合わせ鏡 前編


ドアがノックされる音がした。
鍵を開けて扉を開けると、予想していた人物と身長が違ったので、一瞬見失った。
ルーザーにも、たまにはそんなことがある。
「サービス」
「こんばんは、ルーザー兄さん」
幼い末弟はそう言って、ぺこりと頭を下げる。
「今、いい?」
「いいよ」
ルーザーはニッコリと微笑んだ。もちろんサービスを自分がどんな時も、拒むことはない。

「宿題かい?」
「ううん。違う」
ベッドに座り、膝の上に抱き上げる。その髪を指に絡ませた。
「ねえ、ルーザー兄さん」
「なんだい?」
「『懸想する』ってどんな意味?」
サービスは抱えていた本の1ページを開けて、そう尋ねる。
「それはね、他者に思いをかけることだ。恋い慕うことだ」
「恋するってこと?」
「そうだね」
「ふうん」
小さな少年はうなずく。どこまで理解できているのかは分からないが、そう考える自分よりは
ずっと理解できているのだろうと、ルーザーは思った。

サラサラの髪の感触を楽しみ、そのシャンプーの香りを吸い込みながら、しばし物思いにふける。
ルーザーはそうしている時間が好きだったし、サービスもそれを邪魔するような子供ではなかった。
最近のルーザーは疲れている。それは、他の誰にも悟らせないようにしていることだけど。
士官学校、勉強、研究、そしてミツヤとの――チェス。
どれもルーザーにとっては煩わしくて、面倒で、ストレスが溜まって仕方のないことだった。
いや研究は本来違うのだろうけれども。
しかしその研究すら、最近は自分のやりたいことが出来ていない。
……いや、本当にやりたいこととして考えるのならば、すべてはルーザーが願ったことなのだが。
兄を――マジックを、覇王にすること。

けれどもそこには幾多の障害があり、そして回り道がある。厄介なことだった。
「……」
ルーザーは息をつく。自分は疲れていることを感じていた。けれども、サービスはそれを癒してくれる。
この愛する弟は。この子がそばにいてくれるのならば。
今だってサービスは、黙ってしまった兄に頓着することなく、嬉しそうに本を広げている。
静かな時間。分かち合う時間。

またドアがノックされた。……今度こそ、予定の相手だろう。
ルーザーはため息をつく。
「サービス」
「なあに?」
「僕はちょっと用事があるんだ」
「うん」
弟は兄の膝から飛び降りる。
ルーザーは立ち上がって鍵を開け、扉を開けた。
そこに立っていたのは、予定していた相手――ミツヤ。
「やあ、ルーザー」
そういって笑う。
「今、行く」
ルーザーは明らかに不機嫌をにじませながら、手で先に行っていろと示す。
ミツヤもそれには逆らわなかった。ここはマジックの屋敷だから。微妙な力関係が存在する。
演技なのか、実際に存在するなんらかの力なのか、もはや不明になっているほど、ややこしい関係だが。

「サービス」
「うん」
弟はうなずく。ちゃんと部屋に戻っているよ、と、視線だけで返してくる。聡い子だと思った。
「すまないね、あんまり相手をしてあげられなくて」
「いいの」
サービスは笑った。花のような笑顔で。
「僕はルーザー兄さんに会いたかったの」
「そう」
ルーザーも優しく微笑み返す。

「さて、これが今回の標的だ」
チェステーブルの上に並べられた資料。ルーザーはざっとそれをかき分け、まず履歴に目を通す。
初老の老人だった。経歴はいたって地味。一応は青の一族だが、傍系も傍系。子供もいない。
「大した相手じゃないな」
「うん」
分かっていないと思った。自分の言いたい意味が、ミツヤには分かっていない。
「マジック兄さんの相手として、大した相手じゃないと言っているんだ」
声に不機嫌がにじむことを抑えられない。
「かもしれないね」
ミツヤはいつものように軽く微笑んで、そのルーザーの怒りをかわす。
さすがに慣れたものだった。もう1年近く、自分たちはこんなことを繰り返してきているのだから。
マジックのための暗殺。――それが二人のチェス。

「でも殺す理由はあるんだよ」
「どんな」
「彼がいては、マジックは軍の統帥権を掌握できない」
「ふうん」
たしかにこの老人はずっとガンマ団に所属し、高い地位にまで上り詰めていた。
けれども、まだそれだけでは足りない。
「それで?」
「それでって、何?」
「彼はマジック兄さんの体制に反対しているのか?」
「反対は……していないかな」
ミツヤは軽く首をかしげた。
「でも、賛成もしていない」
「それでは殺す理由にならない」
「優しいね、ルーザー」
腹が立った。相変わらず、何も分かっていない男だ。

ルーザーは言う。説明してやる。
「殺して一から作り直すより、今あるものを利用した方がいいこともある」
「……」
「なんだ?」
「君がそんなことを言うなんて、意外だよ」
「おまえが僕の何を知っているっていうんだ」
不機嫌が抑えられない。
「じゃあ、こう言い換えよう」
ミツヤは手を広げた。
「彼は先日マジックをいさめた。『あなたのやり方は急進的すぎる』と」
「それは正しい」
「……」
今度はミツヤが、あからさまに不満そうな表情になる。
「君がそんなことを言うなんて、本当に意外だ」
意外じゃなくて、遺憾なんだろうと思った。
おまえは単に、僕の言っていることが気に入らないだけだろうと。

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