素晴らしい休日 後編


「えー、これを着るのか!?」
「なんのために、持ってきたと思っているんだ」
ホテルに戻ってすぐ、トランクを開けてガーメントケースを取り出した。
本当なら少し干しておきたかったが、残念ながら時間がない。あの美術館に予定より長く居たからだ。
もちろんそのことは後悔していなかったが、おかげで夕食はハンバーガーだった。
ハンバーガー、ああ、まったく、この自分が。しかもこの国で。
いやまったく、ジャンのジャンクフードを見つける目には感心する。
しかもそれをこの自分――サービスに食べさせることもそう。

だから、このお返しはしなくてはならない。サービスは手早くジャンの分のトランクも開けて、
甥っ子から借りたタキシードの入ったガーメントケースを取り出す。
「ほら、早く着替えて」
ベッドの上に、靴にソックスにシャツ、サスペンダーに蝶ネクタイと素早く並べていく。
まったく、親にでもなった気分だ。しかしそれもまた新鮮なことではあるのだが。末弟の自分にとっては。
「えーと、どれから着ればいいんだ!?」
「……おまえは服の着方も知らないのか」
声が冷える。遅刻はしたくなかった。普段ならそんなことは気にしない自分だが、
今回の演奏会――そう、演奏会だ、は、途中から入ることが難しいプログラムだ。
ちゃんと最初から聴きたかった。――私のルールに従うこと。そう言ったではないか。

「はいッ」
ジャンは素早くシャツを手に取り、慌てた手つきでそのボタンを外し始めた。
引きちぎったりはしないだろうな……と思いつつも、諦めてサービスは自分の分の服に手をかける。
もちろんタキシードだ。

「ふあ……」
「なにか、おかしいか?」
鏡を覗き込みながら、髪を手でまとめ、上げるかどうかを考える。
本来ならアップにするところだが……時間がない。
諦めるかと思いつつ振り返ると、ジャンはぼけっとした顔でこちらを見ている。
「キレイだな、サービス……」
そんなことを言うから、呆れてしまう。
「当たり前だろう」
そう言いながら、彼の襟元に手を伸ばす。
首にかけられたまま、どうしていいのか分からなくなっている蝶タイを、結んでやる。
むかついたので、少しきつめにしてやろうかと思ったが、それで気分が悪くなったら可哀想だ。
……いや、自分が困るのだ。そういうことにしておこう。

「よし、これでいい」
肩をなでつけて、全体のバランスを見る。悪くない。
それはもちろん、同じ――まったく同じ――体格の甥っ子の、オーダーメイドを借りてきたのだから、
当然なのだが。しかしやっぱり、違う。シンタローとジャンは。同じではない。
そんなことを確認している自分にも気がつく。……少しの後ろめたさと共に。
「髪……」
ジャンの髪がそのままなのに、気がついた。整髪料を付けて、固めてみようと思っていたのだが。
「え、ああ……」
なすがままになっていて、混乱の局地にある彼の顔を見ていると、まあいいかと思った。
もう復讐は充分に果たされた。……それに髪を垂らしたままなのは、自分も同じなのだし。
まあいいだろう。たまには完璧でないことがあってもいい。
そもそも、そんなに気合いを入れるべき場でも、プログラムでもないのだし。
一応、同行者のことも考えて、軽めのものにしたのだ。――私のルールに従うこと。
まったく……どこが守られているのやら。

そういうわけで今、サービスはジャンと並んでオーケストラの演奏を聴いていた。
横からは安らかな寝息が聞こえてくる。……別に何も問題ない。イビキさえかかなければ。
かいたら、足を思いっきり踏んづけてやろう。そう考えると、楽しかった。

眠れる演奏はいい演奏だという。そう、本当に素晴らしいものは、何もこちらに強要などしないのだ。
ありのままに楽しめばいい。心地よく眠れたのなら、それが最高の時間なのだろう。
サービスはうっとりとその音色に耳を傾ける。悪くないなと思った。
このオーケストラも指揮者も若いけれど、確かな技術と情熱がある。悪くない。
彼らはこれから、もっと伸びるだろう。それが楽しみだった。
そう、いつでもこの世は素晴らしいことに満ちている。

ジャンがいるならば……。そう、ジャンさえ居てくれるのならば、サービスの世界はこんなにも素晴らしい。
彼が居なかった時間……自分は灰色の時を生きていた。
今思えば、どうして生きていられたのかも分からないくらいに。
けれどもなんとかこうして、素晴らしいもの――本や絵画や音楽に触れて、
魚が水面で息継ぎをするかのように呼吸をして、生きてきたのだ。

サービスはその心地いい音色に耳を傾ける。そうして全身で幸せを味わう。
シンフォニーはまもなく最終楽章を迎える。きっとジャンも目を覚ますだろう。
音楽の盛り上がりと共に。サービスはそのことを、疑ってはいなかった。
握った手のぬくもりと同じくらいに、疑ってはいなかった。

「あー、よかったー」
「何が」
ジャンは大きく伸びをする。彼らは夜道を歩いていた。
行きはもちろんタクシーを拾ってきたのだが、帰りは歩いて帰ろうとジャンが主張したのだ。
素晴らしい音楽の余韻に浸っていたいから、と。
おまえはほとんど寝ていただろうと思ったが、まあ、いい。
確かに彼は一応、最終楽章の盛り上がりで目を覚ましたのだから。
そこで目を覚ますということは、確かに音楽を聴いていたということなのだろう。……眠りながら。
まあ、よくあることだ。……よくあることなのだが。

「……頭痛がする」
「え、なんで?」
ジャンはきょとんとこちらを見る。その首筋にはほどけたタイ。
もちろん彼は、会場から出ると同時にタイをほどいて首元をゆるめた。
結ぶことは出来なくても、ほどくことは出来るんだなと言おうとして――ちょっと、止めた。
「なにが私のルールに従うことだ」
「え? 思いっきりサービスのルールだったじゃん」
「どこが」
頭を抑えて吐き捨てる。もちろん本気で怒っているわけではなかったが、
本気で困ってはいた。

「結局、おまえに一日中振り回された気がする」
「……いや、それは俺の台詞なんじゃ」
「本気で言っているのか?」
「……いえ」
ジャンは胸の前で両手を広げて、軽くそれを振る。――降参の合図。
「ホテルに帰ったら、よく冷えたシャンペンを開ける」
「はい」
「バスタブにたっぷりの湯を張って、ゆっくり浸かる」
「はい」
「その後は……」
言いかけて、止めた。
「その後は、何?」
「……」
じっと相手の顔を見つめる。――分かっているんだろう。そう思うとむかついた。

「帰るぞ」
サービスは石畳を踏みしめて歩く。夜風に金の髪をなびかせながら。
そのあとを小走りに、嬉しそうに、ジャンがついてくる。

この代償はたっぷり払わせるつもりだった。一晩かかっても構わない。
絶対に眠らせてなんかやらない。そう思いながら……。
きっと疲れ果てた自分は、彼の腕の中で安らかな眠りに落ちていくことを、
サービスは疑ってはいなかった。


2007.2.21

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