「ですから、ここにはあらかじめ注釈が……」
キンタローが画面をスクロールさせることをやめ、一点を見つめ始めてから数十秒後、
後ろに立っていた高松は身を乗り出して、指で単語の脇に添えられた小さな記号を指さした。
没入するあまり返答も忘れてその箇所をクリックすると、即座にいくつものウィンドウが開いて、
件の単語の意味、関連語句からそれにまつわるデータまでが、一斉に表示される。
さらに一旦表示されたウィンドウはまたたいて、即座に前後の並びを変えた。
「優先して目を通すべき項目順に、自動的にソートされるようになっているんです」
「すごいな……」
大量のさらなる興味の矛先を示された事で、却ってある程度の冷静さを取り戻したキンタローは、
肩越しに振り返って、黒髪のドクターの顔を見る。
「まるで読んでいる人間がどこでつまずくのか、あらかじめ予測してあるようだ」
「ルーザー様はそういう方でしたから」
高松は微かな笑みをたたえてうなずく。その表情には幾通りもの感情が込められているようだが、
キンタローにはまだ解読しきることができなかった。
自分が長い間、他者の意識の中に閉じこめられていたからだろうかと思う一方で、
たとえ普通に二十数年を生きていたとしても、なお倍近い歳の隔たりがある相手のすべてを知る事は、
どうせ不可能なのかもしれないとも考える。
例えば、目の前にあるこれ――父ルーザーが遺したデータベースを、まだ解読しきれていないように。
「ちゃんと最新のデータになっている」
再び画面に視線を戻したキンタローは、先ほどまでよりは幾分余裕がある手つきで、
次々と表示を切り替える。
「ええ。その後もずっと使い続けてきた処理システムですから。
さすがに元のままではなく、データの変換やバージョンアップを繰り返して……
さらに一から書き直した事も数回ありますけどね」
後ろから聞こえてくる口調は穏やかで、少し誇らしげでもあった。
「それはもう、父のシステムとはいえないんじゃないか。書き直しまでしたのなら」
「いいえ」
きっぱりと否定される。そしてまた高松は、身を乗り出すようにして顔を近づけ、
キンタローの肩に手を置いて言葉を続けた。
「二十数年に及ぶ改良、それらはすべてあの時、ルーザー様がこのシステムをお作りにならなければ
始まらなかったことなのです。ねえ、キンタロー様。ハードもソフトも、いずれは古びます。
形あるものはいずれ滅する。しかし滅しないもの、それは一瞬のひらめきです。
コンピューターには決して出来ない、人間だけに許された行為。無から有を作り出す事。
一度作られたものを改良する事なんて、誰にでも出来るのです。
しかし改良するだけの価値があるものを作り出す事は、誰にでも出来る事ではありません」
「……ああ」
途切れることなく耳元でささやかれる熱を帯びた口調に、自分の胸までが熱くなるのを感じる。
「ひらめきこそが永遠です。存在したのは一瞬であっても、真に価値あるものは永遠になる……」
そこでふっとドクターは笑った。
「いけませんねえ、私としたことが」
「つい話しすぎてしまった?」
キンタローの言葉に、相手は苦笑を返す。それはここのところ、ドクターの口癖になっている言葉だった。
つまりはこの研究室でキンタローに教えていると、彼は話しすぎてしまうらしい。
「失礼しました。キンタロー様。もう邪魔はしませんから、作業を続けて下さいな」
すっと身を引く気配に、つい寂しさを感じて引き留める。
「父に関する事を、もっと聞かせて欲しい。さっきの話も父の事なんだろう?」
「はい?」
「存在したのが一瞬であっても」
またふふと笑う声がした。
「ばれてしまいましたか。さすがルーザー様のご子息。鋭くていらっしゃる」
言葉がちくりと胸に刺さる。自分の父が偉大であることは嬉しくても、父の子供だから優秀だと
言われることには抵抗を感じた。不思議なものだと、我ながら思うのだが。
「そんな風には言って欲しくないな」
語気を強めて言った。
「俺は俺だ。父じゃない」
「……そうですね。失礼しました」
高松の言葉には深い悔恨があった。それが、どういうわけかなおのこと神経を逆撫でする。
父も怒り出すと手が付けられない人だったと先日聞いた事を思いだし、余計に気持ちが暴走した。
「高松。おまえは俺に父の代わりになって欲しいのか?」
背後で息を飲む気配がする。まったく、嫌になるほどにこの肉体は敏感だった。
閉じこめられていた時はあれほど感じたくても感じられなかった全てが、
肉体を得た事で逆に、感じすぎるくらいに感じられてしまう。
だから、背後の微かな吐息も、否定ではなく肯定に近いのだと分かってしまう。
キンタローはくるりと椅子を回転させ、振り向いた。
「父は確かに偉大な人だ。だが俺は父じゃない。俺は俺だ。父じゃない」
◆
廊下を歩きながら、キンタローは頭をおさえる。さっきから頭痛がしていた。
やっぱりこの肉体は感じ取るものが多すぎると思う一方で、またあの暗闇に戻りたいのかと
聞かれればそれだけは絶対にゴメンなのだから、前に進むしかないと分かっていても、
どちらへ進んでいけばいいのか、まだ自信を持つ事ができない。
自分に進めと言ってくれた人――ルーザーの存在は、後になればなるほど重みをましてくる。
時として息苦しいほどだ。あるいは開き直って父のコピーになってしまえば楽なのかもしれない。
だが、それだけはしたくなかった。ずっと人の影に追いやられてきて、やっと表に出てまで
誰かの――たとえそれが父親であっても、誰かの影になることは我慢ならなかった。
そうだ、我慢ならない。この感覚もキンタローを苦しめている。内側からあふれ出るような激情。
破壊的傾向。やはり父にもあったもの。それがルーザーの破滅の原因ともなった。
――やっぱり父だ。
髪をかき上げる。自分の中にあるこの暴力的な衝動が怖くて、科学者の道を選んだ。
経緯はどうあれ、父親に二度目の死を与えたのが自分だという現実は、
キンタローの中で重くのし掛かっていた。
――どこまでも父が。
白衣をまとい、父の跡を継ぐことを決めたのは贖罪だったのか――あるいは逃避だったのか。
髪をかき上げる。最初は単に、閉じこめられている間にずっと伸びっぱなしだったそれを、
とにかく一度短く切っただけのつもりだった。
しかしその直後鏡の中に映った自分の顔はあまりにも、――に似ていて……。
――ああ、そうなのだと。
逃げられないと思ったのか、あるいはもっと肯定的な何かだったのか。
今となっては思い出せない。今だから、思い出せないのかもしれない。
ただ、そんなキンタローの姿を見て、ドクターはひどく喜んだ。あの自分よりずっと年上の、
いつも何かを心に含んでいるような人が、まるで子供のように笑ったのだ。
キンタローのために初めて涙を流してくれた人が、キンタローを見て幸福そうに笑ってくれた。
だから、髪は短いまま。伸ばす事もなく、そのままで。
導かれるように彼の研究室に招かれ、日常生活のあれこれを覚えていくのと並行して、
父親が作ったデータベースにもアクセスするようになった。
「役に立たない知識を持つ事も、いいことですよ」とドクターが言ったから。
「生きていくために必要な勉強ばかりでは、疲れてしまいます」と。
二十数年前に最先端であった父の理論は、時の流れと共に古典となり、
今ではその分野の入門書に載るほどにポピュラーなものとなっていた。
極端なまでに余分をそぎ落とされた、簡潔にして無駄のない理論。
ゆえに一般性を持ち、今なお色あせない輝きを放つ。
――「真に価値あるものは永遠になる」
では、父は永遠に自分の上に君臨し続けるのだろうか?
>>next
|