「……」
ふうと息をついて、高松は額に手をやった。
液晶スクリーンから放たれる明かりが、彼の肌を白く照らし出す。
部屋の照明は点いていない。窓のブラインドは開いたままだ。集中しているうちに暗くなってしまった。
そんなことは久しぶりだった。
久しぶりにプログラミングに熱中して、そして……詰まってしまった。
ループ、という状態だ。Aを実行するとBに行き、Bを実行するとAに行く。
コンピューターは正直だ。命令されたことしかしない。だからこそ愛おしいが、だからこそ小憎らしい。
まったく、こんな時には。
高松は息を吐いた。手元のカップからコーヒーをすする。
私も年ですかねえと心の中で呟いてみた。いや、こんなことは若い頃から幾度となくあったのだが、
繰り返してきたことなのだが、とりあえず年のせいにしてみると気が落ち着く。そういうものだった。
――冷静にならなければ。
そう考えて、頭に手をやる。
じっと画面を睨みつけた。無機質な記号の列を。不条理な現実を。
いや、その不条理を作り出したのは自分であって、自分以外の何者でもないのだが。
だからこそ研究というのは面白くて……過酷だ。
この数時間、いや下手をしたら数日の苦労が無に帰すかと思うと、めまいがしてくる。
たった数日、だがそれにどれほどの労力を費やしたのやら。
いくらのカロリーを消費し、どれだけの熱意と集中と知恵と力を注ぎ込んだのか。
そんなことを考えても仕方ないのだが……もちろん頭のもう一方では、
このループを抜け出す道を懸命に模索している。……ただこれは簡単なことではない。
それは経験による直観で分かった。
――これを抜け出すには、自分の能力の限界か、あるいはその先まで行くことが必要だろう。
ふふっと高松は笑う。それこそ研究の醍醐味。だが、だからこそ研究は人を狂わせる。
狂気か天才か。
――ルーザー様なら、どうしただろう。
そんなこと、考えるまでもなく分かっている。
あの方なら迷うことなくこの道を真っ直ぐに進んで、道を切り開いて見せただろう。
自分のように、やり直すだとか迂回するだとかいうことは、少しも考えなかったに違いない。
迷いなど片時も見せず。弱さなど頭の端にも上らせず。ただ自分の力を信じて、あるいは確信して。
だからこそ、あの方は天才だった。
狂気という人もいたが、紛れもなくあの方は天才だった。――研究においては。
――ま、日常においては、狂気そのものでしたけれどもね。
高松はそのことも、懐かしく思い出していた。
◆
ガンマ団の研究室。そこはパーティションでいくつにも区切られた空間。
その部屋のドアが開く。
とたんに部屋は緊張に包まれた。隣の部屋から入ってきたのは、白衣に身を包んだ若き科学者。
この研究室の長にして、総帥の弟、ルーザー。
彼は大股で部屋を歩いていく。少し癖のある金の髪が揺れ、寄せられた眉が不機嫌を物語る。
しかしその足取りに迷いはなく、その瞳にためらいはない。
カッと足音を響かせて、彼は一つのパーティションの前で立ち止まった。
「このデータはどういうことだい?」
「はっ……すみません!」
「僕は気をつけるように言ったはずだ。この変数は扱いづらいから、あらかじめ策を講じておくようにと」
「はい!」
答えは常にイエス。それ以外を、ルーザーは認めない。
「分からなかったのか、分かろうとしなかったのか、そんなことはどうでもいいけれども……」
言いながらルーザーは片手だけで研究員の襟首を掴み、自分の方に引き寄せた。
「僕は、不愉快だ」
バンッ。もう片方の手が、正確にその研究員のパーソナルコンピューターを破壊する。
眼魔砲。選ばれた一族だけに与えられた異能の力。それをこのように精密に操ってみせる人間を、
高松は他に知らなかった。ほとんど見もせずに、ハードディスクが納められた部分を撃ち抜いている。
それが悪いのだと。コンピューターに罪はない、
そこに正しくないプログラムを打ち込んだ人間が悪いのだと、無言で教え諭すように。
「やり直しなさい」
「はいっ」
「バックアップは取ってあるんだろう?」
「は、はいっ」
「それともこの頭はただの飾りかい?」
「いえ!」
「そう……じゃあ、問題はないね」
どすんと研究員の体が床に落下する。片手一本で大の大人の体を吊り上げる力。
それもまた、青の一族という選ばれたものに与えられた、恵まれた能力。
くるりとルーザーはきびすを返し、来た道をそのまま戻って、部屋を出て行く。
扉を乱暴に閉めることはせず――扉に罪はなく、なにより彼は騒音が嫌いだ――、
ただかちゃりと鍵をかける音がして、その向こうに若き天才は消えた。
あの向こう側には、彼個人の研究室がある。防音壁で囲まれ、窓には二重のガラスがはめ込まれ、
何台ものコンピューターとスクリーンと、実験器具と、いくつかの趣味の私物が置かれた部屋が。
ふうと誰ともなく吐いた息が、部屋全体を包み込む。
これはまだいい方だ。もっともマシな方だと言っていい。
誰も死ななかったし、コンピューター1台が破壊されただけだ。
彼は――今回失態をしでかした研究員は、それを取り戻すのにこれから1週間はろくに眠れない日を
過ごすことになるだろうが、それだって最小の被害と言っていい。
研究プロジェクトというものは、数週間、あるいは数ヶ月単位の努力が
無に帰すことも珍しくはないものだ。
……もっとも、ルーザーのラボラトリーに限っては、そんなことはあり得ないが。
その前に彼が止める。ルーザーが気づく。これは正しくないと。
そして……先ほどのようなことが起きる。
まったくもって正しい。ルーザーのすることはいつだって正しい。
間違っているのはいつだって人間の方だ。天才のすることに誤りはない。
だからこそ、人は彼について行った。
あのような仕打ちをいくらされても、研究員たちはルーザーを追い続けた。
それを不条理とは思わず、自分の失敗を悔い、再び過ちを犯すであろう恐怖に震えながらも、
それでも彼を追いかけた。天才の行く道を。どこまでも、どこまでも……。
◆
高松は笑う。
寂しく笑う。
なんて幸福な日々。なんて幸福な記憶。
帰りたい。帰れるものなら、帰りたい。いつだって。
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