空と海と 前編


長い……夢を見ていたような気がする。

ルーザーは大空を往く飛行船のブリッジから、窓の外に広がる昼の世界を眺めていた。
日頃研究室にこもって昼夜を問わず作業に明け暮れている身には、
太陽の輝きはあまりにまぶしく、彼は色素の薄い目を細める。
まるで遠い世界のようだった。その最中に身を置いていても、やはり実感は湧かなかった。
死地に赴く艦内の雰囲気は、否応のない緊張感と、どこか自虐的な明るさに満ちていたけれども、
ルーザーの感情はそのどちらからも無縁の場所にある。
ずっとそうだった。人生の中でずっと、彼は他の人間とは違う時間を生きてきた。

いつ、それが始まったのだろう。
ブリッジに立つルーザーは、背筋を伸ばし少しの乱れもない姿勢のまま、目だけを閉じた。
記憶を巻き戻す。映像フィルムのように正確に、情景を逆に再生しながら、
彼は時間をさかのぼってみる。
今までにあげた研究の成果、そこに至るまで繰り返した実験、立てた仮説、元となった着想……
絶え間なく再生されていく文字列と、合間に混ざる雑多な人間達の記憶をかき分けて。
それからずっと一緒に生きてきた兄弟達の姿が、
青年から少年へと逆向きに成長するのを辿りながら。
やがて彼は一つの風景へと行き着いた。
目を開く。網膜を刺激する光の刺激の中で、ルーザーはたどり着いた一つの記憶を再生する。

あれはやはり真昼の時間で、場所は屋敷の庭だった。
贅を尽くして作られた庭はしかし、先代当主の急死から続くこの屋敷の混乱を反映するかのように、
草木は無秩序に伸び、どこか退廃としていた。
ルーザーはそんな庭が嫌いだった。そうなってしまった世界も嫌いだった。
父の死から逃げ込むように勉学に没頭していた彼を、その庭に連れ出したのは、
一つ年上の兄、マジックだった。

「こんなところで、なんですか兄さん?」
不機嫌に顔をしかめながら、ルーザーは尋ねる。
内心では放り出してきた書物の続きが、気になって仕方なかった。
「今日もいい天気だな!」
マジックはそんな弟に背を向け、太陽に向かって声を張り上げてみせる。
彼はまだ少年で、その背は今よりもずっと小さかったが、すでに当主としての重責を担う気概を
存分にみなぎらせ、めまぐるしいほど急速な成長の途上にあった。
周囲は変化することをマジックに強い、幸か不幸か彼はそれに応えるだけの素質を持っていた。
だけどその時ルーザーの目の前にあったのは、同意を求めるかのようにこちらに振り向いて、
父の生前と同じ屈託のない笑みを浮かべる兄の姿だった。

「そう思わないか、ルーザー」
マジックは手を広げて笑う。長兄らしく生真面目な兄は、笑うとひどく無防備な表情になることを、
ルーザーは思い出していた。
「確かに、いい天気ですね」
それは事実だったので同意する。頭はすでに書物のことから離れ、
兄がどうして自分を呼び出したのかを考え始めていた。こんな前置きがあるからには、
なんらかの意図あってのことだろうと、思考はいくつもの可能性を検討する。
「それで何の用なんですか、兄さん」
「そう焦るなよ。前におまえと話したのっていつだっけ?」
「……四日前です」
忙しい兄はすでに学校に通うことも諦め、執務を覚えることに専念するかたわらで、
家庭教師から集中的な講義を受けていた。寝る間も惜しむ程の日々の中では、
自然と同じ屋根の下に住む弟たちと顔を合わせることも少なくなり、
今では数日会わないことも珍しくない。
それを寂しいと思わないわけではなかったが――むしろだからこそ、ルーザーも
より一層自分の勉学にのみ集中するようになっていた。
一緒に学べればまた違ったのかも知れないが、
生憎ルーザーは政治学や行政学といった総帥に必要な学問には興味がない。

「もうそんなになるのか。気が付かなかったよ」
「兄さんは忙しいですから」
「でも、充実している」
マジックはまた笑う。思わず顔をそむけたくなるほどに、無防備な笑顔で。
本心から言っているのだと全身で主張するような明るさで。
「本当に?」
ルーザーは反射的に口にしていた。
「本当に」
少しむっとしたように兄は言い返してくる。
こうなった兄は決して引き下がらないことも、ルーザーは知っていた。
「……本当だぞ」
不満をたたえて黙っていると、すっと目を細めてマジックはさらに念を押してくる。
その顔には反論を許さない以前にはない厳しさがあって、
今の兄には背負っているものがあるということが、嫌でも思い起こされた。
ルーザーにとっては、目をそらそうとしてきた不愉快な部分だ。

「ルーザー」
自分の心に忠実に、兄の顔から視線をそらした弟を、マジックは呼び止めた。
「なあ、僕はおまえに手伝って欲しいんだ」
「何をです?」
嫌々ながらに聞く。
先回りして考えたいくつかの想定は、どれも不愉快なものだった。
総帥の業務を手伝うことも、幼い双子の世話を一手に引き受けることも、
屋敷を監督することも、やらなくてはいけないことは分かっているが、あまりに煩わしい。
ただのわがままだと分かっていても、極端にストレスに対して耐性がないルーザーにとって、
煩わしさを避けるということは、生きていく上でどうしても譲れない防衛本能に等しい。

「世界を手に入れるんだ」
だがそんなルーザーの思いを吹き飛ばすように、マジックは力強く宣言した。
「……え?」
自分の思惑を越えた返答に、一瞬思考が停止する。
「僕は、世界を手に入れる」
握った拳を顔の前にかざして、マジックは再度弟に対して言ってみせた。
その目は真っ直ぐルーザーを見つめ、口元にはわずかな微笑がある。
しかしもはや兄の笑みは無防備には見えなかった。
むしろ危険を感じるほどに、マジックは世界に向けて何かを発していた。
「父さんの代わりに、僕が世界をこの足元に跪かせてやるんだ」
革靴がパシッと土を蹴り、芝生を散らす。ルーザーはそこにマジックの怒りを感じた。
父を殺した世界に対する怒り――復讐という言葉が頭に浮かぶ。
だけど、昼の庭に立ったマジックの姿は、それだけではない光も帯びていた。
強い意志は負の感情だけではおさまらない輝きを持って、世界を見据える。
若さとか理想だとかいったもの、あるいはもっと根本的なマジックの素質――覇者としての。
まぶしい光の中で、一歳違いの兄は一瞬もっと年上に見えた。
「手伝ってくれるよな、ルーザー?」

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