「いけませんよ。あまり根を詰めては」
そう言って、肩に手が触れた。
「もうこんな時間じゃないですか」
振り返ると高松が、曖昧な笑みを浮かべてキンタローのことを見つめている。
「ああ……そうだな」
数少ない見慣れた顔であるはずなのに、どういうわけか一呼吸の間をおいてから、
キンタローは答えた。何故なのかは自分でも分からないが、最近はいつもそうだった。
「新しい装置を開発したんだが、まだどこかに不具合が残っていそうな気がするんだ」
「最初から完璧なものなんてありません」
「それはそうかもしれないが……」
またモニターに視線を戻そうとすると、肩におかれた手が強くその体を引き留める。
「キンタロー様。遠征からも戻られたばかりでしょう」
「悪いんだが、高松……」
「私はずっとお待ちしていたんですよ。それなのにやっと帰ってきたと思ったら、
すぐに研究室にこもりっきりだなんて、あまりにひどいじゃありませんか」
「……」
見上げるとドクターは、大仰な身振りで肩をすくめ目を閉じて嘆いていた。
芝居がかっている……と感じる程、キンタローは良くも悪くも世間ずれしてはいないのだが、
それでもこれが本心からの嘆きでないことは薄々分かってしまう。
そして本心ではないからこそ、逆らえないということもあるのだった。
「分かった。それで、どうすればいい?」
表情を変えないまま――どういう顔をすればいいのか分からないから――問うキンタローに、
一転して高松はぱっと嬉しそうな笑顔になる。やっぱりどこか、作り物めいてはいたけれど。
「散歩にでも行きませんか」
「……散歩」
それがどういうものかは知っていたが、ドクターの口から出てくるとひどく意外な気がした。
キンタローはその違和感の原因を探るべく、自分の中の知識をひっくり返す。
「散歩というのは夜に行くものだっただろうか、高松」
「夜に行く散歩もあるんです」
戸惑いつつ聞くキンタローに、高松は自信たっぷりにうなずいた。――また大げさな身振りで。
ガンマ団本部の敷地は、地面までもがほとんど人工物で覆われている。
いくつかの区画には、主として団員達のレクリエーションのために緑が植えられているが、
それらも結局は、どこまでも人工的な匂いが消せないものだった。
少しおもむきが違うのは、研究所内でもバイオテクノロジー班が管理している一画で、
ただしそこは別の理由から、やはり人の心を安らがせる場所とはほど遠い。
けれども今高松が向かっているのは、その方角だった。
軍事施設の常で、夜でも暗闇になるということはない敷地内を、早足でドクターは歩いていく。
その手はキンタローの手とつながれていた。
「なあ高松」
「はい。なんでしょう」
「散歩とは、手をつないでするものなのか」
「ええ、そうですよ」
何のためらいもなく相手はうなずく。
「そうか」とキンタローは納得して、よりしっかりとドクターの手を握り直した。
自分のものより少しだけ大きく、中指と親指には大きなペンだこがある手。
その感触を確かめていると、皮膚が滑らかに動いて、キンタローの指を触り返してきた。
つながりを確かめるかのように、暗がりの中で指が指をなぞっていく。
くすぐったいような不思議な感覚が、指先から体へと這い登ってくる。
高松はよく、こうしてキンタローの体を触りたがった。
まるで、彼が確かに今ここに存在しているのだと、自らに言い聞かせるように。
そしてそんな高松の習慣は、キンタローにとっても心地のよいものだった。
触られる度に、自分は確かに今ここに存在しているのだと、実感することができたから。
「手をつなぐって、いいものなんだな」
素直な感想を口にする。
「ドクターは他の人間とも、よくこうやって手をつないだりするのか?」
「……そんなことは、ありませんよ」
返事は一呼吸遅れてやってきた。
「グンマとも?」
「そうですねえ、あの方が小さい頃はよくこうして歩いたかもしれません」
「俺は子供じゃないぞ」
むっとして言い返したけれども、絡まり合った指をほどく気にはなれない。
「キンタロー様は特別ですから」
静かな声が横から聞こえてきた。そしてまた、手が握りしめられる。
それだけで離したくないのだという相手の気持ちが伝わってきて、
キンタローは思わず顔が赤くなるのを感じていた。
どうして赤面してしまうのか、やっぱり理由は分からないのだが。
逆にグンマにも尋ねたことがある。「あの人は他者によく触れたりするのか?」と聞いたら、
童顔の従兄弟は「ええー、そんなことないよぉ」と朗らかに笑った。
「高松は、人に触られるのは嫌いなんだよ」と。
人工的な灯りに照らされた道を歩きながら、
キンタローは自分は何を確認したかったのだろうと考える。
「俺も……」
「はい?」
考え込むようにして足を止めたキンタローに歩調を合わせ、高松も立ち止まった。
懸命に言葉を探しながら言う。
「俺にとっても、ドクターの手は特別だと思う」
「ハハ……。何をおっしゃっているんです、キンタロー様」
薄暗がりの中で、高松は少し困ったように笑っている。その顔が好きだった。
南の島で最初に出会った時のことを思い出すから。
あの時高松は泣いていて、今は笑っているのだけれど、何かとても近い――暖かいものを感じる。
それは彼の手の感触にも、少し似ていた。
「ほら、もう少しで着きますから」
何かを誤魔化すようにキンタローの手を引いて、高松は歩き出す。
いつの間にか、目の前には黒い森が広がっていた。
そう、森だ。団員達は皆ここを「森」と呼ぶ。
しかし本当は森どころか林と呼べる規模すらない、せいぜい50メートル四方の一画。
だけど普通ではあまり見かけない、謎めいた植物が群生し、密集している様は、
どうしても「深き森」という形容が相応しい。あるいは「マッドサイエンティストの廃棄場」だとか。
夜道を煌々と照らす電気灯の明かりすら吸い込むような、
得体の知れない生命力に満ちた木々を前にして、高松は一旦立ち止まった。
「足元に気をつけて下さいね」
それだけ言うと、平然と「森」の中に足を踏み入れていく。
手と手でつながっているキンタローも否応なく後を付いていくしかないのだが、
やはり気後れしないといえば嘘になった。
外の世界に出てきて以降、あまり暗闇には慣れていない。
暗闇は――閉じこめられていた時のことを思い出す。
内心では苦悩しつつも、自分を導く手だけを信じて、キンタローは森に足を踏み入れた。
「森」の中では、自分たちの背丈のせいぜい二三倍までしかない木々が、
信じられない程どん欲に枝を伸ばし、巨大な葉を広げている。
つるつるした白っぽい樹皮が闇に浮かび、足元では何かが青白く発光し、
かろうじてある小道は一歩踏み出すたびに、深く積み重なった落ち葉に足が沈み込む。
そこはまったくの自然で、というよりも原生林に近く、
ガンマ団本部内にこんな場所があるとはと、驚くしかなかった。
「考え事をしながら歩くと、すぐに通り過ぎてしまうんですよ」
高松はいかにも歩き慣れた風で、足元すらろくに見えない闇の中をすたすた進んでいく。
キンタローも半ば意地でその後を追った。一方的に手を引かれるのは嫌だという意地。
――この人と並んで歩きたいのだという思い。暗闇は、かえって心の内面を浮き彫りにする。
だから高松が急に立ち止まった時、キンタローは思わずその背にぶつかりそうになった。
「ああ、大丈夫ですか。キンタロー様」
すぐ近くで声がして、反射的に胸が高く鼓動を打つ。
「すみませんね、慣れているものだから、つい」
「いや、いいんだ」
動揺を見せまいと返事はついぶっきらぼうになる。
「ここが森の中心です」
高松は気付いた様子もなく、その黒髪を闇に溶け込ませながら、囁くような声で告げた。
「この私のちっぽけなテリトリー。取り残された場所ですよ」
「取り残された?」
意外な言葉に思わず聞き返す。
「そうですねえ……」
珍しく高松は言いよどんだ。
キンタローはドクターは今どんな顔をしているのだろうと考え、
暗闇のせいで相手がよく見えないことに苛立つ。
そうこうしている内に、つないでいた手までもが離されてしまった。
「なんと言っていいのやら」
苦笑するような自嘲するような声が聞こえてくる。白衣だけがほのかに見えて、
その上の顔は見えなかった。こちらに背を向けているからだと気付いたのは、数秒後。
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