貴方の感触 前編


「いけませんよ。あまり根を詰めては」
そう言って、肩に手が触れた。
「もうこんな時間じゃないですか」
振り返ると高松が、曖昧な笑みを浮かべてキンタローのことを見つめている。
「ああ……そうだな」
数少ない見慣れた顔であるはずなのに、どういうわけか一呼吸の間をおいてから、
キンタローは答えた。何故なのかは自分でも分からないが、最近はいつもそうだった。
「新しい装置を開発したんだが、まだどこかに不具合が残っていそうな気がするんだ」
「最初から完璧なものなんてありません」
「それはそうかもしれないが……」
またモニターに視線を戻そうとすると、肩におかれた手が強くその体を引き留める。

「キンタロー様。遠征からも戻られたばかりでしょう」
「悪いんだが、高松……」
「私はずっとお待ちしていたんですよ。それなのにやっと帰ってきたと思ったら、
 すぐに研究室にこもりっきりだなんて、あまりにひどいじゃありませんか」
「……」
見上げるとドクターは、大仰な身振りで肩をすくめ目を閉じて嘆いていた。
芝居がかっている……と感じる程、キンタローは良くも悪くも世間ずれしてはいないのだが、
それでもこれが本心からの嘆きでないことは薄々分かってしまう。
そして本心ではないからこそ、逆らえないということもあるのだった。
「分かった。それで、どうすればいい?」
表情を変えないまま――どういう顔をすればいいのか分からないから――問うキンタローに、
一転して高松はぱっと嬉しそうな笑顔になる。やっぱりどこか、作り物めいてはいたけれど。
「散歩にでも行きませんか」
「……散歩」
それがどういうものかは知っていたが、ドクターの口から出てくるとひどく意外な気がした。
キンタローはその違和感の原因を探るべく、自分の中の知識をひっくり返す。
「散歩というのは夜に行くものだっただろうか、高松」
「夜に行く散歩もあるんです」
戸惑いつつ聞くキンタローに、高松は自信たっぷりにうなずいた。――また大げさな身振りで。

ガンマ団本部の敷地は、地面までもがほとんど人工物で覆われている。
いくつかの区画には、主として団員達のレクリエーションのために緑が植えられているが、
それらも結局は、どこまでも人工的な匂いが消せないものだった。
少しおもむきが違うのは、研究所内でもバイオテクノロジー班が管理している一画で、
ただしそこは別の理由から、やはり人の心を安らがせる場所とはほど遠い。
けれども今高松が向かっているのは、その方角だった。

軍事施設の常で、夜でも暗闇になるということはない敷地内を、早足でドクターは歩いていく。
その手はキンタローの手とつながれていた。
「なあ高松」
「はい。なんでしょう」
「散歩とは、手をつないでするものなのか」
「ええ、そうですよ」
何のためらいもなく相手はうなずく。
「そうか」とキンタローは納得して、よりしっかりとドクターの手を握り直した。
自分のものより少しだけ大きく、中指と親指には大きなペンだこがある手。
その感触を確かめていると、皮膚が滑らかに動いて、キンタローの指を触り返してきた。
つながりを確かめるかのように、暗がりの中で指が指をなぞっていく。
くすぐったいような不思議な感覚が、指先から体へと這い登ってくる。

高松はよく、こうしてキンタローの体を触りたがった。
まるで、彼が確かに今ここに存在しているのだと、自らに言い聞かせるように。
そしてそんな高松の習慣は、キンタローにとっても心地のよいものだった。
触られる度に、自分は確かに今ここに存在しているのだと、実感することができたから。

「手をつなぐって、いいものなんだな」
素直な感想を口にする。
「ドクターは他の人間とも、よくこうやって手をつないだりするのか?」
「……そんなことは、ありませんよ」
返事は一呼吸遅れてやってきた。
「グンマとも?」
「そうですねえ、あの方が小さい頃はよくこうして歩いたかもしれません」
「俺は子供じゃないぞ」
むっとして言い返したけれども、絡まり合った指をほどく気にはなれない。
「キンタロー様は特別ですから」
静かな声が横から聞こえてきた。そしてまた、手が握りしめられる。
それだけで離したくないのだという相手の気持ちが伝わってきて、
キンタローは思わず顔が赤くなるのを感じていた。
どうして赤面してしまうのか、やっぱり理由は分からないのだが。

逆にグンマにも尋ねたことがある。「あの人は他者によく触れたりするのか?」と聞いたら、
童顔の従兄弟は「ええー、そんなことないよぉ」と朗らかに笑った。
「高松は、人に触られるのは嫌いなんだよ」と。
人工的な灯りに照らされた道を歩きながら、
キンタローは自分は何を確認したかったのだろうと考える。

「俺も……」
「はい?」
考え込むようにして足を止めたキンタローに歩調を合わせ、高松も立ち止まった。
懸命に言葉を探しながら言う。
「俺にとっても、ドクターの手は特別だと思う」
「ハハ……。何をおっしゃっているんです、キンタロー様」
薄暗がりの中で、高松は少し困ったように笑っている。その顔が好きだった。
南の島で最初に出会った時のことを思い出すから。
あの時高松は泣いていて、今は笑っているのだけれど、何かとても近い――暖かいものを感じる。
それは彼の手の感触にも、少し似ていた。
「ほら、もう少しで着きますから」
何かを誤魔化すようにキンタローの手を引いて、高松は歩き出す。
いつの間にか、目の前には黒い森が広がっていた。

そう、森だ。団員達は皆ここを「森」と呼ぶ。
しかし本当は森どころか林と呼べる規模すらない、せいぜい50メートル四方の一画。
だけど普通ではあまり見かけない、謎めいた植物が群生し、密集している様は、
どうしても「深き森」という形容が相応しい。あるいは「マッドサイエンティストの廃棄場」だとか。
夜道を煌々と照らす電気灯の明かりすら吸い込むような、
得体の知れない生命力に満ちた木々を前にして、高松は一旦立ち止まった。
「足元に気をつけて下さいね」
それだけ言うと、平然と「森」の中に足を踏み入れていく。
手と手でつながっているキンタローも否応なく後を付いていくしかないのだが、
やはり気後れしないといえば嘘になった。
外の世界に出てきて以降、あまり暗闇には慣れていない。
暗闇は――閉じこめられていた時のことを思い出す。

内心では苦悩しつつも、自分を導く手だけを信じて、キンタローは森に足を踏み入れた。
「森」の中では、自分たちの背丈のせいぜい二三倍までしかない木々が、
信じられない程どん欲に枝を伸ばし、巨大な葉を広げている。
つるつるした白っぽい樹皮が闇に浮かび、足元では何かが青白く発光し、
かろうじてある小道は一歩踏み出すたびに、深く積み重なった落ち葉に足が沈み込む。
そこはまったくの自然で、というよりも原生林に近く、
ガンマ団本部内にこんな場所があるとはと、驚くしかなかった。
「考え事をしながら歩くと、すぐに通り過ぎてしまうんですよ」
高松はいかにも歩き慣れた風で、足元すらろくに見えない闇の中をすたすた進んでいく。
キンタローも半ば意地でその後を追った。一方的に手を引かれるのは嫌だという意地。
――この人と並んで歩きたいのだという思い。暗闇は、かえって心の内面を浮き彫りにする。

だから高松が急に立ち止まった時、キンタローは思わずその背にぶつかりそうになった。
「ああ、大丈夫ですか。キンタロー様」
すぐ近くで声がして、反射的に胸が高く鼓動を打つ。
「すみませんね、慣れているものだから、つい」
「いや、いいんだ」
動揺を見せまいと返事はついぶっきらぼうになる。
「ここが森の中心です」
高松は気付いた様子もなく、その黒髪を闇に溶け込ませながら、囁くような声で告げた。
「この私のちっぽけなテリトリー。取り残された場所ですよ」
「取り残された?」
意外な言葉に思わず聞き返す。
「そうですねえ……」
珍しく高松は言いよどんだ。
キンタローはドクターは今どんな顔をしているのだろうと考え、
暗闇のせいで相手がよく見えないことに苛立つ。
そうこうしている内に、つないでいた手までもが離されてしまった。
「なんと言っていいのやら」
苦笑するような自嘲するような声が聞こえてくる。白衣だけがほのかに見えて、
その上の顔は見えなかった。こちらに背を向けているからだと気付いたのは、数秒後。

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