素晴らしい休日 前編


サービスは手元のスコアに目を落とす。五線譜と音符のつながり。
それだけでこんなにも広大な、音の宇宙が表現されることの不思議。
何度その世界に浸っても、飽きるということはない。
……もっとも横からは、安らかな寝息が聞こえてくるけれど。でもそれも、幸せだった。
彼――サービスはそっと手を伸ばして、彼――ジャンの手を握る。
軽く触れただけなのに、はっとする気配が伝わってきた。慌てて、「起きないと」と焦る気配。
クスリと音を立てずに笑って、「いいんだよ」と手を軽く叩く。幸せだった。
サービスはとても、幸福だった。

話はこうだ。
「俺もおまえと一緒に行きたい」
いつものように、一人でふらりと旅に出かけようとした時のことだった。
「……退屈かもしれないよ」
タキシードを入れたガーメントケースを、さらにトランクに収めながらサービスは答えた。
「これは完全に趣味の旅行だから。……私の」
サービスとジャンの趣味は全然違う。そのことをお互いはよく知っていたし、
だからこそ出かけるときは勝手気ままに出かける、それが二人のルールだった。
……これからはずっと一緒なのだから。

「うん、だからさ。俺もたまには一緒に行ってみたい」
ベッドの上にあぐらをかいて座ったまま、ジャンはそう言ってぱっと笑った。
サービスはじっと相手の姿を見る。
ベッドの上にあぐらをかいて座る。着ているものは派手な柄がプリントされたTシャツ。
下に履いているのはポケット付きのコットンパンツ。
どれ一つとっても、サービスならば絶対にしない格好だった。
いやジャンがどうしてもというなら、考えなくはないが……その代償は、とても、高い。
「……なんだよー」
その視線に込められたものに気付いたのか、ジャンは拗ねたように上目遣いでこちらを見る。
サービスは、その視線には弱かった。ずっとずっと昔から。ジャンの瞳には、弱かった。

「いいよ」
だからそう言う。なるべく自分の本心を見せないように。澄ました顔を取り繕って。
「だけど、それなら絶対に私のルールに従うこと」
「はいはいッ!」
ジャンは嬉しそうにそのままベッドに倒れ込んで、ほふく前進で這い進み、
同じくベッドの上に乗せられていた、サービスのトランクに抱きついた。
――荷物持ちでもなんでもしますよ。という合図のつもりなのだろう。
しかし……そういうことではなかったのだが。まったく……いつもそうだ。
いつもそうやって、微妙にすれ違う。
でもだからこそ、ジャンと一緒にいることは楽しいのだった。とてもとても楽しくて仕方ないのだった。

しかしそれはそれとして。
「とりあえず略礼服一式を、シンタローかキンタローから借りないとね」
「……え?」
その顔は、おかしかった。そしてこれを言い渡される甥っ子達も、同じような顔をすることを考えると
……ちょっとは頭が痛かったが。しかし、まあ、いいだろう。
サービスはそういうことは得意だった。つまり、都合の悪いものは、見えないことにする。
楽しいことだけ考える。この世の中は、だって、とてもとても、素敵なのだから。

「んー、オイシイ」
ジャンは上機嫌でアイスクリームを舐めながら、街を歩いていた。
彼の格好はジーンズにシャツ。それからポケットがたくさんついたアーミージャケット。
サービスはいつもどおりに黒のロングコートだ。
「寒くないのか?」
季節はまだ春にも早い。
どちらかというと、こんな時にアイスクリームを売っている店があったことに驚いた。
しかしジャンの素早い瞳はそれを見つけ出し、気がついたときには買いに走っていた。

――アイスクリームは至って人間的な食べ物だ、とジャンは言う。
自然の中でこれを作るのはとても難しいのだと。シャーベットならまだしも。
たしかに贅沢な食べ物だとは思うけれども。上質のミルクとイチゴと砂糖とコーンと。
この豊かな農業国でもある国の、小さな文化の結晶だとは思うけれども。

「サービスも、食べない?」
そういって食べかけを差し出してくる。
「……」
あまりのことに、思わず足を止めてしまう。そんなことをする男は、今も昔もジャンしかいなかった。
「え、なに?」
変かなと首をかしげる。
その顔がおかしくて、笑いながらサービスはコートのポケットに手を突っ込んだまま、首を伸ばして
アイスクリームをかじった。甘くて美味しい。
「うん、おいしいね」
「そうだろ!?」
嬉しそうに胸を張る。別におまえの手柄じゃないだろうと思ったが、口には出さなかった。

その代わりに腕を組んで歩く。
窮屈な飛行機のシートから解放されて、トランクなどの荷物一式だけ先にホテルに送り、
気楽な格好でこの歴史ある古い街を歩く喜びをかみしめながら。

フランクな格好をした若い――外見上は――青年と、
カジュアルとはいえ黒のコートに身を包んだ、もう若くはない――それくらいは知っている――自分。
周りの人間にどう見えているのか、気にならないことはなかったが、それすら楽しかった。
すれ違う人々はみな、素早くこちらを目で品定めする。ここはそういう国だ。
サービスはその視線に微笑みを返す。すると彼らは呆気にとられた顔をして……
次の瞬間にはぎこちなくとも笑みを返す。ここはそういう国だ。
愛の国。歴史と文化を背負った、誇り高い国。でもその誇り高さは、実のところ愛なのだ。
人間への深い愛情、それなくしてどうして豊かで薫り高い文化が築かれるものか。――と、思う。
口には出さないけれど。ジャンならきっとうなずいて聞いてくれるのだろうけれど。

そのかわりに、彼の腕をぎゅっとこちらに引き寄せる。ジャンは嬉しそうにすり寄ってくる。
サービスは微笑みながら、その腕の感触を確かめる。肩に頭を預ける。
彼が気にするのは、右眼の傷痕が人々に見えないようにすることだけだ。
それを除けば、自分の美貌がいかに優れているか、サービスはよく知っていたから。
こんな時には便利なのだ。つまり、人を、黙らせる。これでいいのだと、思わせる。
簡単なことだ。ただ胸を張って歩けばいい。自分達は幸せなのだと、つつましやかに主張すればいい。
ジャンはそんな人間の機微はまだ分からないだろうけれど――ずっと分からなくても構わないけれど。
いやむしろ、そんなジャンがサービスは好きなのだけど。

「アイスクリーム」
「うん?」
「そろそろ食べ終えてね」
「オッケー」
ジャンは軽くそう言うと、素晴らしい早さでコーンをかみ砕き、飲み込んだ。
飲み物もないのに、よくむせないなと感心する。
「ジャン」
「何?」
「コーンの欠片が口に付いている」
指を伸ばしてそれをつまみあげ、自分の口に持って行って舐める。
「あー!」
何をそんなに驚くのだろうかと思うが、確かにこんなこと、普段なら絶対しないことで、
でもまあいいじゃないかと思う。

「なあ、サービス」
「何?」
「キスしてもいい?」
「駄目」
それはあっさりと言って、サービスはくるりと足を路地裏に向けた。
この近道を通った先には、目的のものがある。彼が愛する美術館。この国に来る度に、いつも通う。
自分のもう一つの別荘のような場所。

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