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「Eブロックへ、お発ちになるのですか?」
ドアの隙間から、声が聞こえた。珍しく、きちんと閉まっていなかったドア。
「そうだよ」
応じる声は静かだった。ここ数日のルーザーの荒れようからは、考えられないほどに。
最愛の弟が目を抉り、天才は狂気に堕ちた。荒れ狂い、辺りのものを破壊して回った。
彼が一番に壊したのは、自分自身の研究室だった。
たぶん……他者の物というのは、ルーザーにとって破壊する価値すら見いだせなかったのだろう。
もはや。
「それはまた……危険では……?」
「もう、戻らない」
「……は?」
「僕はもう、帰ってこない」
心臓がびくんとはねた。その意味を理解することが出来なかった。
頭は拒絶していた。だが、体は正直だった。冷や汗が落ちる。呼吸が荒くなる。息が熱くなる。
「やるべきことはまとめてセントラルに入れておいた。当分はそれをやりなさい。
そのあとは……勝手にするといい」
声は淡々としていた。穏やかで知性に満ちていた。
有無を言わさぬ力があった。ルーザーだからこそ、ルーザーにしか持ち得なかった、カリスマによって。
「大したことではないよ」
彼は最後にそう言った。
かちゃりとドアが開く。
目が合った。呆然と立っていた高松と、ルーザーの目が合った。
天才は……にっこりと微笑んだ。
「立ち聞きかい? 悪い子だね」
そう言って、彼――高松の頬にキスをした。
「このことは、1週間は誰にも話してはいけないよ」
そんな魔法をかけた。天才は。最後に。
◆
1週間どころか。その後も。
誰にも話したことはない。多分、一生話すことはないだろう。
話す必要などどこにもない。これは高松だけの記憶。
ルーザーが話していた相手、一番経験深く、有能だった研究員。彼も死んでしまった。
当然のように死んだ。ルーザーの才能に殉じて。
「やりなさい」と言われたことをした後は、「勝手にするといい」と言われたように、勝手に死んだ。
ふふっと高松は笑う。
狂気か天才か。それは死ととても近いところにある。……そして生と。
高松が今生きているのは、紛れもなくルーザーのおかげだ。あのキスのおかげだ。
そこにどんな気まぐれがあったのかは知らないが、
もしかしたらどこぞの最愛の弟と見間違えでもしたのかもしれないが、
そんなことはどうでもいい。
最後にあの方の目線に入ることができた。ただそれだけでも充分だったのに、
あの方はキスと秘密までくれたのだから。
高松は笑う。
目の前のプログラムに目をやる。不条理な現実。間違えてしまったコード。
――やれやれ。
それを隣の天才のコードと、全く違う言語で書かれた、完璧なコードと見比べながら。
――もう少しだけ、考えてみますか。
狂気の科学者はそう考えて笑う。
いつまでも、いつまでも。天才に恋い焦がれながら。
2007.1.20
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