道化師の涙 中編


「ハーレム」
リビングに駆け込むと、サービスが顔を上げた。
双子の弟はソファに座って行儀良く本を読んでいた。手にしているのは勉強の本じゃなくて、童話。
それもミツヤが持ってきたものだった。童話といっても充分に分厚いそれは、
ハーレムにとっては1ページめくるだけで頭痛がしてくるか、眠くなるだけのものだったけれど、
サービスはとても気に入ったらしく、最近はいつもそれを読んでいる。

「マジック兄さんはどうだった?」
首をかしげて聞いてくる。きちんと肩のところで切りそろえられた髪が、軽く揺れる。
「寝てた」
「そう……」
分かったようにうなずいて、また本に視線を戻す。
――それだけかよ?
と思った。また苛立ちがつのってくる。理由も分からないままに。
「それだけかよ!?」
思わず声に出していた。いや、これは声に出さないといけない気がしたのだ。
「……」
双子の弟は無言のまま、その大きな瞳でじっと見上げてくる。それから、ふっとため息をつく。
「どうしたの、ハーレム?」

「……!」
ムカつく。コイツまで、俺のことを子供扱いするのかと思った。弟のくせに。双子の弟のくせに。
「おまえは、兄貴のことが心配じゃないのか?」
「……心配だよ」
「じゃあ何で自分は様子も見に行かないで、ここで本なんか読んでいるんだよ?」
「……」
サービスは困ったように、また首をかしげた。――理不尽だ。そんな声が聞こえるかのようだった。
「ハーレムが見に行ってくれているから、それを待っていたんだよ」
「嘘付け!」
「嘘じゃないよ」
「とっさのデタラメだろッ?」
「違うってば……」
――どうして分かってくれないの? 視線がそう言っている。

――分からねーよ。
そう思った。どうして自分がこんなに怒っているのかも、本当は何が言いたいのかも。
何もかもが分からなかった。本当に。……何が、間違っているのだろう。

「あのね、ハーレム。僕はマジック兄さんの部屋にはあんまり入ったことがないんだよ」
サービスの言葉遣いは丁寧で綺麗だった。
その書く字と同じように、どんどん大人びてあか抜けていっている。
ハーレムの字はいつまで経っても汚くて、家庭教師に書き直しを命じられるくらいなのに。
「それは昔から、ハーレムの役目だったでしょ。だから……、今もそうだと……」
「うるせー!」
そう叫んでいた。サービスはびっくりしたように、目を丸くする。
そうだ、今この屋敷で大声を上げる人間はいない。マジック兄貴が眠っているから。
その時間は誰も彼もが、大人しく行動して、決して大声なんか立てたりしない。それが当たり前なのだ。
いつの間にか出来た不文律。けれども、それは、当然のことで、だけど……何かが、間違っている。

ハーレムはまた駆けだした。そうしながら、ポケットの中の鍵を握りしめていた。
キーホルダーに付けていた鍵。自分の部屋の鍵。今こそ使うべきかもしれないと思った。

自室に入る。鍵をかける。カチッと音がして、それは閉まった。
……やってみると、ひどく簡単で、あっけないことだった。

「……」
そして、自分がどうしたいのかが、分からない。
鍵をかけるってことは、誰かに、あるいは誰も、入ってきて欲しくないということだ。
しかし、……それは、誰なのだろう。
もしかしたら、……拒むまでもなく、誰も入ってなど来ないのではないか。
サービスが追いかけてくるとは思えなかったし、
ルーザー兄貴も……わざわざやってくるとは思えなかった。

ルーザー兄貴はマジック兄貴の帰宅が増えるのと前後して、
以前よりは家によく帰ってくるようになったが、同時に部屋に閉じこもることも増えた。
一人で何か勉強をしたり、ミツヤとチェスをしたり……。そうして双子の世話はほとんど見なくなった。
あっさりと、ミツヤにその役目を渡してしまった。勉強の監督も、なにもかも。
ルーザー兄貴は……そういう人間なのだと、ハーレムも知っている。
あの人は、自分の時間が一番大切な人間なのだ。……別にそれは悪いことじゃない。
ハーレムは、ルーザー兄貴が怖かった。……あの人が、小鳥をくびり殺してから、ずっと。
それでも彼は、ハーレムの兄で、だからこそ、決して嫌いにはなれなかったけど。

頭を振る。考えを追い出す。ルーザー兄貴のことなんて、今はどうでもいい。
自分は、何がしたいのだろう。……それが分からなかった。でも、それが、大切なことだった。
マジック兄貴は眠っている。自分の声がその眠りを妨げていないことを願っていたが、
同時に、本当に一番来て欲しいのはマジック兄貴だとも分かっていた。
逆に一番来て欲しくないのは……ミツヤ。

そう。ハーレムはミツヤに来て欲しくなかった。だから、ずっと部屋に鍵をかけようかと迷っていた。
あの男は、たぶん、自分の――ハーレムの部屋に入るのにも、何のためらいもないと分かっていたから。
でもそれは……嫌だったのだ。なぜだか分からないけれど、嫌だったのだ。

ああ、なぜこんなことになっているんだろうと思う。
家族なのに。家族が家にいるのに。
自分たちは――双子は、この1年、これをどんなに待ち望んだだろう。
父が死に、マジック兄貴が総帥になり、ルーザー兄貴は士官学校に入り、双子は家に置いて行かれた。
そのことは、とてもとても、寂しかった。
帰ってきて欲しいと、それがどんなに我が儘で子供っぽい願いか知っていても、
心の底ではいつだって、帰ってきて欲しいと願っていた。
家族が家に居ること。それを望んでいた。
今はそれが叶っているのに。マジック兄貴もルーザー兄貴も、サービスも、同じ屋根の下にいるのに。
どうして自分は……鍵などかけて閉じこもっているのだろう。

「ああ……」
ハーレムは息をついた。瞳から、ぽろぽろ涙が溢れてくるのを感じていた。
ハーレムは泣き虫だった。サービスのことを散々からかっていたけれど、泣いた回数ならきっと違わない。
どうしてだろう。彼はすぐに涙をこぼす子供だった。
強い子供のはずだったのに、強くなることを誰よりも願っていた子供のはずだったのに。
感情が揺さぶられると、すぐに涙がこぼれてくる。

――「それは、おまえが優しいからだよ」
そう言ったのは、誰だっただろうか。父……いや、兄だ。マジック兄貴だ。

眠る前、同じ布団にくるまって、昼間あったことを、サービスをいじめていた子供を
やっつけて泣かしたことを話しながら、急に泣き出してしまったハーレムに対して、
マジック兄貴は優しく頭をなでながら、そう言った。
――「おまえは、サービスのことも、自分が泣かしたその子たちのことも、可哀想なんだろう?」って。
それは正しかった。優しい兄、そしてそれ以上に強い兄。ハーレムはそんなマジックが大好きだった。

――来て欲しい。
そう思った。マジック兄貴に、来て欲しい。ここに。そうして、また頭をなでて欲しい。
――「大丈夫だ、ハーレム」
そう言って欲しい。

「う……う、あ……」
泣く。しゃくりあげながら、それでも声はほとんど立てずに泣く。
でもやっぱり、声はこぼれる。そんな自分はなんとも格好悪いって思ったけれども。
大人も時々は泣くけれど、大人は黙って泣くものだって……そう言ったのは誰だっただろう。
何か昔の映画の台詞だったような気もする。
マジック兄貴は……きっと、声を上げずに泣くのだろう。さっき見ていた寝顔のように。
黙って、苦しく、眉間にしわを寄せて。……可哀想な兄貴。やっぱり兄貴は……可哀想だ。
そんなことを考えながら、ハーレムは涙をこぼし続けた。自分はひとりぼっちだと思った。
この屋敷の中には、兄弟みんながそろっているのに、とてもとても、寂しかった。

コツン。
ドアをノックする音が聞こえた。

――!
はっとする。嫌だ、ミツヤは嫌だ。そう思った。……もっと言えば、怖かった。

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