元は白かったであろう毛並みは、汚れですっかり黄色みがかった灰色になってしまっている。
茶色い瞳は逆に白く濁っていた。口の端から垂れた舌は、裏側が禍々しいまでに赤い。
うずくまった犬の姿を、山崎ススムはじっと眺めていた。
多くの人間が行き交う橋の下、暗く湿った小さな隙間を覗いたのは、ほんの偶然の事だった。
こういった街の死角は、自分が身を隠す時も、逆に追っている敵が隠れる時にも便利なものだから、
常日頃から無意識のうちに確認する癖が身に付いている。
それでもここは何度も通っている道だったから、いつもならちらっと見ただけで通り過ぎるはずだった。
今日に限って妙に気になり、わざわざ下に降りてみる気になったことを、
彼自身はただの気まぐれと捉えていた。この犬に出会うまでは。
慎重に片膝を付き、顔を近づける。歯の状態を見てこの犬がかなりの老齢であることを確認する。
――もう寿命なんだな。そう思った。そこには何の感情も交じってはこなかった。
むしろここまで生きる事が出来たのは、野犬としては幸運な方だっただろうとすら思った。
だが、すぐには立ち去ることができなかった。
犬は苦しげに息を吐きながら、それでも目は山崎をじっと見つめている。
助けてくれというのではないだろう。むしろ、この人間は自分に害をなすものなのか、
この期に及んでなお警戒することをやめない目つきだった。
そんな犬の濁った目の中に自分の顔がうつる。いつものように何の感情も映してはいない顔。
山崎はしばらく考えて、腰に下げた水袋に手をやった。
栓を抜き、自分の右手を器の形にして水を注ぐ。その手を犬の前に静かに差し出した。
しかし犬はすぐにはその水を飲もうとしない。鼻がひくひくと動いているのは、
葛藤ではなく、この水が毒ではないのか慎重に確認しているからだろう。
山崎は声をかける事もなく、ただひたすらにそんな犬の様子を眺めていた。
やがて舌の先がちろりと動く。
そして犬はぺろりと舌を伸ばして水を飲んだ。一度飲み始めると、あとはひたすらに貪欲だった。
あっという間に山崎の手の中は空になり、また水袋から水をつぎ足した。
それを二三度繰り返して、ようやく犬は飲むのを止める。
満足したのか、これ以上飲む事ができなくなったのか。
再びはあはあと呼吸を繰り返しながら、倒れているだけの状態に戻った犬の背中を
彼はそっと撫でる。
汚れでべとついているのに、妙に水分の抜けた感じがする、つまりは生気のない毛皮だった。
またしばらくその姿勢のまま、山崎は犬を見ていたが、次に立ち上がった時にはもう振り向くことなく
道に上がり、人混みの中に混じって屯所へと戻っていった。
◆
「おーい、山崎くん」
屋根の上に腰掛けて空を眺めていた山崎を、下から呼ぶ声がする。
見下ろすと山南ケースケがぶんぶんと大げさな身振りで両手を振っていた。
「山南さん……」
「聞いてくれたまえ。ついにここ数日の悩みが解決したんだよッ」
「そうですか」
屋根から降りる事もなく言葉を返す様を見て、山南は首をかしげた。
「どうかしたのかい? 山崎くん」
「別に。なんでもありません」
いつも以上にそっけない山崎の言葉に対して、学者肌の副長は顎に手を当て
大げさに眉をしかめて考え込んでみせる。そしてはっと、何かを思いついたかのように顔を上げた。
「山崎くんッ」
「はい」
「屋根の上に登るって、楽しそうだねえ!」
「そうでもありません」
「そんなこと言わずにさッ」
「……山南さんには無理ですよ」
子供のように瞳を輝かせている山南を見て、山崎は淡々と言葉を返す。
「やってみないと分からないじゃないかッ」
「……」
しげしげと見つめる。心戦組の頭脳担当、剣を振るう事など誰も期待していない、
むしろ振るわせてはいけないとすら言われている副長のことを。
彼の視線に込められた無言かつ強烈な否定の意を感じ取ったのか、
山南はより一層子供っぽい顔になって、体全体で不満を表明した。
「なんだいキミ、言いたいことがあるならはっきり言いたまえ!」
「アンタには無理です」
「……本当にはっきり言うね、キミ」
がっくりと肩を落とす横に、山崎は飛び降りる。
「言い過ぎました」
頭を下げるわけでも、反省した顔をするわけでもなく言う様子に、
山南は肩を落としたまま、とぼとぼと歩いて縁側に腰を下ろした。
「まあ、いいんだよ。それが山崎くんなんだからね」
眼鏡のつるに手をやって溜息をつく。しかしその横顔は微かに笑っていた。
無言のまま戸惑う山崎に向かって、ぽんぽんと自分が座っている横を叩いてみせる。
背くこともできず、山崎はその場所に腰を下ろした。
「私はどうせ運動には向いていないよ……」
「……」
性格として否定することもできず、沈黙を守る山崎の横で、山南はまた少し笑う。
「その代わり、この私には頭脳がある……。そうだ! 聞いてくれたまえよ、山崎くんッ。
やっとここのところ研究していた新型バズーカの開発に、目処が付いたんだよッ」
「よかったですね」
「うんうん。片手で持てる携帯性と威力の両立に悩んでいたんだけどね。
持ち手の形を改良することと、火薬の工夫で……」
そのままペラペラと楽しそうに山南は話し続ける。山崎はその顔をぼんやりと眺めていた。
話の内容は半分しか耳に入ってこない。その代わりに、この人は自分を元気づけるために
このような態度を取っているのだろうかという疑問が、頭をもたげ始めていた。
「……だからね、これは斎藤くんにでも使ってもらうのがいいんじゃないかと」
「……」
「? 聞いているのかい、山崎くん」
ふいっと身をかがめ、顔を下から覗き込んでくる山南に、思わず
わずかにだが体を後ろに遠ざけてしまう。
子供っぽいかと思えば年上らしい仕草を見せ、
頭脳派副長として語っていたかと思うと急に無防備な行動を取る。
山南はまったく、動じるということの少ない山崎ですらペースを狂わされる相手だった。
「……聞いていました」
なんとかそれだけを口にした。
「そうか。それはよかった」
山南はニッコリと笑う。その顔がまた、心のどこかを刺激する。
「今日、橋の下で犬を見つけたんです」
だから山崎は自然とそれを口にしていた。
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