その愛の意味 前編


彼は退屈を感じていた。

外は雨、時間はもう深夜。しかしガンマ団の研究棟の一部はまだ煌々と明るい。
その中の一室で、白衣をまとった科学者ルーザーは、
パソコンに向かって来週の学会で発表する論文を書いていた。
大して面白い内容でもない。すでに興味はこの先に向いているのに、
発表という過程があるから、もう分かりきったこの道筋を再びなぞらなければならない。
退屈だった。

そんな中、コンコンとドアがノックされる。
「どうぞ」
ルーザーは視線も上げずに声だけかけて、キーボードを叩き続けた。
入ってきた部下の顔をちらりと確認して、またディスプレイに視線を戻す。
その間もキータッチの音が止むことはない。

そんな上司の――といっても彼よりずっと若いのだが――様子に慣れている部下は、
緊張した面持ちで歩み寄り、手にした紙の束を差し出した。
「ルーザー様、昨日の実験結果をまとめました」
そこで始めて、無機的に配列されたキーの上を踊っていた指が止まる。
くるりと椅子が回転し、ルーザーは技官が昨日から今の時間までかかって、
おそらく一睡もせずにまとめ上げたのであろうレポートを手に取った。
無言のままパラパラとめくる。一枚あたり約3秒、それで大体の内容を把握できる。
全部で20枚あったので、1分ちょっとで読み終わった。

「5ページ第3段落の記述と、8ページのグラフが不正確だ。
 あと17ページから18ページの記述はいらない」
「はっ……。すみませんっ」
返されたレポートを受け取って、大慌てで技官は該当箇所をめくる。
どうせ今更内容が書き変わるわけでもないのに、何をそんなに急ぐのかと見やりながら、
ルーザーは忠告を付け足した。
「今回に限らず、君の報告は余計な部分が多い。補足も言い訳もぼくには不要だ」
「……すみません」

すっかりうなだれた部下の様子を見て溜息をつく。面倒だ。
事実を述べただけなのに、なぜ作業に余計な感情を付属させずにいられないんだろうと思う。
事実は事実。それ以上でも以下でもない。次から直せばいい、直せないなら辞めればいい。
「該当箇所を修正して、明日の朝、再提出してくれ」
手を振って退出をうながした。
「はい……」

部下が部屋から出て行くと、ルーザーの頭からレポートに関する記憶は消え、
またキーボードに指を走らせる。どうせ読む前から内容は分かっていた。
ただ記述するという作業が面倒で、他者に任せただけだ。その結果も予想の範囲内だった。
明日の朝には可もなく不可もない出来の、つまらない文章が仕上がるのだろう。

ただ唯一、退出する瞬間の部下の視線だけは脳裏に残っていた。
自分自身は感じたことのないものだけど、あれは恐れという感情だろう。
過ちを指摘されたことでも、自身への評価が落とされたことに対するものでもなく、
ルーザー個人の人格に対する恐れ。
幼くして天才と呼ばれた彼にとっては、見慣れたものではあった。
だが、何故なんだろうといつも不思議になる。
どうしてこんなに明白なことが分からないのか、ただただ疑問に思って見つめ返すだけなのに、
相手は皆、怯えた顔をして慌てて立ち去っていく。

面倒で退屈だと思う。
ルーザーにとって、つねに世界はガラス板の向こう側にある箱庭だった。
見下ろす先にあるのは、明確な秩序の上を雑多な要素が汚している時空間。
そこから秩序の式をすくい上げ、目的のために再構築するのが科学者としての彼の仕事。
とはいえ性急にやりすぎると、この脆弱な世界にとっては
ルーザーの手は大きすぎ、力がありすぎるから、いろんなものを壊してしまう。
だからガラス越しに眺めながら、小さな穴からそっと手を差し入れなければならない。

そのこと自体は決して嫌ではなかった。
だがルーザーが見えているようには、他者にはこの世界が見えないものらしい。
別に理解されなくてもいいが、なぜ理解できないのかが分からない。

面倒で退屈だ。溜息をつきながらキーボードを叩く。
論文を書きながら、心は別の想像にふける。
コンピューターは余計な感情など持たず、素直で忠実だから好きだ。
でもまだ人の対等な相手になるにはスペックが足りない。
人工知能自体は今でも作ろうと思えば作れるけれど、この処理速度では
人間以上につまらない相手にしかならないだろう。
これ以上失望するのには、飽き飽きしている。

ならばいっそ子供を作ってみるのもいいかとふと思った。
「おまえもそろそろ子供を持ってもいいんじゃないか」と、
最近兄であるマジックにもしつこく勧められている。
そろそろと言われる程の歳ではないと思うのだが、長兄には
弟が家庭を持つことで、幾ばくかの変化が起こるのではないかという期待があるらしい。
正直、その思考はよく分からない。
ただ兄も、今のルーザーに対してなんらかの不満があるらしいことが分かっただけだった。
まあ、それもどうでもいい……。

……カタ。
絶え間なく響いていたキータッチの音が止まった。スペルミスだ。
こんな単純なことでと舌打ちしながらバックスペース。消去してまた続きを書く。
書きながら考える。

クローン技術を試してみるのもいいけれど、まだ安定性に不安があるから
誰か適当な女性を選ぼう。知能さえ高ければ、後は何でもいい。
いや、各種知能テストやDNA検査を使って、最適の配合を考えてみるのも面白いかもしれない。
その上でほんの少しの無作為をスパイスに、命を作ってみよう。
有性生殖の面白さは、雌雄をランダムに組み合わせることで
無限の進化の可能性を獲得したことだ。
どうせなら生まれてくる子供には、このルーザーを越えるチャンスを与えてあげよう。
出来るものなら……やってみればいい。

そうやってとりとめもなく思考をもてあそんでいる間に、論文は九割方仕上がっていた。
ざっと見直してみたが、手抜きで書いたのでいくつか表現に甘い部分がある。
どうせ気付いて指摘してくるような楽しい相手はいないのだろうが、
こうした曖昧さには何より自分自身が我慢ならないので、もう少し推敲しなくてはと思う。
でも、そろそろこの退屈さにも耐え難くなっていた。
最近、自分の許容量がどんどん少なくなっているのを感じる。

時計を見ると深夜十二時。サービスはまだ起きているかなと考えた。
士官学校の宿舎はここからさほど遠くない。
弟の生活習慣では、この時間帯には明日の予習も宿題も風呂も済ませ、
寝る前の一時として趣味の読書にふけっていることが多い。
最近はどんな本を読んでいるのか……。
どうせつまらない本なんだろうとな思いつつもルーザーは立ち上がり、
白衣を脱いで椅子の背にかけ、部屋を出て行った。

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