蕩尽 -1-


ルーザーは青ざめていた。
目の前にあるのは兄マジックの困ったような微笑み。
「どうしたんだ、ルーザー?」
愛する兄はそう聞いてくる。
「いえ……、士官学校のカリキュラムのことでちょっと相談が」
弟はそう言いながら、手にしていた書類をそっと差し出す。
思わず手が滑って、取り落としそうになりながら。
「ああ。また何か?」
「別に大したことではありません。兄さんのサインさえもらえれば」
新総帥の弟に、いくつかの例外を許すための書類。書式はもう、完璧に整えられていた。
ルーザーのすることは、いつもそうだが。
「ん、ああ、ちょっと待ってくれ」
そういって書類を受け取り、デスクに向かう兄。
そのうなじにシミのようなアザを見つけて、ルーザーの顔はますますこわばった。

視線はゆっくりと、部屋にいるもう一人に向かう。
「おはよう。ルーザー」
にっこり微笑むのは、兄の補佐官であるミツヤ。彼もまた、いつもの軍服ではなく、
ノーネクタイにシャツ一枚という姿だった。彼が腰掛けているのは兄のベッド。寝乱れたそのシーツ。
「……」
視線だけで人が殺せるものなら、そうしていただろう。
実際のところ、青の一族にとってそれは比喩ではない。秘石眼、そして眼魔砲……。
だが。
「これでいいんだろ、ルーザー」
そういって微笑む兄の顔があまりに幸福そうだったから……。
そして……。
「出来のいい弟をもって幸せだね、マジック」
「ああ、羨ましいだろ、ミツヤ」
そう言って自分の補佐官に微笑みかける、
その頬が確かに紅潮していることを見て取ってしまったから……。

「失礼します。ありがとう、兄さん」
それだけを言って、ルーザーはきびすを返した。
「ん、また後でな」
兄も引き留めない。引き留めてはくれない。
「……別に羨ましくはないけどね」
扉を閉めようとする背後で、そんなミツヤの呟きが聞こえた。
――僕は君さえいればいいんだよ、マジック。
その声まで聞こえなくするためには、あと1歩早く部屋を出るべきだっただろう。

だが、少なくとも、そのミツヤに兄がどう応じたのかまでは、聞かずに済んだ。

深夜、ルーザーは自室のデスクに向かって、本を読んでいた。
彼は読書をするときは机に向かうことが多い。彼が読む書物というのは9割方専門書だったし、
そういうものは大抵分厚くて重く、例えばソファに寝そべりながら読むというのには適していなかった。
もっとも今読んでいるものは、普段とは毛色の違う本だが。――毒薬事典。
人間を殺傷することを目的に用いられる薬物を、どのように用いるべきかを主題としてまとめた本だ。
もちろん一般には流通していない。奇書の類ではあるが、書かれている内容はおおむね正確だった。
化学の素養も相当に積んでいるルーザーには、いくつかの間違いも見えるが、
それすら著者は意図して書いているのではないかと思える。
まったく、人間の悪意というか、ひねくれというかには、果てしがないなと思えた。
そういう点では確かに面白い書物だった。

これを差し出してきた人間のことは、それこそ毒殺してやりたいくらいに憎いが。
ミツヤ――。今朝、兄の部屋で見た光景を思い出すだけで、血が沸騰しそうだった。

トントン。ドアがノックされる。
ルーザーはため息をついて本を閉じ、部屋のドアの鍵を開けた。
「やあ」
――なんだ、殺されに来たのか?
そう言いたかったが言わなかったのは、たぶん、ただの意地だ。

「ミツヤ」
――何の用だ?
視線だけで問いかける。
「マジックが心配していたよ。今朝は朝食も一緒に食べられなかったって」
――死ね。
それだけ思ってドアを閉じようとすると、足をはさまれた。
「……まだ用事は終わっていないんだけど」
「何だ?」
「部屋に、入ってもいいかな?」
「……」
無言で招き入れる。そうするだけの理由が、二人の間にはあったから。
二人の秘密の「仕事」。ルーザーが毒薬の事典などを読んでいるのも、すべてはそのためだ。

ルーザーがいつもどおり、自分の部屋の鍵をきちんとかけたことを確認してから、ミツヤは口を開いた。
「不用心だな、そんな本を出しておくなんて」
「来たのがおまえだってことは、分かっていた」
「へえ、どうして?」
「ノックの音で」
腕組みをする。――さっさと用件を言え。さもないと殺す。頭の中ではそんな思考が渦巻いていた。
「僕のノックの音を覚えていてくれたんだ」
ミツヤは本当に嬉しそうに微笑む。嘘いつわりの笑顔かもしれないし、本当の笑顔なのかもしれない。
どうでもいい。とにかく気に障るだけだ。
「僕は誰のノックの音も分かる。人の顔が違うように、皆違うから」
ルーザーは淡々とそれを言った。そうであることは、時々不幸だと思う。特に、こんな時には。
無視すればよかったのかもしれないが、それが出来ないのがルーザーという人間だった。
彼の辞書に敗北の文字はないし、この状況下で居留守を使うということは、敗北なのだった。彼にとって。

「それで、用事はなんだ?」
「まあ、そう急がないで」
いつも思うのだが、どうしてこの男はこんなにも、人の神経を逆なですることに長けているのだろう。
……そして、兄はどうしてこんな男が好きなのだろう。
「急用を思い出したなんて、君らしくもない言い訳だよね、ルーザー?」
「死ね」
今度ははっきり口に出した。
「怒っているんだ」
ミツヤは笑う。あくまでも、微笑む。
「そんなに腹が立ったのかい? ……僕が、君の兄さんと寝ていたことが」
「……」
血が沸騰する。秘石眼が痛む。
――殺したい。殺すべきだ。殺そう。

……だが、なぜ自分はそれが出来ないのだろうか。兄が、愛しているからか。ミツヤのことを。
それとも。彼が、自分たちにとって、つまり父を亡くして世間知らずのまま放り出された、
未熟な兄弟にとって必要な存在だからか。
「寝ていたってことは、この場合つまり……」
「言うな」
言わずとも分かっていた。ルーザーにだって、それくらいの知識はある。
彼は男女の生殖行為も、男女でない組み合わせの行為も、知っていた。……書物で、だが。
ただ彼は怒りのあまり、どうしてミツヤがそんなことを執拗に言ってくるのかまで、気が回らなかった。
それはルーザーという人間にしては、あまりにもうかつなことだったが、
まだ13歳の彼に、それ以上の何が出来たというのだろうか。
ミツヤという存在を受け入れたこともそうだし、
彼と共に暗殺などということを繰り返していることもそうだった。
つまり、まだ、力が足りない。現実に対して、圧倒的に力が不足している。
それくらいのことは自覚していた。不条理な、現実だった。

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