かの人の視線 -1-


その人の一挙手一投足に、視線は釘付けになる。

当時、高松はまだ若い学生で、その人――ルーザーは彼より5歳年上の若い科学者だった。
しかしすでに彼の頭脳は世界を見渡しても比肩するものを知らず、
かの人は常に一人、科学という叡知の頂にあってなお上を目指し続けていた。
誰にも理解されず、誰も必要としない。その姿は超然として美しく、輝くほどにまぶしかった。
時として同じ人類であることが信じられなくなる程に。

だが、さらに信じがたいことにその人は、
高松の前で呼吸をし熱を発散し続ける一人の若者でもあったのだ。
二十代前半という肉体年齢は、人という種として今が一番美しい盛りを迎えている。
高い身長、長い手足、発達した筋肉、動きは優雅かつ躍動的で機敏。
まるで猫科の猛獣を思わせるその姿は、一度怒りに駆られるととてつもなく危険になる。
けれどそんな所まで含めて、若い高松はルーザーという人に、
夢中にならずにはいられなかった。

5歳という年齢差は、相手が天才であるということを抜きにしても、
並び立つことが出来ると考えるには離れていて、
相手が天才であるということの抜きにすれば、
自分の将来の延長線上にあると考えられるほどには近い。
遠すぎもせず近すぎもしないこの距離が一番いいのだと頭では理解はしていながら、
若さは時として易々と理性を踏みにじる。

例えばそれは色素の薄い瞳に見据えられた時、思わず喉の奥が鳴ることであったり、
ピンと背筋を伸ばし廊下を一直線に歩いていく背中を見つめ、
靴音と自分の動悸の音を同時に聞くことであったりする。
また偶然にも実験器具にむかってかがみ込んだルーザーのうなじが
自分の目の前にあったとき、反射的に「触れたい」と思ってしまうことであったりする。
知性という特権を持つ人間らしく、指先を使うのではなくて、
進化できない卑しい動物のように口と歯で、「あなたに触れたい」。

想いはむしろ相手が目の前にいない時ほど高まった。
士官学校のベッドの上で、制御できない自分の肉体に狂いながら高松は想像する。
あの人の透明な爪、決して細くはない指、意外と大きな手。
いつも糊が利いているワイシャツの袖口。たまにルーザーは実験のためそのボタンを外す。
そしてまくりあげられる袖。中から現れる腕。隠されていた筋肉と、太陽を知らない灰色の肌。
もしもあれが袖ではなく、襟元であったならば……。想像して唾を飲み込む。

喉の付け根にあるくぼみ。鎖骨。腕へとつながる筋。胸。腹部。へそから、さらに下へと。
触れたい。感じたい。愛したい。あの人の肌に唇を這わせることが出来たなら。
性器に口付けし、その熱いほとばしりを浴びたなら。自分はどんな気持ちになるのだろう。
侵入され、肉体のすべてであの人を感じ、こすられ奪われていくとはどんな感覚なのだろうか。
最後には魂までも投げ出して高みに登り詰めたのならば、自分は……。
――きっとその瞬間に消滅しても悔いはない。

だけど現実には彼は部屋に独り。ベッドの上でも独り。ただ手の中に熱を持てあまし、
体の中に情欲を持てあまし、下半身の猛りを静めるすべといえば自らを慰めることだけ。

そんなある日のこと。高松は深夜、ルーザーの研究室に呼び出しを受けた。
理由は説明されず、ただ「来なさい」と内線の向こうで告げるその淡々とした口調に、
彼は正直なところ、怖かった。怖いままに自室を出て、怖いままに階段を上り、
怖いままに研究室の扉を叩く。「入っておいで」と中から静かな声がした。

シュッと音と立てて扉が開く。研究室の照明はすべて消えていた。
一方、多くの実験機具やコンピューターは24時間常時作動したままなので、
部屋はそれらの発する熱と音と光で、まるで生き物のように胎動している。

ルーザーは一人、その部屋の中心に立っていた。
腕を組みディスプレイを眺める横顔が、闇の中に浮かび上がる。
青白い光に照らされたそこには、人相手には決して見せることのない、
慈愛に似た微かな笑みがあり、彼がこの環境に満足していること、これらの忠実な機械達を
おそらく人間たちよりも愛していることを物語っていた。
高松はついさっきまで感じていた恐れも忘れ、いつの間にかその光景に見とれていた。

「こちらまで来なさい」
ルーザーは視線をあげることもなく、そう指示する。
「は、はい!」
高松はいつものように急いで、しかし音は立てないように細心の注意を払って
机とコードの間をすり抜け、その人の前にたどり着いた。
そこでやっとルーザーはディスプレイから視線を外し、高松へと視線を向ける。
「君」
「はいっ」
思わず声がうわずる。ルーザーに直視されたのは、これが始めての経験だった。
プロジェクトのメンバーでもない研究所の雑用係なのだから、当然だが。

「最近、ずっと僕を見ていたね?」
だからそう言われた時には、本当に心臓が口から飛び出るかと思った。
「ええ、まあ、それは……」
自分の歯切れの悪さに舌打ちをする。
もしも憧れの人に声をかけられることがあれば、それが何であっても
機会を逃すことなく完璧な返答をしてみせようと頭では何度も考えていたのに、
現実とはあまりに思いがけないものだった。

「僕に欲情していたのかな」
ルーザーはさらに率直に問う。そして軽く首をかしげた。
「そういう人間は多い」
「……」
高松はすっかり圧倒されていた。
だが頭の片隅では、これこそがルーザーなのだという感嘆の思いも広がり始めていた。
今までにない距離で、今までにない近さで、ルーザーに対峙している。
舞い上がってしまうような状況を確認することが、却って高松という人間の頭を冷やした。
彼は軽く深呼吸し、息を整えてから答える。
「他の人間は知りませんが、私がルーザー様を見ていたのは欲情だけではありません」
「ふぅん」
視線がその先をうながす。
「では他に何かあるのかい?」
彼が高松を見る目は、実験動物を見るものとほとんど変わりがなかった。
しかしそんな目であっても向けられただけで、当時の高松には奇跡にも等しかった。
「ええ。私はあなたのことが好きですから。ルーザー様」

「それもよく聞く」
あっさりと彼はうなずいた。
「他には?」
「いえ……。それだけです」
もっと何かを言おうかとも考えたが、これ以上は意味がないと分かる。
心臓が破れそうなほどに早く動いていた。
少しの惨めさと、落胆と、もっとずっと大きい畏怖に打たれて高松は立ちすくんでいた。

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