「……アンタが言うなよ」
口に広がった血の味を飲み込みながら、ハーレムは応えた。
「おまえの部屋の敷物なんか、どうせ傷だらけの上に、焦げ跡もこれ一つじゃないだろう」
それはまったくもってその通りだったが、この場で気にすべきことは、他に沢山あるんじゃないのかと
ハーレムには思えて仕方ない。平たく言えば、弟の心配より敷物の心配かということだ。
いや、ルーザー兄貴に心配なんかされたら、それこそおぞましいでは済まないのだが。
それにしても、人間の傷より敷物の傷を気にする姿は、まったくもってこの人らしかった。
ルーザーはつかつかと歩いていって、テーブルの上に小鳥の瓶を置く。
そしてようやくそれを安全なところに避難させたかというように、安堵の吐息を吐いて、
あらためてこちらを振り返った。
「ハーレム」
「……なんだよ」
「謝罪しろ」
「何を?」
「泥棒の罪を」
それでやっと、それをリビングから取ってきたことを思い出す。
あえて意識から抹殺しようとしていたことを。
「だから、別にアンタのものと決まったわけじゃないだろう」
ハーレムの言葉に、ルーザーは首をかしげた。
「分からないことを言うね」
「はあ?」
分からないのはこっちだ、そう返そうとしたところで、また不快げに眉をひそめられた。
「ハーレム」
「なんだよ」
「その仕草、自分では格好付けているつもりかもしれないが、馬鹿にしか見えないから止めろ」
「……」
まったくもって、最悪で最低の兄だった。血がつながっていることすら、おぞましい。
「俺はアンタほど、相手のことを馬鹿にしてはいないつもりだけどな」
「ああ。その代わりにお前自身が馬鹿なんだよ」
ルーザーは微笑む。美しく相手のことを見下し、馬鹿にして、踏みつけ、踏みにじる微笑を。
「それで……。本当に覚えていないのかな?」
「だから、何をだよ」
ふうんを息を吐いて、ルーザーは自分の顎に手をやった。
「その意識構造は興味深いけれどね」
「人間の言葉で話せよ」
「見たくない現実から逃げているだけでは、永遠に強くなんてなれないよ」
――死ね、この悪魔、キチガイ。頭の中では罵倒が渦巻く。
口に出してもよかったが、おそらく口に出すと負けな気がしたので、飲み込んだ。
「まあいい」
いつものように、兄は一人で納得し、一人で結論を出した。
「僕はおまえに罰を与えるだけだ」
「はあ!?」
訳が分からなかった。だが分からないなりに、全身の細胞はあわだった。
頭の中でアラートが鳴り響く。足はこの場から逃げ出そうとする。
その安易な行動を理性で押しとどめて、最適の解を探す。戦場でつちかったものを総動員して。
右手に眼魔砲の溜めを作りながら、兄の横をすり抜けて廊下に飛び出すまでの、
行動をシミュレートする。
だがルーザーの方が行動が早かった。ハーレムが考えている間に、彼は一歩を踏み出し、
それに対応しなければと考えている間に、素早く右手を捕まえられて、腹に膝蹴りを一撃、
思わずかがみ込んだところを、右手の肘で首筋を痛打される。全身に電撃が走り、硬直する。
崩れ落ちようとする弟の肩を、思いがけず強い力で引き上げて、さらに足で蹴りとばす。
そうして気がついたときには床の上に仰向けで倒れており、顔の前には兄の手があった。
そこには青い光。眼魔砲の溜め。
「油断したね、ハーレム」
兄は微笑む。
「戦場で戦っている自分の方が強いはずだと、思ったんだろう」
――アンタ、何者だよ。
そう思わずにはいられなかった。今の動きはどう考えても、訓練されたものだ。
それも軍隊式の実戦的な訓練に近いが……それだけでもない気がする。
「僕だってガンマ団の士官学校は出ているんだから、見くびってもらっては困るな」
筋力の差は、素早く先手を打ったことと、的確に急所を突くことでカバーしたのだろう。
だがそれにしても……。何かが引っかかる。今日はそればかりだが。
「戦いの最中に考え事をしては、命取りだ」
兄は上機嫌だった。そのように見えた。
何がそんなに楽しいのだろうと考えて、もしかしてそれは自分に罰を与えることがだろうかと、
そう考えた途端、身体が恐怖で凍り付いた。
「今回のおまえの敗北は、僕を倒さずに逃げる道を考えたことだね」
ハーレムの上にかがみ込んだまま、ルーザーは嬉しそうに言葉を継ぐ。
無造作でありながら、そこには隙は一分もない。もちろん、すぐ目の前にある眼魔砲の青い光にも。
「だからおまえは甘いんだよ、ハーレム」
すっと一瞬、兄の目が冷えた。
「どうせ撃つ気がない眼魔砲の溜めなんか、作るのは時間の無駄だ。
相手にみすみす行動する時間を与えるだけだ。この場合は例えけん制としてでも、撃つべきだった。
もっともおまえはそれはしない。僕にダメージを与えないとしても、部屋の調度は壊すからね。
……そんな眼魔砲になんか、何の意味もないんだよ」
瞳の奥に、戦場が見える。兄がくぐってきた修羅場が。そんなはずないと思いつつも、
目の前にあるのは事実だった。眼魔砲の光も同じく。……兄は撃つだろう。自分とは違って。
なんのためらいもなく。
「これは講義だよ。分かるかい、ハーレム?」
反射的にうなずく。恐怖に支配されながら。
「実戦を経験してなおその程度なら、おまえは遠からず死んでしまうからね。それは兄さんが悲しむ」
自分が悲しいとは、ルーザーは決して言わなかった。ハーレムもまた、知っていた。
この兄は自分が死んでも、決して悲しまない。
この人が悲しむのは、そのことで兄のマジックや弟のサービスが悲しむことだ。
そんな愛情。別に欲しくもないが、断ち切ることも出来ない、血の絆。
「さて、どうしようか」
"講義"を終えて、ルーザーは微笑みを取り戻した。
「どういう罰を与えてやろうかな、おまえに」
背筋が粟立つ。この笑みこそが、何よりも怖かった。こうしてこの人は、昔、小鳥を握りつぶしたのだ。
笑いながら、なんのためらいもなく。……目の前にちらつく、眼魔砲の青い光。
ハーレムは無意識に、あの小鳥の瓶を目で探していた。
ルーザーがテーブルの上に置いたはずのそれは、ここからだと隠れて見上げることが出来なかった。
◆
「ああ、そうだね」
弟が何を探しているのか知って、兄はうなずいた。
「おまえは僕から愛を奪いさろうとした。じゃあ、愛してもいないのに、与えられる愛はどうかな」
何を言っているのか、さっぱり分からない。この人の言葉なんて、大半がそうだが。
「立て、ハーレム」
ルーザーは立ち上がり、冷たい声でそう命じた。
「従わないなら、僕は撃つ。もちろん、ためらわない。分かっているだろう?」
右手には相変わらず、眼魔砲の光。真っ直ぐにハーレムの頭を狙っている。
もちろん、ためらわないだろう。この兄は。そして自分は、まだ死ぬわけにはいかないのだった。
ハーレムは奥歯をかみしめながら、立ち上がる。そして横目で、テーブルの上の小鳥の瓶を見る。
飛び立てない小鳥。やはり窓から離すべきだった。この兄が間違って危惧したように。
例え一直線に墜落するとしても、それでも解放するべきだった。この兄から。
自分なら、それを望んだだろう。
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