遊女の恋 前編


春にはまだ早い季節。宵闇の中、足元をほのかに照らし出す行燈の灯り。長方形の石畳はすり減って、
その上を歩いてきた多くの人々の名残と歴史を感じさせる。辺りに立ち並ぶのは古い町屋。
それぞれが商売をしている店なのだが、のれんは控えめで屋号も気をつけてみていないと分からない。
そもそも間口が狭く、ただひたすらに控えめな木戸が並ぶせいもある。
しかしこの街に流れる空気は、他のどこにも真似は出来ない。ここは祇園甲部。
壬生狼国でも屈指の歴史と格式を誇る花街だ。

山崎ススムはそこを、行灯を手に一人で歩いていた。
夜風は冷たいが、彼は相変わらずいつもの格好で、何も気にせずにすたすたと早足で歩く。
時々、華やかに着飾った芸妓や舞妓がすれ違っては、「おばんどす」と夜の挨拶をしていった。
その時彼女らは白塗りの顔に、紅を引いた唇だけを鮮やかに微笑みかけては、
流し目をくれることもなく、ただ静かに行きすぎる。それが祇園の誇り。
ここに住む女達は、身ではなく芸を売る。彼女らに目を奪われるのはいつだって男の方と決まっている。
もっともその点では、山崎は実につまらない男だったが。彼はそもそも女性の美に興味がなかった。

彼の頭を占めていたのは、いつものように直属の上司の心配で、
ついで一割ほどが他の上司たちへの苛立ちに割り当てられていた。
――山南さんに接待なんて出来るのだろうか。
それは素朴な心配だった。
心戦組は心で戦うとは言っても、やはり先立つものがなければ戦はできない。
金を出してくれるのは、治安維持を求める町衆たちと、なんといっても政治家たちだ。
そして政治家というものは、どういう訳か酒席での接待が大好きと相場が決まっている。
――いや、それも政治の一つなんだよ。
と、珍しく山南さんがもっともらしいことを言っていたが、だからこそ山崎の心配は尽きなかった。

接待など……それこそ近藤局長の仕事ではないかと思う。局長はおおらかな人で、
時におおらかすぎる人だが――時にではなく常にかもしれない――、酒席には非常に向いた人だった。
――それは全くその通りですなあ。と彼が笑えば、その中身がどうであれ、相手はとても気をよくする。
これはこれで一つのカリスマであり、才能だろう。あとは沖田ソージも、こういうことには向いていた。
――ちょっとおだててあげるだけで大金くれるんだから、ちょろいもんだよねー。
と、いかにも楽しそうに話していたのを知っている。上等な酒を飲んで、白い顔を赤くしながら。

どちらも山崎とは縁遠い話だ。そして山南さんも……そうであるはずなのだが。
何故自分は少しではあるが、苛立っているのだろう。そんなことを考えながら、山崎は歩く。

そして一つのお茶屋の前で足を止めた。そこも小さな間口に、そっと屋号が書いてあるだけの、
見かけはごく普通の町屋だが、山崎ススムが迷うことはない。
ここは迷路のような街だからこそ、山崎は常にその全体を把握していたし、それが彼の仕事だった。
「こんばんは」
軽く木戸を叩く。すぐに中から女将が出てきて、座敷へと案内してくれた。

座敷に通された山崎が見たもの、それはすでに出来上がって
酒杯を片手に楽しそうに語っている山南ケースケの姿と、その彼にはべる一人の芸妓の姿だった。
「だから、僕は今度の黒船には砲弾よりもミサイルを多く積むことにしていてね」
「へえ、凄うおすなあ」
彼女はしっとりと微笑む。本心から言っているのかは、まったく分からない微笑みで。
山崎ススムはまた自分の心が少し苛立つのを感じていた。

「やあ、山崎くん」
「お迎えに上がりました」
すっと座敷の入り口近くに座る。芸妓が示してくれた座布団には座らない。
座敷に他の客の姿はなく、食事の膳などもすでに下げられていたが、彼らが座っている位置によって
すでに酒席は終わったのだということは見て取れた。
最初から二人だけで飲んでいたのなら、もっと中央に座っているはずだろう。
「山南センセ、こちらはんは?」
「うん、山崎ススムくんっていってね。僕の助勤をしてくれているんだよ」
山南は遊女に優しい視線を投げかける。……優しいと思ったのは、多分に山崎の主観だが。

「へえ、よろしゅうに。山崎センセ」
「やめてください」
山崎は差し出された酒杯を押し返した。
「無粋どすなあ」
芸妓は口を曲げる。
「山崎くん、一杯だけでも飲んであげないと」
ジロリとそんな上司をにらむ。
だがそれでも差し出された酒杯を受け取ったのは、それがやっぱり上司の命令であるからだった。
「いただきます」
「はい、おおきに」

受け取った酒杯に酒が注がれる。漆塗りの、外側が黒く内側は紅い、平らな酒杯。
酒を注ぐ容器も、普通は正月にしか用いないような、やはり漆塗りの酒器だった。
口をつけて一息に飲み込む酒は、上等なもので強い香りがした。
山崎の好みからは、いささか香りが強すぎる気がしたが、確かに味も悪くはない。
「ごちそうさまです」
「いい飲みっぷりどすな」
目が合うと、ニッコリと微笑まれた。……そんなに若くはない芸妓だ。
もっとも芸妓というのは舞妓がある程度歳を重ねてからなるものなので、基本的に「お姉さん」だが。
「いややわあ、この人、目が鋭い」
「山崎くんはこういう席に慣れてないからねえ」
またジロリとそんな上司をにらんだ。山南は一向に気にした様子もなく、自分の杯をあける。

「じゃあ、僕はここでおいとまするよ」
「あら、もっと飲んでいかはらへんの?」
「うん。もう用事は終わったからね」
山南は置いていた刀を手に、あっさりと立ち上がった。山崎がちょっと拍子抜けするような、淡泊さで。
芸妓はそんな山南を軽くにらんでから、自分も立ち上がり、素早く羽織を着せかける。
「ありがとう」
「へえ」

「帰りましょう」
さっさと座敷のふすまを開ける。どうにもこうにも、こんな席は苦手だった。
「うん。じゃあね、梅葉さん」
「今日はおおきに。山南センセ」
芸妓はすっと両手をつき、深々と頭を下げる。
大きく開いた着物の襟足から、やはり白く塗られたうなじが見えた。

二人は無言で帰路につく。山南は時々何かいいかけるのだが、
そのたびに山崎の無言の前に口を閉ざすということが、何回かあった。
それがまた、部下の苛立ちをかきたてるのだが。
――やましいことがないなら、堂々としていればいいのに。と思う。
頭の中では、何度もさっき見た座敷での二人の姿がちらついていた。
ああいうのを、似合いというのだろう。心戦組の知性派副長と、お姉さんの芸妓。

まあもっとも、前者の方はたぶんに……嘘偽りが含まれているが。
しかしあれが本来の山南さんの姿なのかもしれなかった。この人はこれでも教養人だ。
どこで身につけた教養なのかは、本人が語らないので分からないが、
ああいう場にも何不自由なくとけ込める人であることは分かった。今夜のことで。
「いや僕はああいう席は苦手でねえ」
白々しいと思う。心配した自分が馬鹿みたいだった。
そしてそんな風に苛立っている自分は、さらに馬鹿馬鹿しかった。

「楽しそうでしたが」
「いや、そんなことはないよ、うん」
「接待は無事終わったんですか」
「ああ、それなんだよッ」
山南はぐいと手を握る。
「まったく政治家っていうのは、どうしてああも馬鹿ばっかりなんだろうねえッ」
「はあ……」
「どうでもいい話ばっかり、延々繰り返すんだよ。しかも同じことをッ」
「それは何か、含みがある話というやつじゃなかったんですか」
少しずつ、いつもの調子が戻ってくる。どちらにとっても。
「そうなのかもしれないけれど、僕にそんなこと分かるわけないじゃないかッ」
「……それは災難でしたね」
山南さんがというよりは、心戦組と政治家たちにとって。やはり心配は杞憂ではなかったらしい。

「まあ……でも、梅葉さんがいてくれて助かったよ」
「……」
一瞬ぴくりと足が止まる。山南はその分一歩先に出て、話し続けた。
「彼女が場を保たせてくれたから、僕は適当に相づち打っているだけですんだんだけど」
「……よかったですね」
冷え冷えとした声が、夜の街に響く。
「でも黙っているだけってのも、苦痛なんだよッ」
「子供みたいなこと、言わないでください」
山崎はぐいと一歩大きく踏み出して、山南に追いつき追い越そうとした。
そのままいつものペースで、つまりこれまでよりも早く歩きながら屯所へと向かう。

「だって山崎くんッ……」
上司はまだ愚痴りたいらしいが、そういうことは、それこそ芸妓相手にやってくれと思う。
「じゃあどうして接待がお開きになった後も、彼女と二人で飲んでいたんですか」
「いやそれは……君が迎えに来てくれるのを待っていたんだよ」
山南はうつむいて答えたのだが、先を歩いている山崎は気がつかなかった。
「ほ、本当だよッ」
「そうですか」
「信じておくれよッ」
「……」
頭の中ではさっきの座敷の映像がちらつく。山崎はひたすらに、不機嫌だった。

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