僕たちの居る場所 前編


――居場所がない。
それを考え始めたのはいつの頃からだっただろうか。
大して珍しい話でもない。
誰しもが子供の頃は一度くらい思ったことがあるはずだ。あるいは思春期だとか。
彼の場合はそれが当たり前すぎて、空気のように慣れ親しんだ感覚だっただけのことである。
ただ、それでも空気のように存在を忘れるところまではいかなかった。
むしろ呼吸をするかのように、彼はその感覚を何度も繰り返し感じながら、
人生を歩んできたと言えるだろう。

彼――山崎ススムの家は裕福だった。壬生に隣接した国の出身で、幼い頃から算盤と医術に親しんだ。
商人あるいは医師になることを、親からは期待されていたのだろう。
実際のところ、彼は聡い子供であったし、子供に似つかわしくない冷静さもあった。
それはどちらも、商人あるいは医師として重要な素質だった。
実家が裕福で、その素質を伸ばすだけの教育をふんだんに与えられたということも同じく。
だがそれでも……。彼には致命的に欠けている何かがあったのだ。

商人になるには彼は無愛想すぎ、また人間というものへの興味が欠けていた。
算盤をはじくことは得意でも、客に相対することには興味がなく、
人の心が分からないのではなく、むしろ分かりすぎて相手の急所を突くだけに、
客商売には向いていなかった。
あるいはもっと時が進み、商取引が数字だけで行われる世界ならともかくとして、
壬生周辺は未だに古き時代の香りが残る土地であり、慣習を重んじただけになおさらのことだった。
いや、数字だけを扱うなら扱うで、
彼はまったく金銭を稼ぐことに対して興味がないという事実が、やはり邪魔をしただろうが。

医師になるには彼は命というものに無頓着で、人が当たり前に持っている感情、
例えば人の死に際して悔やむだとか悲しむだとか、そういったことが不得意だった。
そのような感情を持っていなかったわけではない。
少しはあった。ただそれを表に出してみせることが極端に苦手だったのだ。
他者の命を預かる医師として、それは致命的なことだと、分かる程には彼は賢かったのだが。

子供の頃ならまだしも、それは成長してもいささかも変わらず、
周囲がいいかげん不審に思っていることを、彼自身感じ取りながらも、
自分はそれに対してなんら不審を抱けないという事実に思い当たったとき、
ああ自分には居場所がないのだと、もう何度目か思ったかもしれないことを感じ取って、彼は家を出た。
このままでは自分の将来についても、何ら展望は開けないと分かってしまったので。
そうして流れ着いたのが、いわゆる裏家業、忍びの世界だった。

ただ……彼は結局、そこにも居場所を見いだせなかった。
素質がなかったわけではない。むしろ素質はあった。……以前と同じように。
彼は体格に恵まれ、体術にも優れ、努力することをいとわず、
人の心を読み、冷静さを失わず、状況に対して機敏に対処することができた。
それでも何が向いていなかったかというと、彼は忍びとしては、……聡すぎた。
忍びは影でなければならない。雇い主に忠実な飼い犬でなければならない。
しかし彼の瞳は、雇い主の思惑や矛盾をたやすく見抜き、また見抜くことに対して抵抗がなかった。
それが反抗心へとつながるならまだしも、見抜いておきながらなお平然とするその素質は、
雇い主たちに深刻な不安感を与えずにはいられなかった。
それは飼い犬としては致命的なことだった。

――まずいな。
と思ったときには、追っ手が差し向けられており、彼はそれを不条理だと思いつつも斬り捨てた。
いつものように。なんら感情を揺るがすことなく。無表情のままに、ただ的確に命を奪って。
そうして逃げ込んだのが壬生の狼国。
……そこで、新しく組を立ち上げ隊士を募集していた心戦組だった。

――居場所がない。
それは呼吸をするように慣れ親しんだ感覚だった。
自分には何かが欠けているのだろうと思いつつも、その欠落を埋める必要性をなんら感じられないという
そのことこそが、彼――山崎ススムにとっては……むなしかった。

「んで、ザキ。テメエは俺にこんな仕事押しつけんのかよ」
斎藤は行儀悪く机の上に足を投げ出して、手にした書類をひらひらとさせる。
いつでもこんなもの燃やして灰にしてしまえるのだぞと、――それは決して比喩ではなく――、
主張している。
垂れ下がった緑の瞳はいつも以上にぎらつき、平隊士ならば震え上がらずにはいられないだろう。
それが心戦組三番隊組長――斎藤ハジメ。剣の実力なら一番隊組長である沖田と一二を争う、
だがそれ以上に、彼の心には歯止めというものがないという点において、斎藤は恐れられていた。

「はい。やってください、斎藤さん」
山崎はその視線を平然と受け止めて言う。
「ケッ、くだんねェ」
そう吐き捨てながらも、斎藤が断るそぶりを見せないのは、いくらサボりの言い訳を見つけたところで、
相手がそれを完膚無きまでに論破してくることと、仕事に対してはきちんと報酬を、
つまり斎藤が満足するだけの金銭を用意していることを知っているからだった。
「確かに弱い相手ですが……とりあえず数だけはいます。そのことには注意してください」
そしてこのように、斎藤のプライドを微妙に逆なでする言葉を吐く。

「あ? 俺がこの程度の奴らに苦戦するわきゃねーだろうが」
「はい」
あっさりうなずくその仕草は、山崎に向かっていた斎藤の怒りの矛先をそらし、
行き場を失った怒りは、結局のところ、哀れな敵に向けられる。
そこまで計算しているのかどうなのか、分からないが、分からないからこそ……。
――ザキは面白い。
斎藤はそう評価していた。

山崎は自分と同じ裏家業を歩いて、心戦組に流れ着いた人間だが、根本的に何か違う部分がある。
それはおそらく生まれの問題なのだろうが、この世界の底辺をはいずってきた斎藤に相対していても、
不思議とその身についた育ちの良さに嫌みさがない。
なぜなら、山崎はたぶん、そのような自分について劣等感を持っているからだろう。
……身についた空気のような自然さで。
斎藤はそう考えていたし、そのことは面白かった。実に、愉快な相手だった。

「で、僕にはこの雑用ってわけ?」
横に座っていた二番隊組長――永倉シンパチはそう尋ねる。
「イヤだよー、新隊士の稽古なんて」
ぷんぷんと怒ってみせる童顔は、一見かわいらしいものだが、その見てくれに騙されると痛い目に合う。
それは強さという点でもそうだったし、それ以上に、永倉自身が持つ性質によるところが大きかった。
「大丈夫です。遠慮なく叩きのめしてください」
山崎は迷うことなくうなずいた。

「……あっそう」
永倉はふーんと頬をふくらませる。しかしそれは不愉快ではなく、彼なりのやる気の表現だった。
叩きのめす、それは永倉にとって、とても楽しいことだった。
ゼロか全力か。彼にはそういう極端さがあった。
手抜きは大好きだが、手加減は大嫌いだ。この微妙な感覚を、山崎はちゃんと掴んでくれる。
そのことは心地よかった。

「相変わらず、人使いが上手いねー、ススムちゃん」
ニコニコ笑いながらも、瞳の奥に消せない何かがある。少し、睨みつけるかのような炎。
「それほどでもありません」
山崎はあっさりそう言った。相手の言葉を否定するわけでも肯定するわけでもなく、
謙遜のように見えて実はかなり不遜でもある言葉。
――真意はどこにあるんだろうねー。
永倉はそう考える。いかにして相手を叩きのめすかを考えるときと同じように。
だからこそ、山崎ススムと話すことは楽しい。永倉は相手のことをそのように捉えていた。

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