空と海と 中編


こちらに向けてくる兄の真剣な眼差しを感じながら、ルーザーはしばらく考え込んだ。
イエスかノーかではない。そんな答えはもう決まっている。
可能か不可能か、それだけが大切なことだった。
彼は、幼くして天才と形容され専門の教育を与えられた、頭脳の全てを駆使して考えた。
あらゆる可能性を、そしてそれを広げる方法を。
答えが決まっているのなら、あと取れる手段は変数を操作し可能性を高めることでしかない。

「わかりました。兄さん」
やがて、十数分以上の沈黙を経て、ルーザーはうなずいた。
「手伝ってくれるのか?」
「はい」
弟の返答を聞いてマジックは嬉しそうに笑う。
長い緊張から解放されたその顔は、無防備な少年に戻っていた。
「では、明日から僕のカリキュラムも変えます」
ルーザーは笑みを返すことなく、淡々と告げる。頭の中ではすでに仕分けが始まっていた。
さっきまで読んでいた書物も、もう必要ないなと消去する。あれはあまり実践的じゃない。
「これからは理論よりも実践にシフトを移します。団の研究所から教師を招いてください。
 飛行船や兵器について、実地で学びたいので。それ以外の教師も入れ替えたいな」
「あ……ああ」
今度はマジックが呆気にとられたようにうなずく。
ルーザーはその顔を見て、少し笑った。

そうしながら、頭の中からたくさんのものを捨てていった。
感情も、その一つだ。あれは考えるのに邪魔だった。
他者を理解することもそう。労力を取られるわりに得られるものは少ない。
だから捨てていった。
別に無理をしたわけではない。元々ルーザーはそういったものは好きではなかった。
ゆえにむしろ好都合とすら感じていた。
余計なものを排除して、ただ目的に向かって突き進むことは楽しく、
そんなわがままが許される状況はとても居心地がよかった。

……つまり、何も無理をしたわけではないのだ。むしろ解放されたようなもの。
マジックが覇者としての素質を開花させたように、ルーザーは科学者として目覚めた。
ただ、それだけのこと。進んできた道に後悔は微塵もなかった。

激戦区と呼ばれるEブロックに向かう船の中で、ルーザーは遠い昔に捨てたものを
呼び覚ましてみようとする。だけどやっぱり周囲の世界は遠く、彼にとっての現実ではなかった。
ルーザーの現実は、常に自身の頭脳の中にだけある。
純粋理論から実践にシフトしたといっても、それはあくまで理論の中での実践で、
現実に適用するにあたってはいくつもの軋轢があった。

例えば、そう……。

16歳の時、ルーザーは初めて実戦の場に立つ。
当時、兄であるマジックはガンマ団総帥としての地位を確立しつつあり、
自らの権力を確固たるものにする一方で、父の代からいた古い幹部達の粛正も進めていた。
今までは年若い総帥を補佐するという名目で、
有形無形の圧力をかけてきた参謀達を、一気に刷新する。
彼は17歳にしてもうそれだけの力を手にしていた。
マジックが覇者の素質を持つことを、疑う者はもはやいない。

ただ一方で、過渡期にある団は避けようのない人手不足に陥り、
指揮官を――特にマジックが信頼できる指揮官を、欠いていたのも事実だ。
兵卒レベルにおける若き総帥の人気は高く、士官でも心酔している者は多い。
だから追々抜擢すれば粛正の穴は埋まるのだが、こればかりは人に任せることも、
またその場しのぎでおざなりに決めていいことでもなく、時間稼ぎの人事をと考えた場合、
総帥の弟という存在はいかにも適任に思えた。

もっともマジックは、ルーザーは断るかもしれないと考えていたのだけれど。
弟は圧倒的な才能を見せつけることで団の科学部門を実質掌握していたが、
それだけに何よりも研究を優先するルーザーが、実戦の場に立ちたがるとは思えなかった。
しかし弟は兄の要請をあっさり受諾する。

そうして戦場に出て行ったルーザーが持ち帰った戦果は、マジックの思いもよらぬものだった。

「ルーザー!」
呼ばれて総帥室に入っていき、後ろ手にドアを閉めた途端、兄は感情を爆発させた。
「なんだこれはッ」
机に叩きつけるかのように、上空から取った偵察写真を投げ出す。
写っているのは谷間の小さな村と、無数の死体だ。
武装した男たちだけではなく、女子供までもが路上に倒れている。
「敵を殺したんですよ」
ルーザーは首をかしげた。どうして兄が怒っているのか、よく分からない。
「これでこの地域のゲリラは全滅しました」
写真を指でなぞり、満足げに笑う。
実験が成功した時のように――いや彼にとっては、両者の間に何も区別はなかった。

「村ごと殺し尽くせとは、私は命令していない」
まだ感情が収まらないかのように、マジックは弟を睨みつける。
ルーザーは兄の顔をしげしげと眺めてから、淡々と説明を開始した。
「ここは場所的に都合がよかったんです。Matricariaの」
「マトリカリア?」
「僕が開発した神経ガスですよ。空気よりもずっと重くて、上空からの散布に適しています」
「……そうか」
マジックは言いたいことをこらえるかのように、乱暴に椅子を引いて腰を下ろす。
ルーザーは兄の青白い顔と額に浮かぶ汗を見ながら、言葉を続けた。
「谷間ですから、風に流されて薄まってしまう危険性も低い。それでもさすがに
 飛行船の高度から直接散布はできないし、ミサイルで撃ち込むのも攻撃を悟られますから、
 深夜に超小型の無人飛行機とパラシュートを付けたポッドでの投下を組み合わせて……」
「もういい」
「いいんですか?」
さえぎった兄に対し、再度首をかしげてみる。
本当に、何が兄をそこまで動揺させたのか分からなかった。
「説明はまだ終わっていませんよ、兄さん」

「私がおまえに説明を求めているのは、何故女子供まで殺したのかということだ」
「ああ、そのことですか」
ルーザーはうなずいた。
「効率がよかったんです」
「効率?」
「はい。この山岳でゲリラ達と直接交戦した場合と、ガスを使った場合を比較して。
 交戦の場合我が軍に出る被害を考えると、村民の損害のほうがずっと少ない。
 どうせこのあたりは貧しい土地ですから、環境への影響も……」
バンッと苛立たしげにマジックは机を叩いた。その音に驚いてルーザーは口を閉ざす。
だが、しばらく待っても兄は何も言おうとしないので、また渋々言葉を発した。
「僕は何か間違えていますか、兄さん?」

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