青の一族の本邸は広く、庭はそれ以上に広大だ。
マジックとて全てを把握しているわけではなかった。
だから、庭の奥まった一画でルーザーの後ろ姿を見つけた時は心底安堵した。
天才である弟とはまた違った部分で、マジックも「失敗する」ということは嫌いだった。
これはもう、青の一族に生まれたものの宿命といっていい。彼らは挫折を嫌い、弱さを嫌う。
ともあれ、どうして弟のいる場所が分かったかというと、
そのあたりだけマジックの記憶とは形が変わっていたからだ。
ごく最近庭師に造形を変えさせたのだろう。
小さなバラ園だった一画は綺麗さっぱり整地され、
ぽっかりと開いた空白のような正方形の空き地になっていた。
そこにしゃがみ込む小さな影。
――なんて似合わないんだろうと思った。
あのルーザーが庭いじりとは。
「なに……やってるんだ」
声をかけることが出来たのは、あまりの意外性のおかげかもしれない。
ルーザーの肩は一瞬ぴくりとふるえ、それから彼はなんともない顔をして振り返った。
「ああ、兄さん」
取り繕った顔……ではない。残念ながら。
彼はまったくもっていつものルーザーだった。無表情で無感情な。
それでいてどこか、世界のすべてを馬鹿にしているかのような少年。
「僕の庭に立ち入らないでもらえますか」
とりつく島もない言葉。
「ここはおまえの庭じゃないだろう。僕らの庭だ」
マジックはむっとして言い返した。弟のこういう部分が嫌いだった。
勝手になんでも決めてしまって、自分で線を引いて、その中に閉じこもってしまう。
一族以外の者に対してはそれでもよかったが、というか知ったことではなかったが、
自分たち――つまりマジックと弟達にまでそうであることには、我慢ならなかった。
なのでマジックは、がんとして立ち退くつもりはなかった。
……ルーザーの言葉によって、却って引き返せなくなっていた。
「なにしてるんだよ」
再度そう問いかけながら、ずかずかと近寄っていく。
ルーザーはわざとらしく盛大に溜息をついてみせて、再びマジックに背を向けてしゃがみ込む。
マジックはその肩に手を置いた。
「おい」
そうして肩越しに弟の手元を覗き込んだ。
目に飛び込んできたのは、土に汚れた白い手。
――ああなんて似合わないんだろうと思った。
思わず目眩をおこすほどに、ルーザーの手が土に汚れていることは不快だった。
理由まではよく分からない。しかし直感的に、マジックはそれが嫌だった。
「……植物を、育ててみようかと思って」
ルーザーも同様に嫌なのだろう。彼は手を止めると同時に、神経質に手についた泥を払った。
「そういえば最近、そんな本ばかり読んでいたな、おまえ」
山のように取り寄せては、あっという間に捨てていく多数の本。
マジックは屋敷に運び込まれるそれらの、目録には目を通していた。
それは父の留守を預かる自分の義務だと思ったからだ。
自分たちの家に持ち込まれるもの全てを知っておくのは、長兄としての義務だと。
そうすることは同時に、ルーザーの知性と天才性を嫌でも見せつけられることでもあったのだが。
「そうです。でも実際に実物を見てみないと分からないことも多くて。
それで取り寄せてみたんですが、見れば分かるというものではなくて、
継続的に観察を続けないと分からないことも多くて……」
マジックの思惑をよそに、ルーザーはぶつぶつと繰り言をつぶやいていた。
彼なりの愚痴なのだろう。
本を読めば終わりではない知識というのは、ルーザーにとって面倒なはずだ。
まして清潔な研究室での測量ではなく、土に手を汚さないといけないだなんて。
「そんなの、やめてしまえばいいじゃないか」
自分でも分からないまま不機嫌に、マジックも応じた。
弟の不快さがうつったというわけではないのだろうが、マジックも同様に不快だった。
ルーザーの手が汚れているということは。
「……でも植物学は面白いんですよ。だいたい、僕が途中で止められるわけないじゃないですか」
ルーザーは好き勝手なことをいう。もっとも彼がわがままなのは今に始まったことではない。
「分かったら兄さんは邪魔しないで下さい」
言うだけ言って、彼はまた土に手を伸ばそうとした。
「待てよ」
慌ててマジックはその手を掴む。ルーザーはびくっと体を震わせた。
……彼は人に体を触られるということが嫌いなのだ。病的なまでに。
「あ、悪い」
「いえ……」
気まずい沈黙が流れる。マジックは自分の苛立ちも頂点に達しようとしていることを感じていた。
まったくもって、何もかもが上手くいかない。思惑とは違う方向にばかり転がってしまう。
マジックはただ、ルーザーの手が土に汚れることが嫌なだけなのに。
「……僕がやるよ」
感情を押し殺して息を吐き、マジックはそう言った。
「え?」
分からないという顔で見上げてくる弟の横にしゃがみ込み、彼の代わりに土に手を伸ばす。
「僕が植えてやるよ。土、触るの嫌なんだろ」
一つだけ確かなことがある。この弟には、手を汚すなんて絶対に似合わない。
今もこの先も、実際に手を汚すのは絶対に自分であるべきだ。
「いいですよ。そんな。兄さん……」
珍しくルーザーの歯切れが悪いのは、やはり手を汚すのが嫌だからだろう。
「いいからよこせよ。僕の方がずっと早く出来るから」
「それは……そうかもしれませんね」
思った通りだった。効率を理由にするとルーザーはあっさり引き下がる。
何事も理屈っぽいのが彼の特長であり、同時に弱点でもあるのだ。
兄としてそれを見抜いていることは、少し誇らしかった。
「ほら、こんなのすぐに終わらせてやる」
「あ、兄さん」
張り切って苗を掴んだところで、ルーザーがぽつりと言う。
「それは茎に毒がありますから、気をつけて下さい」
「……おい」
そんなもの庭に植えるなよと叫ぼうとしたが、「どうして植えてはいけないんです?」と
切り替えされることも容易に予想がついた。まったく、この弟は理屈っぽいのだ。
「ですからなるべく葉や枝先の部分を持って下さい。根本は絶対に触らないこと」
言葉を探して見上げたルーザーの顔は、いつの間にか、にこにこと微笑んでいた。
切り替えが早いというか、感情に囚われないというか、
もう兄が自分の作業を手伝ってくれることを心の底から喜んでいるらしい。
そんな笑顔の前ではマジックは何も言えなくなってしまう。
ルーザーの微笑みは、まったく非の打ち所がなく美しかった。
普通の人間なら誰しもが持っている――まだ幼児である双子の弟たちすら持っている――
打算や思惑というものが何一つない、
相手を喜ばせるためではなく、ただ自分が嬉しいのだという純粋な笑顔であるだけに。
◆
「なあ、でもこれ、ハーレムやサービスが触ったらまずいんじゃないのか」
「触らないように、それ以前に僕の庭には入らないように言いつけておきます」
「言ったって聞く奴らじゃないだろ」
「サービスは聞きますよ」
「……ハーレムは」
ああまた厄介なところに入り込もうとしている。今日だけはそれは忘れようとしていたのに。
「言いつけを破って手が腫れても、それは当然の報いです」
きっぱりと言い切る声に頭が痛くなった。でもダメだ、ここで叫んだらいつもの二の舞だ、
そう思って我慢する。
「手が腫れるってどのくらいなんだ?」
「さあ。子供のサンプルは取ったことがないのでわかりませんね。
だけどこの苗もまだ若いから、そう大したことにはならないと思いますよ。
ちゃんと解毒剤は用意してありますし」
「……」
なんと返せばいいのだろう。
解毒剤は用意してあることを褒めるべきなんだろうか。
マジックは押し黙って作業を再開した。
弟が出してくる苗を、彼の指図に従って決められた場所に植えていく。
ルーザーの頭の中にはもう庭の全体像が出来上がっているようで、指示は少しも迷うことなく
的確そのものだった。マジックも元々手作業は得意なので、作業は凄い早さで進んでいく。
自分が植えているのが毒草だとか、一本で車が買える高価な苗だとか、
どれ一つとして普通の植物はない、という事実さえ忘れれば、いっそ気持ちがいいほどだった。
手を動かしながら、やっぱり兄弟なんだなとマジックはぼんやり考える。
こんなに呼吸が合うのは血がつながっている兄弟だからだろう。
それなのにどうして、いつもはこんなに上手くいかないんだろうか、とも。
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