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そこは小さな、しかし歴史と由緒ある美術館だった。
外側は皇帝の愛人だった婦人の邸宅。それが改装されて今では美術館になっている。
ガイドブックにはあまり載っていない。まるでこの国の人々が、こっそり隠そうとしているかのように。
でも、実は見て欲しいくせに。――サービスはそんなところが好きだった。
展示物を一つ一つ確認しながら、ゆっくりと歩く。どうして今は所蔵品の中からこの絵を出しているのか。
前とどう違っていて、その理由は何なのか。推測するように。もうジャンのことはあまり頭になかった。
まあいいじゃないか、――私のルールに従うこと、そう言ったのだから。
美術館を歩くことは、本を読み解くことに似ている。そこに込められた一つ一つの思い。
言葉の並び順に意味があるように、展示されている絵の並び順には必ず意味がある。
キュレーター達は何を考えて、これをここに配置したのか。
そのことでどんな効果を、こちら――閲覧者に与えることを狙ったのか。
それはとてもセクシャルな行為で、だから全身でそれに応えなくてはならない。
完璧な空調、そこにただよう古い絵の具の匂い。一つ一つの色と形。
瞬時に品定めして、読み解いていく。足取りはあくまでゆっくりと。けれども視線は優雅に、そして素早く。
――花の絵が多いな。そう思った。もうすぐ本格的な春だからだろう。
待ちきれないという気持ちが、絵の隙間からただよっている。正直な人々。そんなところも好きだった。
「なあ、サービス」
ジャンはそっとささやいてくる。
「なに?」
サービスは普段と変わらない声で応えた。なにも無理に萎縮することはない。
そう思いながら、美しい絵の数々を背景に立っている、ちょっと場違いな格好の若者を見つめた。
「俺ってさ、こういうのよく分からないから。どういう見方をすればいいのかなって」
「そうだね……」
彼のそんな素直さが好きだった。……甥っ子達にも似ている。それは大切なことだ。
自分たちは共に、新しい時代を歩いて行かなくてはならないのだから。
――いや、そこにはもしかしたら、自分はいないかもしれないけれど。
「普通に見ればいいんだけれど」
「そうなのか?」
「目にとまらない絵は、大したことじゃないんだよ」
「んー、でもどっちかっていうと、俺には全部すっげーなって思えるんだ」
思わず笑う。それはとても素敵なことだった。まるで自分が褒められたかのように、嬉しかった。
「そうだね……、私なら、一つの部屋の中で自分はどの絵が一番好きか、決めたりするかな」
本当はちょっと違う。それは子供の頃にサービスがしていた見方だった。
今は違うけれど、それはもう複雑すぎて、説明が出来ないのだった。
こんな軽い嘘を、軽くつける自分は、やっぱりもう、若くないのだなと思ったりもするけれど。
「そっかー」
そう言って彼が笑ってくれるから、まあいいかと思う。
ジャンはすたすたと歩いていって、ある絵の前で立ち止まったり、また別の絵に行ったり、
自由にふらふらと歩き始めた。いかにも彼らしく。
サービスはそれを横目で確認しながら、自分のペースでゆったりと歩く。
ほとんどの絵はかつて見たことがあるものだったが、いい絵は何度見てもいい絵だし、
新しい絵はそれはそれで品定めをする。初めましてと、挨拶をする。
「ジャン……?」
そうやっていくつかの部屋を渡ったところで、青年は足を止めた。
「……」
まるで魅入られたかのように、一つの絵の前に立ちすくんでいる。
サービスはその背後から、そっと近寄った。
それは森の絵だった。深い深い森。画面の四分の三を深緑の木々が覆っている。
空はわずかに見えるだけで、それも深い青だ。まるで木々の緑をうつすかのように。
画面の下半分にも灌木が生い茂り、いくつか亜熱帯の植物のような、不思議な花が描かれている。
そして画面の真ん中には、白い人影。……馬の姿にも見えなくはない。
何度か見たことのある絵だなとは思った。画家の名前も、記憶の底から浮かび上がる。
それほど有名な画家ではないが、その筋ではきちんと評価されている画家だった。まだ存命のはずだ。
「この絵が、気に入ったのか?」
「うん……ああ」
――あの島に、似ているものな。直感的にそう思った。そして少し、嫉妬した。
――帰りたいのだろうか。そう考えた。そして少し、寂しかった。
――だとしたら、止められないけれど。
けれども、ジャンはそっとサービスの手を握る。離れたくない、離れないと言うように。……温かな手。
――そうだな。サービスは自らの狭量を恥じる。少し顔が赤らんでいるのを感じた。
「これ、買おうか?」
「ええっ?」
咄嗟に出てきた言葉だったが、案外悪くない思いつきに思えた。
「この美術館と交渉してもいいし……確か、習作も何点かあるはずだ」
頭の中で素早く値段を計算する。手に入れるための駆け引きすら、シミュレートしていた。
買えなくはない、それがサービスの結論だった。
「習作って……」
「こういう大作を描く前には、同じモチーフをいくつか描くことが多い。
この絵にも何点かあったはず……、パンフレットで見たことがある」
確か、もっと小さな作品だった。部屋に飾るにはちょうどいい。
「あ、でも、いいよ、俺」
「別に構わないじゃないか」
おまえが実験のために使っている機器は、もっと高価だぞと言おうとした。
高松にも言われている。――あの男に一度、金銭という概念を教えてやってくれませんかねえ。
――私にそれを言うのかい? と聞いたら、あの科学者は黙って首をすくめたが。
「うん……でも」
ジャンはまたぎゅっとサービスの手を握る。――おまえの気持ちは嬉しいよ、というように。
「この絵はここにあるべきだと、思うんだ。その習作ってやつにも興味はあるけど……でも」
彼は軽く首をかしげ、言葉を探すようだった。サービスはそれをじっと待つ。……少し、どきどきしながら。
「ここでこうして、おまえと見た絵ってことが、俺にとってはきっと大切だと思うから」
「……そうか」
顔を赤らめてうつむいた。嬉しかった。涙が出そうになるくらいに。
なんて素晴らしいんだろうと思う。
そんな彼の心も、そんな彼が今こうして自分の横に存在していることも。
「そうだな……」
もう一度呟いて、サービスはその絵を眺めた。
まるで違って見える。以前は確か……、そう、暗い絵だなと思ったのだ。写実というよりは心象風景。
悪くはないが、この画家ならもっと描けるはずだと。しかしそんな評価は、あっさりどこかに飛んでいった。
この絵はとても美しい。そこにのせられた緑も、白い影も。一つ一つの油絵の具の盛り上がり、
筆のタッチすら浮き上がって迫ってくるようだった。自分も森の中にたたずんでいるような
……もちろん、隣にはジャンがいて。
「綺麗な絵だな」
彼がそう言う。サービスは無言でうなずいた。
そうして彼らはしばらく、その絵の前に立っていた。
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