だから、わざわざ弟の思考に付き合ってあげようかという気になる。
まったくもってルーザーという人間には珍しいことだった。
「サービス。僕は人とは違う、優れた人間だ」
「ええ、そうですね」
「これはただの事実だ。だが、この認知を人は傲慢だという。
……ルシファーの罪も傲慢だったね、確か」
「はい」
「どうして彼は堕天したのだと思う?」
「神に打たれたから」
「そうだ。単純なことだよ。つまり、神は一人でよかった。権力争い。パワーゲーム。
ルシファーはそれに負けた。だから傲慢というレッテルを貼られ、堕とされた」
すっと目を細める。胸に抱きしめたサービスの肩が、小さく震えた。
「僕は、負けない」
弟の頭越しに、研究室を見回す。ルーザーの小さな城。むしろもう一つの体、もう一つの脳のような
このちっぽけな空間を。
「ときどき世界は僕をすり潰そうとする。足を引っ張って地上に落とそうとする。
だけど、僕は負けない。どこまで行けるのか、何が見えるのか」
事実、まわりは敵だらけだった。無能さも敵だ。部下は敵ではないが、彼らの無能さは敵だった。
そんな考え方をするルーザーにとって、この世は敵でないものの方が少ない。だが、それでも。
「知りたいよ。サービス」
この思いだけは真実だった。純粋な知識欲。狂おしく燃える胸の中の炎。
「はい。兄さん」
サービスはまっすぐにうなずいて、すがるように兄の体を抱きしめる。
すべての体重を預けてくるその動きが、ルーザーの尖りすぎた思考をなだめた。
さらなる安らぎを求めて、ルーザーは両手でサービスの顔をなぞる。
頬に手を這わせ、唇に口付けた。花弁のように柔らかな弟の唇が、好きだった。
ゆっくりと舌でなぞって、充分に感触を楽しんでから、口を離す。
サービスは、いつものように少し困ったような顔で微笑んでいた。だけど決して拒まない。
そんな弟の顔を触りながら、ルーザーは息を吐いた。体から力を抜いて、
寝そべるように椅子にもたれかかる。サービスの腕を引っ張って、抱き寄せた。
「ずっとこうしていたいよ」
兄は疲れているというサービスの指摘が、ゆっくりと足元から這い上ってくる。
確かに自分は疲れているのだと、ルーザーは認めた。
けれども弟の体重は負担ではなく、むしろこの重みが心地いい。
「ルーザー兄さんは……」
兄の体の上で、サービスは静かに呟いた。
「なんだい?」
「ルーザー兄さんは、ガンマ団のために働くことは嫌ですか?」
質問の意味を少し考えつつ、頭の回線をいくつもシャットアウトして、答える。
「嫌じゃないよ。そう、嫌じゃない。これは好きでも嫌いでもないところにある問題だ」
サービスはルーザーの疲れの原因を、そんな風に考えているのかとぼんやり思った。
「ただ……少し、そうだね、少し、疲れる。妥協だよ、こんなもの。
本当に世界が欲しいなら、全て消し去ってしまえばいいんだ。
簡単なことだよ。核ミサイル数十発でお終いだ。僕なら、すぐにでも作ってあげられるのに。
……どうして兄さんはそうしないんだろう?」
理解されるように説明するためではなく、ただ率直に自分の心情を吐露する言葉が転がり出る。
いつもは目一杯引き上げている心のガードが、今はほとんど解放されていた。
「マジック兄さんは、愛しているんですよ。世界を」
「そうだね。きっとそうだ」
どこまでも理屈からかけ離れて飛ぶサービスの言葉に、ルーザーは瞳を閉じて微笑む。
「甘いね。マジック兄さんは甘いよ。……でも僕は、そんな兄さんが嫌いじゃない。
不思議なことにね。
面白いよ。世界に裏切られた人が、世界を愛する。父を殺された人が、誰かの父を殺す。
それはとても面白い矛盾だ」
「どうして面白いんです?」
「愛だから」
「ああ、なるほど」
あっさりとサービスはうなずいた。
ルーザーは目を開けて、サービスの顔を見つめる。
「僕もおまえを愛しているよ。サービス」
「兄さんも僕を殺したいですか?」
試す言葉は、驚くような率直さで打ち返された。サービスには、時々そんな部分がある。
「そうだね。そうかもしれない。殺したいくらいに君が好きだ」
「僕もルーザー兄さんが好きです。……殺されてもいいくらいに」
兄弟は見つめ合って、微笑みあった。
「ああ、シンプルだね。それはとてもシンプルな価値だ」
ルーザーはサービスの首に手を伸ばした。指は正確に頸動脈の位置を探り当てる。
トクトクと脈打つ血管を触る。頭の中にメスを思い描く。どのくらいの力でそれを入れるべきかも。
とても簡単なことだ。引き金にかかった指のように。左眼の力を解放する一瞬前のように。
そっと押すだけ。正確な射撃のコツは、引き金を落とすつもりで軽く押すこと。
だけどしない。ルーザーの指はこの1ミリメートルを越えない。
この1ミリメートルに価値が凝縮されている。命の価値。人の価値。愛という名の価値。
疲れはゆるゆると体を這い上り、まぶたが重くなり始めていた。
再びルーザーは瞳を閉じ、腕の中にある大切なものの感触を抱きしめる。
一方で、一度鎖を解き放たれた思考は、止めようもなく飛躍していく。
――マジック兄さんは、僕を愛してくれているのだろうか。
ふと考えた。
サービスに尋ねれば、きっとためらいもなく肯定してくれるだろう。
この勘の鋭い弟がうなずくならば、それは真だ。
だけど、この疑問には自分で答えを出したかった。もっといえば、マジック自身に答えて欲しかった。
しかし長兄は、サービスのようには答えてくれないだろう。また溜息が漏れる。
ルーザーやサービスにとって当たり前のことが、世の中の多くでは当たり前でない。
だからルーザーはこんなにも疲れてしまう。歩み寄るべきなのだろうかと時々考えるが、
やはり無理だ。
当たり前のことはこんなにも遠い。
マジックだって、総帥として科学者ルーザーに求めているのは、
「普通ではない」成果なのだ。当たり前でないことを、常にルーザーは求められ続けてきた。
――僕は狂っているのかな?
サービスの髪を撫でながら、子供の頃からひっそりと心の中で繰り返してきた疑問を唱える。
――ならば、狂気こそが正常だ。人が正常と呼んでいるものは欺瞞。うそでいつわり。
成長したルーザーが見つけた答えは、それだった。
どこまでも高く飛ぶために。何が見えるのかを知るために。兄を支えるために。
そして……サービスが同じ側に居てくれたから。
ルーザーはしっかりとサービスの体を抱きしめた。
この弟が居てくれれば、きっと大丈夫だと信じていた。
彼は卓越した知性を持ちながら、まだ若く、野心家でもあり、成長途中でもあった。
伸びゆくカーブはいつか下降線を描くことを、彼も知ってはいたけれど、
それはまだずっと先のことで、そうなった時にもサービスはそばに居てくれるはずだった。
ルーザーは、サービスの体を抱きしめる。
意識が闇に落ちる前に、もう一度。
2004.9.23
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