自分はまだ、その研究員にもなれず、ラボの隅に机を、パーティションで区切られてもいない、
ただの小さな机一つを与えられた身分に過ぎなかったけれども。
研究と名の付くほどのことはさせてもらえず、もっぱら他人の研究をまとめ、レポートとして
提出するのが仕事だったけれども。
だが、その経験によって与えられた恩恵は計り知れない。
そこで高松は研究とは何かを知り、最新のデータに触れ、それを分析して理解することを学んだのだ。
そうでなければ、レポートというものは書くことが出来ない。……そのことすら、初めて知った。
そのような教育の場を与えてくださったのも、ルーザー様だ。
まだ18にも満たない若者に、机を与え、仕事を与えた。
あの方がそのことを決めたのは――考えたのは、おそらく一瞬にも満たない時間だっただろうけれども、
それが高松に一生分の価値をくれた。
ああ、自分があの研究員になりたかった。
ルーザー様に叱られる身分でありたかった。
叱られるというのは、それだけのことをしているという証でもある。
失敗だけではなく、着実な成果をあげている証でもある。
――その証拠に、ルーザー様が死んだ後のラボは狂乱に見舞われた。
高松は笑う。寂しく笑う。
手を見つめる。失われたもの、こぼれ落ちたもの、それを掴めなかった手を。
それはもう、狂気ではなく、狂気すら通り越した狂乱だった。
幾人もが死んだ。殺されたのではない、自殺だ。
でも、実質的には、殺されたようなものだった。
◆
いままで出来ていたことができない。
いままで届いていたものに、手が届かない。
いままでなら解決できていた問題が、解決できない。
……ルーザーがいないから。
彼の一言がないから。彼の叱責がないから。ただ、それだけで……。
失われたものはあまりに大きく、彼らはそれに気づかずにはいられなかった。
あまりにも近くにいたから。天才の近くに居すぎたから。
それが……当たり前だと……、いつの間にか、思いこんでしまっていたから……。
研究員たちは……次々に命を絶った。拳銃で頭を撃ち抜いたもの。自室で首を吊ったもの。
屋上から飛び降りたもの。
狂気か、天才か。
彼らは狂気に落ちずにはいられなかった。なまじ天が与えた才能に触れてしまっていただけに。
狂って狂って、狂ったように研究に打ち込んで、なお、届かないことを知ってしまった。
自分が失ってしまったことを知った。
かつてなら出来たことが、もう二度と出来ないことを知ってしまった。
狂気に落ちてすら、なお届かないことを知れば、あとはもう……死ぬしかなかったのだろう。
役立たずの自分の頭を、撃ち抜くしかなかったのだろう。
哀れな人間。太陽に近づきすぎたあまりに、翼を溶かしたイカロス。
それでも飛ばずにはいられなかった、哀れな人間。
◆
高松は笑う。
どうして自分が死なずにすんだのかといえば、叱られるような身分ではなかったからだ。
まだ、飛ぶことすら出来ない雛鳥にすぎなかったからだ。
もちろんすべてが死んだわけではない。せいぜい、20パーセント。
だがその損害率は充分だった。いくつもの貴重な才能が失われた。
天才ではなかったかもしれないが、紛れもなく世界有数の頭脳であった人々が。
死んだ。殺された。ルーザーによって。
だれも彼個人に殉じようと思ったものはいなかっただろうが、
彼の才能には多くのものが殉じた。死なずにはいられなかった。
……その気持ちは、分かるような気がする。
タバコを取り出して火を点ける。
右手で机の一番下の引き出しを開け、一枚のディスクを取り出した。
高松がグンマの成長の記録などと一緒に、いつも手元に置いているディスク。
そこには、ルーザーの書いたプログラムが、そのソースコードが入っている。
たった一枚のディスク。記録メディアが発達したとはいえ、天才の生涯の業績が、ただこれ一枚に。
……もちろん、他の業績、他の分野の論文は別だが。
それにしても。この一枚にどれほどの価値があるものか。
ガンマ団にとっては門外不出の品だが、もしも世に出せば
数億あるいは、数十億積んでも惜しくないという人々がいるだろう。
本当にものの価値の分かる、ごく少数の人ならば。
もう二十数年前に書かれたプログラム。それでもなお……。
ディスクを取り出し、その銀色の輝きをスロットに入れる。
もう何十回見直したか、いや何百、何千の単位だろうが、見直したコードに再び目をやる。
もう覚えてしまった。分かっている。それでもなお、見つめずにはいられない。
その才能の輝きを。その知性のひらめきを。その理知の気高さを。
こんなに美しいプログラム。こんなに美しいソースコード。こんなにも美しい記号と数字の羅列。
……自分には決して作り出せないもの。
画面には、先ほどまで高松が書いていたプログラムのコードもある。
まったく、見比べてなんと稚拙なことか。だが、だからこそ、比べずにはいられないのだ。
そこから目をそらさず、見つめずにはいられないのだ。
天才か、狂気か。
自分の中の狂気を掘り起こすために。天の才に、近づくために……。
タバコを吸う。息を吐く。肺の中をニコチンとタールで満たす。
汚れている。自分はまったく汚れている。それでもなお……見つめずにはいられない。
天の才を。そのきらめきを。
――ああ、ルーザー様。
私はあなたを一生愛するでしょう。
一生、恋い焦がれ続けるでしょう。
あなたの才能を。そして、あなた自身を。
>>next
|