道化師の涙 前編


ハーレムはそっとドアを開けた。部屋の中は暗い。でもまったくの暗闇ではない。
ナイトランプのほのかな明かりが、ベッドを照らしている。近づくと、枕の上には金色の髪。
寝乱れたそれは、自分の髪よりも細く、しかし下の弟の髪よりは太い。
眉を寄せ、何かに悩むように苦しむように手を握りしめた寝顔。
――マジック兄貴。
四兄弟の長兄、ハーレムがもっとも尊敬する兄。大好きな兄。
今ではガンマ団の総帥として、日々忙しく働いている。
ほんのちょっと前までは、ほとんど家にも帰ってこなかったくらいだ。
でも最近は違う。2週間に1度くらいは家に帰ってきて家族で一緒の食事を取り、こうして家で眠る。
――それでも兄貴は、何か苦しそうだ。
ハーレムは、そう思う。理由は分からない。

だって、自分たちは家の外のことは何も知らないから。……だと、ほんのちょっと前までは思っていた。
けれど今は……。

ともあれハーレムは、眠っているマジックの側にそっと近寄る。
薄明かりの下で寝汗をかいていることを知って、それを拭うべきなのか考える。
でもハーレムには、それは苦手なことだった。
サービスならきっと、考える前に実行に移しているのだろうけど。
ハーレムがしたいことは、そうじゃなくて……、兄を起こすことでもなくて……、
そう、ただ一緒に眠りたい。このベッドの中に潜り込んで、同じシーツにくるまって。
自分はもうそんな歳じゃないって、分かってはいるのだけれど。

マジック兄貴は昔から、よくそうやってハーレムと一緒に眠ってくれた。
何にも気にせず笑って、「一緒に寝るか」って言ってくれた。ハーレムは、そんな兄が好きだった。
一緒の布団にくるまって、眠るまでの間ずっとたわいもないことをしゃべり続けた。
長兄はそれを聞きながら、よく笑い声を上げ、そして時にはハーレムをたしなめ、
時々は「こらっ」と軽く額をこづいて、そうしてまた二人で笑って……そうしているうちに
いつもハーレムは柔らかな眠りに落ちていた。幸せな眠りに。

父親がほとんど家に帰ってこないことを、寂しいなんて思ったことはなかった。
マジック兄貴がいたから。もちろん、ルーザー兄貴もいたし、サービスもいた。
それでも、中でもマジック兄貴の存在は、ハーレムにとって特別だった。
たぶん、父親の代わりでもあり、そして決してそれだけじゃなく。

「兄貴……」
ハーレムはそっと呟く。聞こえるか聞こえないかの声で。もちろん、相手を起こさないように。
「お休み……」
ぎゅっと目を閉じて誰かに祈った。どうかマジック兄貴が、幸せに眠れますようにと。
この兄の眠りを誰も妨げませんようにと。――神様、どうか兄を守ってください、と。
自分たちのために、日々戦い続けている、この孤独な長兄を。

部屋からそっと出る。音を立てないように戸を閉める。
マジック兄貴の部屋にはいつも鍵がかかっていない。それは昔からずっと、変わらない習慣だった。
ルーザー兄貴はもちろん鍵をかけてばかりだし、サービスも近頃は鍵をかけるようになった。
それは、この家ではごく普通のことだ。
6歳になってパブリックスクールに入ると共に、個室を与えられ、同時に鍵も与えられた。
「部屋に鍵をかけるかどうかは、おまえの自由だよ」と言って、父は微笑んだけれど。

マジック兄貴は昔から、自分の部屋に鍵をかけなかった。
いつでも、どんな時でも、その部屋に人が入って来ることを拒まなかった。
宿題をしたり、何か集中しなければならない用事があるときは、そのことを口で伝えた。
それでも、もし、何か用があるのなら、いつでも部屋に来ていい――僕はおまえたちの兄なんだから。
それがマジック兄貴の考えだった。

ハーレムはそんな兄にずっと憧れていた。尊敬していたといってもいい。
だから彼も、自分の部屋の鍵は一度も使ったことがなかった。
……ちょっと前までは。
今は……少し、悩んでいる。鍵を使うべきなのかどうかを。
どうして自分がそんな気分になったのかは、よく分からないのだけれど。

「ハーレム」
廊下の向こうから、長身の男――違和感の主が現れた。
「マジックの部屋に行っていたのかい? 駄目じゃないか、彼は疲れているんだから」
「うっせーよ、ミツヤ」
ニコニコ笑うその顔に、とりあえず反抗してみせる。――何様だよオマエと心の中では思っている。
けれど彼の言うことは確かに正しい。――では何が正しくないのか。
ハーレムにはそれが、分からない。
「別に何も起こしたりはしてねーよ」
「そう、それならいいんだけど」

いつの間にか我が家に馴染んだ、遠い親戚。ミツヤ。
マジックの補佐官であると同時に、親友でもあるのだと、彼は言う。兄もそれを否定しない。
ハーレムだって、別にそれを否定するわけではない。
何せ――この家に、一番最初に彼、ミツヤを迎え入れたのは、ハーレムだったのだから。
同じ青の一族、無防備な笑顔、「マジックくんに暖かい食事を食べさせてあげたくて」、そう言って笑った。
ハーレムが勢い込んで「兄貴、今日帰ってくるのか!?」と聞いたら、「うん、そうだよ」とうなずいた。
……その言葉は、正しかった。何も間違ってはいない。
その日、マジック兄貴は久しぶりに、とてもすごく久しぶりに家に帰ってきて、一緒に食事をしたし、
その後も、しばしば家に帰ってくるようになった。それと共にルーザー兄貴の帰宅回数も増えた。
2週に1度でも家族全員での食事。それはハーレムがずっと願ってきたことで、
確かに間違いなくミツヤのおかげで、だからそう、……何も間違ってはいないはずなのだが。

「なあ、ミツヤ」
「なんだい、ハーレム」
彼はいつも笑顔だ。優しい微笑み。……実はちょっとだけ、父に似ている。
亡くなった父に。父もこうして、目を細めてどこか寂しそうに笑う人だった。
マジック兄貴はそのことに……、気がついているのだろうか。ルーザー兄貴も、サービスも。
それともこれは、ハーレムだけが見ている幻影なのだろうか。
大人の微笑み。……分からない。ハーレムは自分が勘のいい人間だなんて思ってやしないから。
世間知らずな子供だという自覚くらいは持っているから。
「マジック兄貴、明日は早いのか?」
「そうだね、朝9時には家を出ることになっているからね」
「じゃあ、朝メシは一緒に食べられるんだな?!」
「……どうだろう。彼は疲れているから、ぎりぎりまで寝させてあげたほうがいいかもしれないね」

「……」
そうなのかもしれない。ミツヤの言うことは、いつも正しい。正論ってやつだ。
そして何故か、彼の言葉には、ハーレムは反抗する気にならないのだった。
ルーザー兄貴やサービスがしょっちゅう吐く正論には、いつだって反抗するのだけれど。
分からない……何が違うのだろう。

「……そっか」
なんとか、それを言った。自分がふてくされていることを感じながら。その理由も分からずに。
「代わりに僕が一緒に食事をするよ。何がいい? 厚切りベーコンを焼こうか?」
「いらねーよ!」
そう叫んで、走り出した。……確かに厚切りベーコンは魅力的だったけど。
ミツヤとの食事は、食べ散らかしても怒られないし、好き嫌いはいくらでも聞いてもらえるし、
話すことにはいちいちうなずいてもらえるし、ミツヤは頭が良くて物知りだけど、
決してハーレムの言うことを否定しない、とても心地のいい空間なのだけど。
……でも、何かが、違う。
家族ではないからだ……とは、思いたくない。血のつながりだけが、家族ではない、だろう。
実際、ほんのちょっとは血もつながっているわけだし。
では……なんだろう。

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