睦言 前編


扉がノックされる。まず一度。それから三度。
これがいつの間にか決まっていた秘密の合図だった。サービスがルーザーの研究室に来たことを
正確に告げる合図。他の誰でもなく、サービスが来たことを告げる印。
「入りなさい」
部屋の中から声をかける。
この時間、ルーザーは会う人間を選んでいる。会いたくない時には誰にも会わない。
だから在室していても返事をしない。でも、サービスだけは招き入れた。そのための合図。

部屋に入ってきたサービスに対し、ソファに腰掛け、目を閉じて
傾けた頭を肘掛けに置いた手で支えていたルーザーは、うっすらと目を開く。
「よく来たね、サービス」
そう言って笑った。
サービスも微笑む。ローティーンからハイティーンになろうとするこの弟は、
近頃ますます美しくなっていた。士官学校での生活は、彼にとってよほど充実したものらしい。

当初どうなることかと思っていた兄たちの心配とは裏腹に、サービスは至極あっさりと
士官学校での共同生活に適応した。成績がいいのは予想の範囲内だとして、
入学して早々に親しい友人を得たことは、双子の兄ハーレムにとっても意外だったらしい。
彼らと過ごすのはあまりに楽しいらしく、一時は週末すら屋敷に戻ってこなくなったのだが、
一度業を煮やしたルーザーが叱ると、今度はすんなりと毎週末ごとに帰宅するようになった。

そんなサービスの様子を見て、何故かマジックはかえって苛立ちをかき立てられたようだが、
ルーザーとサービスにはその理由が分からない。それにしても、一時帰宅したハーレムまでもが
「おまえ、自分の意志ってもんがねえの?」と言い出すに至って、二人は秘密の合図を決めた。
つまり、週末には屋敷ではなく研究室で会う。ルーザーの研究室で、二人っきりの時間を過ごす。
そのための合図。

どうしてこんなことをしなくてはならないのか、理不尽だと思うけれども、世の中なんて
二人にとってはそもそも理不尽なものだから。うるさく言われるくらいなら、
こうして譲歩したほうが早い。その程度のものだった。彼らにとって、周囲とは。

ともあれ、そんなわけでルーザーは、研究室に弟が気に入っているソファを運び込んだ。
二人で座るのにちょうどいい、柔らかな曲線で構成されたソファ。

すでにそれに腰掛けていたルーザーの隣に、サービスはするりと入り込む。
それから、兄の頬にキスをした。「こんにちは」という挨拶のかわりに。
「久しぶりです、兄さん」
「会いたかったよ」
ルーザーは傾けていた体を起こし、腕を回してサービスの髪に指を絡ませる。
「何か考え事でも?」
部屋に入ってきた時、兄が目を閉じていたこと、それだけではなくかすかに眉を寄せていたことを、
当たり前のように見て取っていた弟は聞く。ルーザーはその問いに、気分良く微笑んだ。
「計算をね、していた」
「邪魔でしたか?」
「いいや。こんなの、ただの暇つぶしだから。僕は、何もしない時間というのには耐えられない」
そしてルーザーはサービスの額にキスを返す。
「おまえが来てくれて嬉しいよ、サービス」

兄のキスに対してくすぐったげに笑いながら、サービスはふと真顔に戻って尋ねた。
「兄さんは、少し疲れていませんか?」
ルーザーは首をかしげる。他の人間――例えば研究室の部下たちが見たら、
怒らせたのではないかと恐々とするような場面だったが、サービスはあくまで微笑みを崩さない。
その表情の裏側にあるのは確信だった。こんなことを言っても許されるという確信。
そして本当に兄は疲れているのだと、返事を聞くまでもなく確信している表情。
ルーザーは、少し、苦笑した。

「そうだね。疲れているのかもしれないな。最近また仕事が増えてね」
「はい」
「仕事が増えるのは構わないのだけど、部下が増えたのは面倒でならない」
「ええ」
サービスはうなずく。ただまっすぐに兄の言葉を受けとめ、ただまっすぐに首を縦に振る。
それだけのことが、何故か部下たちには出来ない。ルーザーは不思議だった。
不思議を知ろうとするかのように、サービスの耳に口付けた。
「面倒ばかりが増えていくよ」
「ルーザー兄さんは、優しいですから」
当然のことのように、サービスは言う。だから彼は何も分かっていないのだと、
他の兄弟なら言うだろう。でもルーザーには、間に省略された言葉がちゃんと分かった。

――ルーザー兄さんは優しい。どの人には何が足りないのかを全て分かっているから。
どうすればいいのかまで、全て知っているから。
分かってしまう、知ってしまう、兄さんは優しい――。

そんなものかなとルーザーは思う。優しいという言葉の意味が、ルーザーにはよく分からない。
だけど、確かにルーザーが疲れているのは、相手のことが分かってしまうからだった。
この作業をするためには彼には何が足りないのか。そして足りない知識は、何を知れば
埋めることが出来るのか。問題点から解決法まで全て分かってしまう。
だが道が分かることと、相手が実際にその道を歩いていくことには、大きな隔たりがある。
この溝に、ルーザーは耐えられない。何故なら彼の認識上では、その差はないに等しいから。

サービスの思考が飛躍しているのよりもずっと、ルーザーの思考は遠くまでを見通す。
彼は溜息をついて、弟の髪に顔をうずめた。
「不思議だね。僕たちに見えるようには、彼らにはこの世界が見えないらしい」
「そうですね」
――そんなものですよ。とは、サービスは言わない。
「みんながどんな風に世界を見ているのか、一度知ってみたいけれど……。
 ああ、だけど、僕はきっと耐えられないな。この目を手放す気にはなれないよ。
 知ってしまったものを、知らなかったことにするなんて耐えられない」
サービスの髪は柔らかく、絹のように滑らかだった。そして花の香がする。
洗髪料の匂いのもっと奥に彼自身の体臭がして、二つがごく自然に溶け合って香る。
どんな花に似ているのだろうと、ルーザーは記憶を紐解く。植物学者でもある彼の、膨大な記憶を。
頭のもう一方の側では会話を続けていた。

「僕には皆にとって当たり前のことが分からない。
 だからね、サービス。僕はもっと違うものを見ることにするよ。
 人には見えないものを見る。どこまで行けるのか、何が見えるのか」
「でも、兄さん……」
兄の邪魔をしないように動かずにいたサービスは、ふと何かを思いついたように言葉を挟んできた。
「ルシフェルは、そうして地の底へと落とされました」
頭の中から三つの花の名を探り当てたルーザーは、サービスの髪を一房とってキスをする。
「神に逆らった天使か。サービスは、僕の望みが大それたものだと?」
「いいえ。僕はあの堕天使が好きです。ミカエルよりも、ガブリエルよりも、ずっと好きです」
ルーザーは笑った。弟の思考は、まったく突飛だ。思考過程そのものは理解出来なくもないが、
なんて無駄が多いんだろうと思う。だけどこの無駄が、不思議と嫌いではないのだった。

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