追憶 中編


自分はまだ、その研究員にもなれず、ラボの隅に机を、パーティションで区切られてもいない、
ただの小さな机一つを与えられた身分に過ぎなかったけれども。
研究と名の付くほどのことはさせてもらえず、もっぱら他人の研究をまとめ、レポートとして
提出するのが仕事だったけれども。

だが、その経験によって与えられた恩恵は計り知れない。
そこで高松は研究とは何かを知り、最新のデータに触れ、それを分析して理解することを学んだのだ。
そうでなければ、レポートというものは書くことが出来ない。……そのことすら、初めて知った。

そのような教育の場を与えてくださったのも、ルーザー様だ。
まだ18にも満たない若者に、机を与え、仕事を与えた。
あの方がそのことを決めたのは――考えたのは、おそらく一瞬にも満たない時間だっただろうけれども、
それが高松に一生分の価値をくれた。

ああ、自分があの研究員になりたかった。
ルーザー様に叱られる身分でありたかった。
叱られるというのは、それだけのことをしているという証でもある。
失敗だけではなく、着実な成果をあげている証でもある。

――その証拠に、ルーザー様が死んだ後のラボは狂乱に見舞われた。
高松は笑う。寂しく笑う。
手を見つめる。失われたもの、こぼれ落ちたもの、それを掴めなかった手を。
それはもう、狂気ではなく、狂気すら通り越した狂乱だった。

幾人もが死んだ。殺されたのではない、自殺だ。
でも、実質的には、殺されたようなものだった。

いままで出来ていたことができない。
いままで届いていたものに、手が届かない。
いままでなら解決できていた問題が、解決できない。

……ルーザーがいないから。
彼の一言がないから。彼の叱責がないから。ただ、それだけで……。

失われたものはあまりに大きく、彼らはそれに気づかずにはいられなかった。
あまりにも近くにいたから。天才の近くに居すぎたから。
それが……当たり前だと……、いつの間にか、思いこんでしまっていたから……。
研究員たちは……次々に命を絶った。拳銃で頭を撃ち抜いたもの。自室で首を吊ったもの。
屋上から飛び降りたもの。

狂気か、天才か。

彼らは狂気に落ちずにはいられなかった。なまじ天が与えた才能に触れてしまっていただけに。
狂って狂って、狂ったように研究に打ち込んで、なお、届かないことを知ってしまった。
自分が失ってしまったことを知った。
かつてなら出来たことが、もう二度と出来ないことを知ってしまった。
狂気に落ちてすら、なお届かないことを知れば、あとはもう……死ぬしかなかったのだろう。
役立たずの自分の頭を、撃ち抜くしかなかったのだろう。

哀れな人間。太陽に近づきすぎたあまりに、翼を溶かしたイカロス。
それでも飛ばずにはいられなかった、哀れな人間。

高松は笑う。
どうして自分が死なずにすんだのかといえば、叱られるような身分ではなかったからだ。
まだ、飛ぶことすら出来ない雛鳥にすぎなかったからだ。

もちろんすべてが死んだわけではない。せいぜい、20パーセント。
だがその損害率は充分だった。いくつもの貴重な才能が失われた。
天才ではなかったかもしれないが、紛れもなく世界有数の頭脳であった人々が。
死んだ。殺された。ルーザーによって。

だれも彼個人に殉じようと思ったものはいなかっただろうが、
彼の才能には多くのものが殉じた。死なずにはいられなかった。
……その気持ちは、分かるような気がする。

タバコを取り出して火を点ける。
右手で机の一番下の引き出しを開け、一枚のディスクを取り出した。
高松がグンマの成長の記録などと一緒に、いつも手元に置いているディスク。
そこには、ルーザーの書いたプログラムが、そのソースコードが入っている。
たった一枚のディスク。記録メディアが発達したとはいえ、天才の生涯の業績が、ただこれ一枚に。
……もちろん、他の業績、他の分野の論文は別だが。

それにしても。この一枚にどれほどの価値があるものか。
ガンマ団にとっては門外不出の品だが、もしも世に出せば
数億あるいは、数十億積んでも惜しくないという人々がいるだろう。
本当にものの価値の分かる、ごく少数の人ならば。
もう二十数年前に書かれたプログラム。それでもなお……。

ディスクを取り出し、その銀色の輝きをスロットに入れる。
もう何十回見直したか、いや何百、何千の単位だろうが、見直したコードに再び目をやる。
もう覚えてしまった。分かっている。それでもなお、見つめずにはいられない。
その才能の輝きを。その知性のひらめきを。その理知の気高さを。
こんなに美しいプログラム。こんなに美しいソースコード。こんなにも美しい記号と数字の羅列。
……自分には決して作り出せないもの。

画面には、先ほどまで高松が書いていたプログラムのコードもある。
まったく、見比べてなんと稚拙なことか。だが、だからこそ、比べずにはいられないのだ。
そこから目をそらさず、見つめずにはいられないのだ。

天才か、狂気か。
自分の中の狂気を掘り起こすために。天の才に、近づくために……。

タバコを吸う。息を吐く。肺の中をニコチンとタールで満たす。
汚れている。自分はまったく汚れている。それでもなお……見つめずにはいられない。
天の才を。そのきらめきを。

――ああ、ルーザー様。
私はあなたを一生愛するでしょう。
一生、恋い焦がれ続けるでしょう。
あなたの才能を。そして、あなた自身を。

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