◆
「えー、これを着るのか!?」
「なんのために、持ってきたと思っているんだ」
ホテルに戻ってすぐ、トランクを開けてガーメントケースを取り出した。
本当なら少し干しておきたかったが、残念ながら時間がない。あの美術館に予定より長く居たからだ。
もちろんそのことは後悔していなかったが、おかげで夕食はハンバーガーだった。
ハンバーガー、ああ、まったく、この自分が。しかもこの国で。
いやまったく、ジャンのジャンクフードを見つける目には感心する。
しかもそれをこの自分――サービスに食べさせることもそう。
だから、このお返しはしなくてはならない。サービスは手早くジャンの分のトランクも開けて、
甥っ子から借りたタキシードの入ったガーメントケースを取り出す。
「ほら、早く着替えて」
ベッドの上に、靴にソックスにシャツ、サスペンダーに蝶ネクタイと素早く並べていく。
まったく、親にでもなった気分だ。しかしそれもまた新鮮なことではあるのだが。末弟の自分にとっては。
「えーと、どれから着ればいいんだ!?」
「……おまえは服の着方も知らないのか」
声が冷える。遅刻はしたくなかった。普段ならそんなことは気にしない自分だが、
今回の演奏会――そう、演奏会だ、は、途中から入ることが難しいプログラムだ。
ちゃんと最初から聴きたかった。――私のルールに従うこと。そう言ったではないか。
「はいッ」
ジャンは素早くシャツを手に取り、慌てた手つきでそのボタンを外し始めた。
引きちぎったりはしないだろうな……と思いつつも、諦めてサービスは自分の分の服に手をかける。
もちろんタキシードだ。
◆
「ふあ……」
「なにか、おかしいか?」
鏡を覗き込みながら、髪を手でまとめ、上げるかどうかを考える。
本来ならアップにするところだが……時間がない。
諦めるかと思いつつ振り返ると、ジャンはぼけっとした顔でこちらを見ている。
「キレイだな、サービス……」
そんなことを言うから、呆れてしまう。
「当たり前だろう」
そう言いながら、彼の襟元に手を伸ばす。
首にかけられたまま、どうしていいのか分からなくなっている蝶タイを、結んでやる。
むかついたので、少しきつめにしてやろうかと思ったが、それで気分が悪くなったら可哀想だ。
……いや、自分が困るのだ。そういうことにしておこう。
「よし、これでいい」
肩をなでつけて、全体のバランスを見る。悪くない。
それはもちろん、同じ――まったく同じ――体格の甥っ子の、オーダーメイドを借りてきたのだから、
当然なのだが。しかしやっぱり、違う。シンタローとジャンは。同じではない。
そんなことを確認している自分にも気がつく。……少しの後ろめたさと共に。
「髪……」
ジャンの髪がそのままなのに、気がついた。整髪料を付けて、固めてみようと思っていたのだが。
「え、ああ……」
なすがままになっていて、混乱の局地にある彼の顔を見ていると、まあいいかと思った。
もう復讐は充分に果たされた。……それに髪を垂らしたままなのは、自分も同じなのだし。
まあいいだろう。たまには完璧でないことがあってもいい。
そもそも、そんなに気合いを入れるべき場でも、プログラムでもないのだし。
一応、同行者のことも考えて、軽めのものにしたのだ。――私のルールに従うこと。
まったく……どこが守られているのやら。
◆
そういうわけで今、サービスはジャンと並んでオーケストラの演奏を聴いていた。
横からは安らかな寝息が聞こえてくる。……別に何も問題ない。イビキさえかかなければ。
かいたら、足を思いっきり踏んづけてやろう。そう考えると、楽しかった。
眠れる演奏はいい演奏だという。そう、本当に素晴らしいものは、何もこちらに強要などしないのだ。
ありのままに楽しめばいい。心地よく眠れたのなら、それが最高の時間なのだろう。
サービスはうっとりとその音色に耳を傾ける。悪くないなと思った。
このオーケストラも指揮者も若いけれど、確かな技術と情熱がある。悪くない。
彼らはこれから、もっと伸びるだろう。それが楽しみだった。
そう、いつでもこの世は素晴らしいことに満ちている。
ジャンがいるならば……。そう、ジャンさえ居てくれるのならば、サービスの世界はこんなにも素晴らしい。
彼が居なかった時間……自分は灰色の時を生きていた。
今思えば、どうして生きていられたのかも分からないくらいに。
けれどもなんとかこうして、素晴らしいもの――本や絵画や音楽に触れて、
魚が水面で息継ぎをするかのように呼吸をして、生きてきたのだ。
サービスはその心地いい音色に耳を傾ける。そうして全身で幸せを味わう。
シンフォニーはまもなく最終楽章を迎える。きっとジャンも目を覚ますだろう。
音楽の盛り上がりと共に。サービスはそのことを、疑ってはいなかった。
握った手のぬくもりと同じくらいに、疑ってはいなかった。
◆
「あー、よかったー」
「何が」
ジャンは大きく伸びをする。彼らは夜道を歩いていた。
行きはもちろんタクシーを拾ってきたのだが、帰りは歩いて帰ろうとジャンが主張したのだ。
素晴らしい音楽の余韻に浸っていたいから、と。
おまえはほとんど寝ていただろうと思ったが、まあ、いい。
確かに彼は一応、最終楽章の盛り上がりで目を覚ましたのだから。
そこで目を覚ますということは、確かに音楽を聴いていたということなのだろう。……眠りながら。
まあ、よくあることだ。……よくあることなのだが。
「……頭痛がする」
「え、なんで?」
ジャンはきょとんとこちらを見る。その首筋にはほどけたタイ。
もちろん彼は、会場から出ると同時にタイをほどいて首元をゆるめた。
結ぶことは出来なくても、ほどくことは出来るんだなと言おうとして――ちょっと、止めた。
「なにが私のルールに従うことだ」
「え? 思いっきりサービスのルールだったじゃん」
「どこが」
頭を抑えて吐き捨てる。もちろん本気で怒っているわけではなかったが、
本気で困ってはいた。
「結局、おまえに一日中振り回された気がする」
「……いや、それは俺の台詞なんじゃ」
「本気で言っているのか?」
「……いえ」
ジャンは胸の前で両手を広げて、軽くそれを振る。――降参の合図。
「ホテルに帰ったら、よく冷えたシャンペンを開ける」
「はい」
「バスタブにたっぷりの湯を張って、ゆっくり浸かる」
「はい」
「その後は……」
言いかけて、止めた。
「その後は、何?」
「……」
じっと相手の顔を見つめる。――分かっているんだろう。そう思うとむかついた。
「帰るぞ」
サービスは石畳を踏みしめて歩く。夜風に金の髪をなびかせながら。
そのあとを小走りに、嬉しそうに、ジャンがついてくる。
この代償はたっぷり払わせるつもりだった。一晩かかっても構わない。
絶対に眠らせてなんかやらない。そう思いながら……。
きっと疲れ果てた自分は、彼の腕の中で安らかな眠りに落ちていくことを、
サービスは疑ってはいなかった。
2007.2.21
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