね。けれども芸妓になったら、やっぱり芸を売るお商売どすからなあ」
彼女は酒器を取り上げて、山崎の杯を満たす。その仕草は、指の先まで行き届いて美しい。
それもまた、一つの芸なのだろう。彼はようやくそれが分かり始めた。
「それで彼女、どうしたと思います?」
「分かりません」
「枕芸者になったんどす」
「それは、どういうことでしょうか」
「お客と寝るいうことやね」
あっさりと言われたので、理解するまでに時間がかかった。
そして理解した後は、彼女のことが見られなくなった。
山崎はぼんやりと山南さんのことを考えた。あの人はこの話を知っているのだろうかと。
けれど多分、知っても、あの人は梅葉さんへの対応を何も変えないだろうと。
だから彼女は……山南さんに利用されても平気なのだし、分かった上で山南さんは彼女に頼るのだ。
二人が似合っているというのは、そういうことなのだと、山崎は苦く思った。
「いまでも、そうなのですか? 彼女は」
「今は……いい旦那はんがついてくれましたから、そんなことはしてまへんけどね。
それでもやっぱり、花街の鼻つまみもんやわねえ」
「そういうものなのですか」
その旦那というのは、山南さんではないだろう。あの人はそんな金があれば、発明に費やす。
山崎は確信を持って思えた。……こんなこと、どうして最初から気付かなかったんだろうと思いながら。
「だって今でも大して芸事は出来まへん。彼女に出来るこというたら、お酒の席の場を保たすことくらい」
「芸を練習するというわけには……」
「お兄さんは若こうおすなあ」
彼女は笑う。楽しそうに。
「五年の間芸をさぼりましたら、取り返すのに十年かかりますのえ。その間に、とうが立ってしまいます。
花の命は短いどすさかいに」
山南さんは、そんな彼女を利用しているのか……。それは苦い話だった。確かに無粋なことだった。
けれども、悪いとか卑怯とか切り捨てるのも、また間違い――無粋なのだろう。
この街は本当に複雑なのだと、山崎は思った。
……自分には縁遠い、けれども山南さんという人の有り様には、きっと近い。
「すみません」
彼は頭を下げた。
「いややわあ。何もお兄さんに謝ってもらうことなんか、おまへんのえ」
「それでも……すみません」
彼は頭を下げる。上司の代わりに。あの人の代わりに。
◆
「地方はんがいてくれたら、一席舞えるんやけどね」
梅葉さんはぽつりとそう言った。だから山崎は、自分が三味線を弾けることを告げた。
こういう芸を一つ持っていると、どこにでも出入りできるから。だから覚えたことに過ぎないが。
「お兄さん、ほんまにええ男はんやね」
そう言いながら、彼女は舞った。曲は「梅にも春」。まだ舞妓だった頃に、たくさん舞った曲だという。
でも、この曲の本当の意味を知りながら舞えるようになったのは、ようやく最近だと。
彼女の舞は美しくて、どこか悲しかった。けれども悲しいと思うことは間違いなのだと、
山崎は黙って三味線を弾いた。丁寧に。自分に出来る限りの技量を込めて。
まだまだ下手だなと思いながら。
舞終わった梅葉さんは、「ほな、もうええ時間どっしゃろ」と言った。
「これでお兄さんも義理は果たしましたえ」と。
山崎は……黙って立ち上がった。自分にはそれ以上のことは出来なかったから。
ただ帰ってどういう顔で山南さんに会えばいいのかも、よく分からなかったが。
「なあ、山崎はん」
「はい?」
振り返る。梅葉さんは座敷の上に正座して、穏やかに笑ってた。
「あんたはんは、山南センセのことが好きなんどすか?」
「……はい」
うなずく。どうして言ってしまったのだろうと思いながら。それはきっと、この人にとっても酷なことなのに。
「それはええことどすな」
彼女ははんなりと笑った。嬉しそうに。多分、心の底からの笑顔だった。
「頑張りやっしゃ」
凛とした花街の女の言葉。
「はい」
山崎も頭を下げる。
彼女は前と同じように深々とお辞儀をして、山崎を送り出した。
「もう来んといておくれやす」
そう言って笑いながら。
「あとそれから……これは秘密やけどね、うちは確かに山南センセのこと、好きどしたえ」
最後の背を向けた瞬間、もっとも油断したときに、さくっと刺された。
山崎は小さな微笑を浮かべながら――それは彼にとってとてもとても珍しことだ――、
その敗北を受け入れた。そうして花街を後にした。
◆
「山南さん、ちゃんと会ってきました」
戻ってから、一応報告はする。
「うん、ありがとう」
そう言ってうなずく人の顔を、複雑に眺める。
「彼女――梅葉さんね、もうすぐ身受けされるんだ」
山南さんはそう言いながら、窓の外を眺めた。
「いい旦那さんが現れて、よかったよ」
その言葉にはなんら裏表がなく、だからこそ、残酷だった。
ひどい人だと思いながら……山崎は決してそんな山南さんのことが嫌いにはなれない自分も知っていた。
恋とはそう単純なものではないのだと、あの街とそこで生きる一人の女性が教えてくれたから。
「会いに行かないんですか?」
尋ねる。
「彼女はきっと、僕には会いたくないと思うよ」
「……そうでしょうね」
うなずいた山崎に向かって、山南はふふと笑った。
「ねえ山崎くん」
「なんでしょうか」
「僕は……ひどいのかな」
「ええ」
そうか……と、傷ついたように山南は肩を落とした。――山崎くんが言うなら、そうなんだろうね、と。
――でも僕には他のやり方なんて分からなかったんだよ、と。
そんな気弱な愚痴を言う山南さんは珍しかったので、思わず手を伸ばしかけて、でも止めた。
多分、彼女への義理立てで。
けれども明日になればまた、山崎は山南のために奔走する。彼に振り回されながら、彼のために働く。
そう、まるであの人のように。
だがそれは自分も望んだことで、だからこそ相手を卑怯だと思っても、それすら愛してしまうのだ。
……それが恋。
遊女の恋のように、本来恋してはならない人に恋してしまったからこその、胸の痛み。
でも、それが恋。
2007.3.20
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