――その小鳥がどんな箱に入っていたかは思い出せない。
ハーレムは手の上の小鳥を、呆然と見つめた。
もちろん、生きている訳ではない。空を飛ぶ鳥にはありえない重さが、それを物語る。
ガラスで出来た小鳥、の形をした小瓶。中に入っているのは薄桃色の液体。
広げた翼の上には金色のキャップが付いている。香水の瓶だ。
今にも飛び立とうとする小鳥の姿を形取った、曇りガラスの香水の瓶。それが彼の手の上にあるもの。
――どうしてそれを取ってきたのかも思い出せない。
ただ、これが青い包装紙に包まれていたことは思い出した。無地の淡いブルーの紙だ。
しかし決して色そのものが淡いわけではなく、どちらかといえば紺に近い濃い青だったのだが、
単なる青ではない複雑な色合いと、日本の和紙のようなざらついた高級紙の手触りが、
それを淡いと感じさせた。ハーレムの趣味には決して合わない、高級ブランドの包装紙。
だが、だからこそ自分はこれを奪ってきたのだ。
そう、奪った。
この小鳥は淡い青の包装紙に包まれて、箱に入って、リビングのテーブルの上に置いてあった。
それが何故なのかは思い出せないが、自分は見た瞬間にそれを手にとっていた。
手に取ってからしばし呆然として、そして慌てて自分の部屋へと連れてきたのだ。この小鳥を。
部屋に入った途端、むしり取るように包装紙を剥がし、箱を壊して、小鳥を取り出した。
だがなぜ――それが小鳥だと、自分は最初から知っていたのだろうか。
いや、知らなかったはずだ。だってそれは、箱に入っていたのだから。
ともあれ今、小鳥は手のひらの上にある。今にも飛び立とうとして、しかし決して飛び立つことはなく。
永遠に。飛ばない小鳥。
ハーレムは呆然とそれを見つめていた。心にあるのは恐怖。
その小鳥と自分は、どこかで重なっていたから。ようやく家を出て、二等兵として戦場に立った自分。
けれども飛び出してみて分かったのだが、世界は思った以上に広大で……狭かった。
どこにいても逃げられない。青の一族であり、総帥の弟である自分の血。
――そう、この小鳥の中を満たす、紅い液体のように。
その一方で、一個人としてはあまりに無力な自分。傍らで死んでいく仲間を助けることも出来ない。
――そう、この永遠に飛び立てない小鳥のように。
苛立ちはそのまま、彼の生活を荒ませた。様々な悪い遊びに手を出しては、なお満たされず、
新しい任務を渇望しては、戦闘の中に没入して、そしてどんどん失っていった。大切なものを。
これではいけないと、彼の中の何かがささやいて、ようやく久しぶりに家に帰ってきたら……、
見つけたのが、この小鳥だ。
まったく、何かの呪いなのだろうか。
「……」
ハーレムはため息をつく。そうしてようやく、少しの冷静さを取り戻した。
タバコが吸いたいと思って、窓際に近づく。手には小鳥の瓶を持ったまま。
右手で胸ポケットからタバコの箱を取り出し、片手でそれを揺らして二本の指で一本だけつまみ上げ、
器用に引き抜いて口にくわえる。そして箱をポケットに戻す。もう片方の手には小鳥を連れたまま。
いつまで自分はこれを持っているつもりだろうと、少し可笑しくなって、窓の縁にそれを乗せた。
外の緑を眺める、飛べない小鳥。日の光に照らされて、それはキラキラと輝いている。
儚く、美しく、まるであの弟のように。――どうしてサービスのことを思い出したのだろうか。
「……ッ」
それ以上、深く考えてはいけない気がして、ハーレムは自由になった左手でジッポーを取り出して、
太ももでこすって火を点ける。カチッとふたを閉めて火を消しながら、右手で窓の留め金を外し、
それを開こうとした。
少し、引っかかる。長い間閉めきっていたいたからだろうか。レールに油を差さなくては、
そんなことを考えながら、手に力を入れて窓を開こうとする。
「何をしている」
後ろから、声が聞こえた。振り返る。口にタバコをくわえたまま。
振り返った視線の先には、この世で一番見たくない顔。すぐ上の兄、ルーザー。
いつもと変わらぬ、この世の全てを見下すような胸くそ悪い端正な顔が、
今日はいつにない表情を浮かべている。それは――あせりだろうか。
あのルーザー兄貴が、あせるだとか慌てるなんてことが、あるのだろうか。
「その場を動くな、ハーレム」
その声にも、常にはない乱れが感じられた。ハーレムは首をすくめ、反射的に逃げようとするが
逃げ場はない。この人に相対するときは、いつもそうだが。
この人――ルーザー兄貴はいつだって、人の逃げ道を完璧に奪っておいて、
そのくせ、お前達が僕の目の間にいるのは目障りだと、いらついては八つ当たりをするのだった。
だが今日に限っては、ルーザーの感情の矛先が向かったのはハーレムではなく、別のものだった。
足早に近づいてきた彼は、その長い手を精一杯に伸ばして、
窓の縁に置かれた小鳥の瓶を掴み取る。乱暴に、慌てたように。それでも決して、壊さないように。
相反する感情の渦が、感情がないはずの兄の手に、常にはない乱れを生じさせている。
それでハーレムも気がついた。この小鳥を、落ちそうなくらいに細い窓の縁に乗せ、
今まさに窓を開けようと格闘している自分の姿は、
これを窓から投げ捨てようとしているかのように、見えたのだということが。
「……」
そんなつもりはなかったのだが。
怒りに燃える兄の瞳の前では、何を言っても無駄だろうなという気はしていた。
ハーレムは黙って首をすくめる。それがいつだって、精一杯の抵抗だった。
◆
「……ハーレム」
小鳥を自分の手の中に入れて、安堵したのだろう。
かの人の声は、いつも通り、感情をうかがわせない、どこまでも冷酷なものへと戻っていた。
「どうしてこれを盗んだ?」
「はあ?」
別にアンタのものと決まった訳じゃないだろう。そう言い返そうとして、何かが引っかかった。
何故だろう。ハーレムはそれを考えようとする。だが、考えてはいけない気もする。
とりあえず、小さな窓の前に立っている自分たちの距離はあまりに近いことに気がついて、
一歩後ずさろうとする。だがそうしようとした瞬間に、襟首を捕まえられた。
ああそうだ、この人はいつだって、こうして人の心を読むすべには長けていて、
そのくせ、人の心を理解するつもりなんか、これっぽっちもないのだった。
「おまえはどうして、いつもいつも、愚かなことばかりをするんだ?」
顔を近づけて、睨みつけられる。嫌いなタバコの煙が顔にかかることなど、気にもせずに。
ルーザー兄貴がそれほどまでに怒っている、そのことはハーレムの恐怖心、逃れ得ないトラウマを
あおるのに充分だったが、だからといって屈服する気も、これっぽっちもなかった。
いつもそうだが。だからこそこの兄弟は、いつまで経っても憎しみ合う。
ふーと息を吐く。そのことでタバコの煙が相手の顔にかかる。ルーザー兄貴の顔に。
ガッと頬を張り飛ばされた。
容赦のない一撃。力に手加減がないというだけではなく、
どの角度から顔を打てば相手にもっともダメージを与えられるかということまで知り尽くして、
なお、それを平気で実行できる人間だけが、行使できる力。
真横からではなく、絶妙の角度を付けて頬を打った一撃は、ハーレムの歯のかみ合わせを狂わせ、
タバコが口から落ちた。まったくもって、かの人の狙い通りに。
ついでに歯がかすったことで唇が切れて血がにじんだことなど、おそらく気にも止めていないだろう。
弟に血を流させたことなど、心の底からどうでもいいことなのだろう。
それを示すかのように、ルーザーは床の絨毯の上に落ちたタバコを足で踏み消す。
執拗に怒りを込めて。それで絨毯に焼けこげが付くだとか、それが広がるだとかいうことは、
知ってはいるのだが、気にも止めずに。
「まったくもって、最悪だ」
>>next
|