貴方の感触 後編


ドクターは背を向けたまま、尋ねてきた。
「キンタロー様は私のことを恨んでおられますか?」
「もうその話は終わったことだ、と思う。……あの南の島で」
「私はなんのお役にも立てませんでしたね」
「あなたは……俺のために泣いてくれた」
「罪のためだったのかもしれません。私が犯した罪のため」
「高松……。その話はもういいだろう。俺達は生きていかなきゃいけない。進まなければ」
返ってきたのは沈黙で、キンタローは自分の言葉は足りなかったのだろうかと考えた。
「俺は、どうしたらいい?」
森の中心にたたずむ孤独な人影に向かって問いかける。――何故か、孤独に見えた。
この森のように。周囲からの理解を必要としない、自分だけの世界を持っている人も、
やはり寂しいのだと、なんとなく分かってしまった。多分それは、自分も寂しいから。
外に出て人と触れ合って初めて知った孤独がある。
そばにいるのに届かない、話しているのに分かり合えない、そんな孤独だ。
触れ合えるからこそ、より一層寂しいこともあるのだと、キンタローは分かり始めていた。

彼のために、何かをしたかった。
それは涙を流してくれたからではなく、手を握ってくれたからでもなくて、
強いて言えば自分のためだったのだと思う。似ていると思った。ドクターと自分は似ている。
……共に何かを、探し続けているのだ。
「私を……抱きしめて下さい」
「ああ」
ほとんど背丈の変わらない人に、そっと後ろから手を回す。
髪に顔をうずめると、どこか懐かしい匂いがした。抱いた体から熱が伝わってきて、
夜風の中で自分の身体も冷えていたことを知る。暖かかった。
「散歩っていいものなんだな」
思わず正直な気持ちを呟くと、高松は肩を震わせて笑う。
「何がおかしいんだ?」
「いえいえ、いいものなんですよ。散歩は。……気分転換になりましたか?」
「ああ。植物というのも、いいものなんだな」
「そう言っていただけると、嬉しいですねえ」
胸の前でつないだ両手に、そっと高松の手が添えられる。
「植物はどんなに手を尽くしても、思い描いたとおりの姿には育ちませんからね。
 永久に完璧にはならないんですよ」
「俺が作った装置のことを言っているのか?」
先ほど研究室で言われたことを思い出した。完璧を求めようとするキンタローをいさめた言葉を。
「あまり生き急がないでくださいな、キンタロー様」
「……よく、分からないが」

「私をおいていかないで下さい、ということですよ」
言葉はあまりに淡々としていたので、飲み込むのに時間がかかった。
「俺はドクターを置き去りにしたりなんかしない」
ふふと高松は笑う。
「いいえ、キンタロー様はまたすぐに、飛行艦に乗って旅立ってしまわれる」
「でも帰ってくる」
「……そうですね」
肯定する言葉はしかし、かえって二人の間の距離を認めるかのようで、
キンタローは思わず腕に力を込めた。そばにいるのに届かない孤独を、今だけは感じたくない。
「俺は、旅立ってはいけないのか?」
「そんなことはありません。どこへでも自由に飛び立っていかれれば、よろしいのですよ」
高松は空を見上げた。つられるようにしてキンタローも上を見る。木々の隙間から星々が見えた。
「自由に生きていけばいいのです」
「……ドクターは、俺に言っていないことがある」
「なんでしょう?」
「本心だ」
また高松は笑う。
とらえた腕の間をすり抜けるように身をかわす、その鮮やかさにキンタローは溜息をついて、
より一層腕の中の人を強く抱きしめた。
この人に比べたら、自分はなんて空っぽなんだろうと感じずにはいられない。
だけどそれは劣等感などではなくて、憧憬であり、進んでいきたいと願う道でもあった。

夜風が木々を揺らし、草木の匂いが胸に滑り込んでくる。
こうして森の中に立っていると、包まれているような気がした。
自分は抱きしめているのではなく、抱きしめられているのではないかと、ふと思う。
ドクターはここを取り残された場所だと形容したが、少なくともキンタローにとって
この場所は存在してくれた意味のあるものだった。それは、ここを作った人の存在と同じ。

「俺は……自分の居場所を探している」
「はい」
「科学者として何ができるのか、従兄弟達のために何ができるのか、俺は……
 何のために存在しているのか」
「……」
少しドクターの肩が震えたような気がして、慌てて言葉を継いだ。
「今はまだ分からないが、いつかきっと手に入れてみせる」
「ええ」
「その時、あなたがそばに居てくれたら、嬉しいと思う」
「はは……」
軽く笑われる。再び逃げられようとしていることを感じて戸惑っていると、
強く抱いていたはずの腕までもが簡単に振りほどかれた。
「あまり、大人をからかうものじゃありませんよ、キンタロー様」
「からかってなんかいない」
憮然として言い返すと、いつの間にか振り返った高松の顔が目の前にあって、
黒い眼がキンタローを見つめていた。不可思議な微笑をたたえながら、
わずかな光を反射して輝くそれには底知れぬ深さがあって、思わず息を飲む。
距離感を失って一歩後ずさりしそうになった腕が掴まれ、強い力で引き寄せられた。
いつの間にか、逆に自分が相手の腕の中にいることに気付く間もなく、口が塞がれる。
吐息からは予想以上に濃い男の匂いが伝わってきて、キンタローは目を見開いた。

「私は、そんなに出来のいい人間じゃないんですから」
口付けはほんのわずかな時間で終わり、抱きしめられていた感触も、まるで幻のように消滅する。
後に残ったのは、目の前に立っている人の目元に浮かぶ、相変わらずの微笑みだけだった。
その表情には、この人が自分よりもずっと長い年月を生きてきたことを思い知らされるけれども、
だからといって引き返すには自分はあまりにも年下で。
キンタローは今度は一歩前に踏み出して、しっかりと相手の肩をつかみ、その口に口付けを返した。
「俺だって、そんなに弱い男じゃない。ドクター」
「……やれやれ、かないませんねえ」

高松は肩をすくめる。それからふと真面目な顔になり、キンタローの頬に手を添えた。
「私がどうしてあなたに本音をお話できないのかといえば、それは……」
「それは?」
「弱みなんですよ」
「弱み?」
「ええ」
まるで本気で困っているような顔だった。
「貴方は私の弱みです」
高松はキンタローの頬に触れたまま、顔を近づけてささやいた。
大切な秘密を告白するような仕草で、しかしあくまでも軽やかに、
大人の男としての顔に、ほんのわずかないたずらっぽさをにじませて。

どういうわけかその告白が嬉しくて、キンタローは笑う。あまりないことだった。
キンタローは、あまり笑わない。
愉快という感情がよく分からないからでもあり、生きていくのに精一杯だからでもあった。
でも今は楽しかった。
失うかもしれない、拒絶されるかもしれないという恐れと紙一重の部分にある、人とのつながり。
それは確かに生の実感に満ちていた。唇に残った微かな感触こそが、リアルだった。

二人の男はちっぽけな森の中で、子供のように笑い合った。
年齢を超えて、踏まえてきた経験を越えて、胸の奥に刻まれた悲しみを忘れて、
ただ今を享受する楽しみに身をまかせて。
頭上には星が輝いている。
若者は自分の手を引いて導いてくれる大人が、実は地上に縛られた存在であることを知らない。
彼はまだ幻を見ている。だけどその幻こそが、傷を負った人を癒す生命の輝きであることを、
知らずとも……星は美しく輝いていた。


2004.10.21

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