解呪 -2-


とても夢とは思えない、闇に浮かび上がる生々しい肌の白さに思わず唾を飲み込む。
「ほら、ハーレム。僕を犯してごらん」
悪魔は再度誘惑の言葉をささやく。
彼が一体何を考えているのか、意図はよく分からないが、分からないままに
ハーレムは無我の中でその無骨な手を兄の肌に這わせていた。
予想に反してルーザーの身体には多くの傷があり、それらはもう塞がってはいたものの、
まるで蜘蛛の巣のように胸全体に白い痕が張り巡らされていた。
「あのEブロックで付いた傷だよ」
ルーザーは静かに告げる。それ――つまり兄の最期を知らされた時を思い出し、
つい心に生まれた同情を打ち消すために、ハーレムは言葉を投げ返した。
「どうせなら、俺がこれを付けてやりたかったぜ」
「じゃあ今からでもやってみるといい」

そうかよと鼻を鳴らして拳を振り上げると、開いた空間を塞ぐかのように
兄の両手が胸元に延びてくる。咄嗟に何をするつもりなのか分からずとまどっていると
指は器用にするりと、ハーレムのタイをほどいていた。
「……なにしてんだよ、てめえ」
「こんなに簡単にほどけるように結んでいるだなんて、不用心だね」
布きれを片手にルーザーは笑う。
ついさっき理屈をこね回していた時よりももっとあからさまな、
綺麗だが綺麗なだけではない、獣の微笑み。
ハーレムにとっては何より忘れがたい記憶の中で――小鳥をひねり潰した時、
最初に抱かれた時、その後も――ずっとずっと見てきた笑顔。
今再びハーレムはその手の中にいる――。

――だが、もう自分は子供じゃない。だから笑いながら握りつぶされたりなんかしない。
その思いからハーレムは両手で兄の手をつかみ、ひねるように地に押しつけた。
あっけない程にそれは簡単で、そのことに戸惑うほどだった。
ハーレムの体に刻み込まれている兄の力は、
科学者のくせに自分よりずっと強かったはずなのだが。

そうして気付いた。
自分の手の中にあるルーザーの手首は、覚えていたよりもずっと細いことを。
考えた。その理由は、ハーレムの手が昔よりも大きくなり肉も皮も厚くなったからだ、
銃を持ち沢山の血を流し、兄よりも長く、20年以上も長く生きて、血と汗にまみれながら
戦場の中をくぐり抜けてきたからだと。
それで、兄の肌に生々しく残る傷跡が目にはいると、思わず顔がくしゃりと歪んだ。

そんな弟の顔を、ルーザーは興味深そうに見つめる。
「ハーレム。僕を哀れんでいるのかい?」
「……誰がっ」
心を読んだかのような言葉は、正鵠を射抜いているが故に即座に否定される。
「優しいんだね、ハーレム」
かつて支配していた相手に両腕を拘束されたまま、ルーザーは平然とささやいた。
ハーレムはその顔を苦々しくにらみ返しながら、一方で別のことを思う。
小鳥を握りつぶした兄の手と、今の自分の手はどう違うというのだろう。
共に殺戮の血に汚れている。理由があるかないかの差か?
だがあの時のルーザーにだって理由はあったのだ。
ハーレムを大人しく寝かしつけるという兄としての理由が。
侵略のために敵を殺すことが、それと比べて正当性があるといえるのだろうか。
小鳥の命と敵兵の命、果たしてどちらが重いのか。
痛みと共に醒め始めた心はしかし、笑いを含んだ次の一言によって帳消しにされた。
「ハーレム、おまえも沢山小鳥を殺したんだね」

かぁっと体の奥底が燃える。
「違う、違う、違うッ」
叫びと共に、自然に体と体が近づいていた。
ルーザーはますます楽しそうに声を上げて笑う。すると首が仰け反って、青い血管が見えた。
青の血――実際に流れている血は赤く、青く見えるのは静脈だからだと頭では理解していても、
今のハーレムにとってはあまりにもおぞましい光景だった。そして耳に響く兄の笑い声。
両方を消し去るため、彼は兄の手を押さえるために塞がっていた両手の他に
唯一残された手段である口で、獣のようにその首筋に噛みついた。
「…くっ」
肉の歯ごたえと共に、押さえたような小さな悲鳴が聞こえる。かつて聞いたことのないそれに
立場が逆転したという思いも相まって嗜虐心が刺激され、ハーレムはますます深く噛みついた。
「………ぅんッ」
頭上からは、ルーザーの押し殺した声音が聞こえる。
そして噛んだ首筋の下では、トクトクと兄の身体の中で脈打つ血の流れが感じられた。

ハーレムは、この兄がずっと前に死んだはずだったことを、今更ながらに思い出していた。
少し冷静になって顎の力を緩める。すると口の中に血の味が広がる。
夢の中であるはずなのに、すべてはあまりにも生々しかった。
本当に夢なのか、現実ではないのか。
夢なら醒めて欲しいのか。あるいは……醒めて欲しくないのか。
闇の中で思考は混乱するばかりだが、ハーレムの身体の下で、口の中で、
ルーザーという存在が、もはや自分の獲物として転がっていることは確かだった。
……そして彼は考えるよりも感覚に身を任せることを選んだ。

歯を完全に離し、唇だけで吸い付く。自分が兄の身体に穿った傷痕をそっと舌で舐める。
兄の生を確認するかのように。冷たいけれど氷ではない、確かに暖かい兄の肌を。
「ああ……」
吐息が聞こえる。溜息にも悦びにも聞こえるその声を発している顔は見えない。
見たくはなかった。その代わり再度強く喉に口づけた。
「んっ」
ルーザーはますます仰け反る。首筋だけではなく、身体全体が弓なりにしなる。
その上に覆い被さっている弟の身体により密着させるように、裸の胸が服に押しつけられる。
邪魔だと思う、もっと感じたい、直にルーザーという人間を。
もしかすると、これが最後の機会かもしれない。いや間違いなく最後だ。

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