マジックは、ルーザーには不可解な表情をして、弟を見つめている。
この作戦を提示した時の、部下達の顔が思い起こされた。
彼らもやはりこんな風にルーザーのことを見つめていたのだった。
だが「何か間違えているか?」と尋ねても、満足のいく答えを返せるものはいなかった。
まったく訳が分からない。理不尽だと思いながら、ルーザーは兄の視線を受けとめる。
マジックはそんな弟の様子を見て、怒鳴りつけたい様子で口を開いたが、すぐにそれを閉じ、
目を伏せてしばらく沈黙した後に改めて、絞り出すように言葉を発した。
「ルーザー、おまえのやり方は正しくない」
「どこがです?」
「……こんなことをしては、味方の志気までもが下がる。それは離反者を生む。
今の私にとっては、兵士の支持を失うことがもっとも避けたいことだ」
そんなことは考えていなかったと、ルーザーはまばたきをする。
「分かるか?」
念を押すように聞いてくる兄は、むしろ理解してくれと懇願するかのようだった。
「……はい」
実際の所、これで志気が下がるというのはよく分からなかったが、うなずいた。
兄が言っているのはルーザーには元々分からない、というより分かるつもりもない分野の話だ。
だから兄の言うことをそのまま受け入れることにする。
ただ、もちろん納得したわけでもなかった。
兄さんは余計なことを考えすぎるんだと思う。
兵士達のこともそうだが、実のところルーザーを怒鳴りつけなかったことにしてもそうだった。
どうしてためらったりなどするんだろうと思う。理不尽であってもルーザーは従う。兄だからだ。
他の人間はともかく兄の言うことならば、納得できなくても従うのに、
どうして言葉を選んだりするのか。……あんな、懇願するような顔をしたりするのか。
いつの間にか、少しずつ自分たちの距離が離れていっているのを、感じずにはいられない。
その後、マジックはルーザーに二度と部隊の指揮をまかせようとはしなかった。
けれどもガンマ団総帥としての彼は、この結果生まれた
「空から死の霧を撒く、無慈悲な若き天才科学者」というイメージは、
敵を抑えつけるために、また味方を従わせるためにすら、最大限に利用する。
ある一時期、ルーザーの名は団の内外で恐怖を持って語られ、
それは彼の兄であるマジックの権勢をますます高めることにもつながった。
◆
別に、そのことにも不満はなかった。効率的だからだ。
周囲から人が離れていくことだって、結局は仕事がやりやすくなったとしか考えられなかった。
人に任せるよりも自分でやったほうが、ずっと早くて確実である。
ルーザーに限ってはそれはつねに真であり、だから彼は本当に誰も必要とはしていなかった。
そうやってますます研究に没頭した。
呼吸を止め、深い海の底へ潜っていくような、あるいは高山の峰へと這い登っていくような。
神経に針を刺すような集中力で、自分自身を摩滅させるような没入で。
天才といえども苦しくないはずはない。それでもルーザーを先へと駆り立てたのは、
自分はまだ先へと行ける、まだ呼吸をし続けられるという自負と、
確かにこれは兄の役に立つのだという、盲信にも似た愛だった。
でも、そうして愛すれば愛するほど、二人の間に出来てしまった溝に気付かずにはいられない。
兄は自分を恐れている。感情を捨てたルーザーにも、なぜかそれは分かってしまった。
どうしてだろう。兄のために力を手に入れたのに、その力のために兄はルーザーを恐れている。
だけどそのこと自体は不条理ではなかった。
自分たちは強い力を手に入れた。周りの大人に対抗するために、
互いにいろいろなものを犠牲にして力を求めた。兄は権力を、弟は科学力を。
幼い自分たちには力が足りなかったので、二人は手分けをして二つの世界を支配したけれど、
兄はすべてを支配することを望んだから、いつかはきっと――破綻が来る。
それは、当然の道理だ。道は分かれていき、もはや一つには戻らない。
空に太陽は一つ。海に浮かぶ月も一つ。
まばゆい昼の光の中で、ルーザーは自分が愛した静かな夜の世界を思う。
ずっと昔、眠る前に聞かされたことがある。世界がまだ混沌としていた頃、
神はこの世を空と海とに分けた。その時、神の子供である兄弟は、空と海とに別れてしまったと。
だが、代わりに空と海の狭間には陸ができ、人が生まれた。そうして世界は形作られた。
彼らはこの世の終わりに、水平線の向こう側で出会うのだという。
きっと、マジックとルーザーもそうだったのだ。
この先に待ち受けることを、ルーザーはすでに知っていた。
あの昼の庭で、どうしたら兄が世界を手に出来るかを考えた時から、知っていたような気もする。
別に何も不満はない。いつかこうなることを、ルーザーは分かっていた。
力には代償が。切り捨てたものには、必ず報いがある。
感情を捨てたルーザーは、感情に裏切られた。
自分の中に今も渦巻くこの自責の念に、もうこれ以上は耐えられない。
子供の頃からずっと、ストレスには極端に弱かった。それも鋭敏な頭脳の代償だったのだろう。
他者には1の刺激が、ルーザーには10にも20にも感じられる。
だから煩わしいことは極力避けて生きてきた。だけど、とうとう破綻してしまった。
……すべては、それだけのこと。
窓の外ではいくつもの雲が流れては消えていった。
飛行船は進んでいく。止められない破滅に向かって。
ルーザーはブリッジに立ったまま、静かに運命を見つめていた。
命とはどんなに重いものなんだろうと常々考えてきた。
ルーザーにはそれが重いということは分からなかったけれど、
まわりの人間がそれをとても重いものだと考えていることは分かったので。
だけど今、自分の命を失おうとして思うことは、やはり命は軽いものだということだった。
生命は生まれた時から死に向かっている。それは遺伝子に刻み込まれたプログラムだ。
新しい命を生み出せば、もはや旧世代に生の意味はない。
遺伝子の運び屋、どこに行き着くのかも知らないまま、生き物は生死を繰り返す。
そうやって、どこかに向かって生きている。
あの光の庭から十数年、今ではマジックもルーザーも子供を持った。
だから後はもう好きに生きてもいいだろうと、そんな風にも考えたのかもしれない。
本当は……兄が止めてくれることを、望まないわけではなかったけれど。
それはもっと生の苦痛を長引かせることでもあったから。やはり、これでいい。
さようなら、兄さん。ルーザーは笑った。
限りなく幸福な笑顔で。
もう深海に潜ることも天空を目指すこともしなくていいのだという、安らぎの中で。
空と海との間を一直線に、天駆ける船は進んで行く。
水平線の向こう側を目指して。
2004.10.15
|