竜王古代篇1/(3-136さん)




―玉帝の在所が不明のまま、竜種は逆賊だと一方的に決め付け謀略で貶めてきた牛種。

総力戦であれば、竜種の矜持と実力であれば十分以上に勝算はあったのだが
牛種は卑怯にも玉帝の御名を持ち出してきては竜種との衝突から姑息に身をかわし続けた。
牛種からの伝であっても玉帝の詔として出されたものを臣下である自分が堂々蹴り飛ばして良い
道理はないのだ。青竜王自身の忠心が仇となったわけである。牛種は、竜種の急所をよく掴んでいたといえよう。

全面対決を姑息に避けつつ、さらに牛種は竜種の神経をやすりで逆撫でするかのようにしつこく
小悪党を刺客として竜王達へ差し向け続けていた。
竜王一族も、牛種の真の目的は既に見抜いていたので、まとわり付く小バエの様な不快さにもじっと耐えていた。
ここで牛種の挑発に少しでも憤激して見せれば、それはそのまま牛種どもの言う「正当」に血肉を与えてしまう事に
なってしまうからだ。
彼らは耐えた。さらに耐えた。実によく耐えた。

それでも再三、長兄にたいして弟達は提案…というか要は牛種を徹底的に叩きのめすよう説得…というか
率直な思いを訴えてきたのであるが、玉帝への忠心も一応あるが、なにより一族の長が決めたことである。
弟達は長兄の律儀さを歯がゆく思いながらも、彼らは兄が勇躍起つ時がくることを信じ心待ちにしていた。
そんな弟らの想いが通じたか青竜王の決意が固まったか、もう十何回目かも知らぬ牛種の雑魚を片付けた後、
青竜王は水晶宮の、星々のきらめきが玻璃の天窓から降り注ぐ広間へ皆を集めてこう言った。
「牛種らは玉帝の威光を分厚い隠れ蓑にしたまま、長期戦で我らを締め上げるつもりのようだ」
「……」
そんなの分かりきってることじゃないか、と弟達の目には落胆(ガッカリ)の気配が濃厚に漂っている。
白竜王は不満げな気を紛らわすためだろうか、カゴに盛られた菓子を次々に頬張っている。
そんな弟を半ば呆れて見ながらも、紅竜王たてやり場のない怒りは弟とまったく同じである。

「だが、牛種も焦りが出始めたのであろう、刺客の格も数も増える一方だ。つまり…」
青竜王は卓子(テーブル)に置いた手を組み直した。
「ここは牛種どもとの戦いの場としては、いささか手狭になってきている。水晶宮を出ることにしよう」
爆弾が卓子の中央に投げ込まれ静かに炸裂した。
だがその衝撃はこれまで窮屈に押し込められてきた狭い檻を吹き飛ばすには十分な威力であり
身体は卓子の前にありながら、すでに彼らの精神は高らかに天空へと飛翔していた。


「さて、水晶宮を出るとなりますと、牛種の本拠地に攻撃ですね?」
「まあ待て、まずは玉帝の所在を突き止めてからだ」
「ということは、玉帝が見つかれば思いっきり暴れられるってことだ!」
「そこまでは言ってない」
「玉帝のいらっしゃる場所ってどうやって探し出すの?天界の誰も存じてないというのに」
「ばっかだなー簡単だよ。そんなの牛種を片っ端から締め上げて言わせりゃいいんだよ」
「そんな、行き当たりばったりで単純な作戦を兄さんが考えてるわけありませんよ。
 …え?」
なんとも形容しがたい面相をした青竜王の姿を、紅竜王はそこに発見することになった。
嬉々として旅の支度に早速取り掛かっている下の二人は、それには気づいていなかったが。
「また戻ってきます」
縁起を担ぐわけでもなく、住まいへ頭を下げた末弟に皆も自然に頭を下げ、水晶宮を後にした。


「牛種の出方を待つ。となれば、一番効率いいのはどこでしょうね?」
「やつらの事だ、身が隠せる場所が多い所、罠を豊富に仕掛けることができる場所…」
「天空じゃ、隠れる場所なくて姿が丸見えだものね」
「人界か!」
「そう、牛種が玉帝を拉致奉り、…それ以上に何を企んでいるのかはハッキリしないが
 天界で玉帝の所在を知るものが居ないということは地に居られる可能性は高いと見ていいだろう」
四人は牛種に見せ付けるため、あえて竜の姿になり人界へと降りていった。

人型に戻って簡素で身軽な服装に着替えた時には、すでに夕刻であった。山の端ににじむ陽の光は
天界では見られないものだ。青竜王は詩歌に詠われた風景を思い出し、佇んでいると
「兄貴、ぼーっとしてないの。それはそうと、戦の前の準備となったら♪」
せっかくの詩情は宙に掻き消えてしまい、やれやれ、と青竜王は溜息をついてみせた。
「分かってるよ。もう人家からも夕餉の煙が上がっている、ここで野営をはることにしよう」
水晶宮から持ち出した食料で簡単に食事を済ませ、けれども皆で額を寄せ合って食べる楽しみは
なによりのご馳走で、一時期人質として幽閉されていた黒竜王はこの思いもかけない状況に
夢ではないかしらとしばし思い、手が止まった弟を見て食事はもういいのかと親切に残りを
引き受けようとして拳固を食らった者あり、その騒動を涼しくやりすごして皆のため
器用に茶を汲み分ける者ありと、まことに賑々しく人界での初日は幕を閉じたのであった。




そのまま、牛種の襲撃はやって来ず、事件も起こらず一月が過ぎた。
ある程度持久戦になるのは覚悟していたことだが、こうまで期間が開くとやはり緊張が薄れてしまう。
なにより水晶宮から持ち出した食料が底を尽いてしまった。襲撃は人界に降りた直後からくると
思っていたので、そう大量に用意をしてこなかったのだ。
宝貝はあるのだが、無機物から有機物をとりだすことはかなわず、つまりどうしているかというと
天下の竜王達は山で小動物の皮をはぎ川で釣りをし、人里で多少の労働をしては現物支給してもらうという
ある意味、牛種の小ざかしい襲撃以上のわずらわしさと向き合わねばならない羽目となっていたのである。

「今日も串刺しの魚とトウモロコシ団子、かあ。腹には溜まるけどなんか、こう味気がないっていうかさあ」
「塩ならまだまだ十分残ってるよ」
「んー、そうじゃないんだな。まだお前にはわからないんだなあ」
「湯(スープ)の出汁用にと取っておいた金華火腿を、オヤツ代わりだと全部食べたのは誰でしたっけ?」
「調味料として使うとは知らなかったんだよー。もう俺、間違って食べたりしない!大丈夫」
「食べる前に知っておいて欲しかったことですね」
「ま、だいぶ俺も仕掛けの罠作り上手くなったから明日は期待しててよ」
「どうだか」
「本当だよ、今日の魚を取る仕掛け籠作ったんだよ、それも村の人に褒められたんだから!」
「食べられる野草を丁寧に見つけられる貴君だって十分褒めるに値してますよ」
「なにそのずいぶんと優しい笑顔、立場は同じ弟なのに態度が全然違う、差別だ!」
「だまらっしゃい」
弟達が伸び伸び闊達なのは兄としても嬉しいが、だが、現在の状況は何時来るとも知れない
牛種の襲撃を受けて立ち、玉帝の所在を突き止め天にお戻しするという重大な使命の最中なのである。
(早く襲ってきてくれんかなー)
などと青竜王には珍しく危険なことを思っていたとき、白竜王が突然棒立ちになった。
目はうつろ、口元はうっとりとゆるんでしまっている。
「…呼ばれてる。これは俺を呼んでいる。ぜひにも俺をと呼んでいる〜〜〜!」
白竜王はそんなことを口走りながら目の前から走り去っていった。
(俺たちを分断するための妖術か!?牛種、ついにきたか!)
香ばしい、実に美味しそうな匂が他の三人もようやく気づいた。
(これは!しまった!この状況を作るために牛種は兵糧攻めを!?いやまさか)

膠着状態を脱出できそうなのはありがたいが、かといって弟の暴走は止めねばならない。
青竜王は猛然と白竜王の後を追った。
香ばしい匂いはしだいに強くなってくる。松明でも焚かれているのか明度も増していく。
「!」
焚き火の脇にうずくまっている白竜王が見えた。肩が震え、上下に動いている。
とっさに木の陰に隠れさらに様子を伺うと焚き火の炎の陰に細い影が見えた。
呼吸を整え、青竜王は一気に焚き火の前に躍り出たがそこで急停止してしまった。



まだまだありますわ。そんなに急いで来て、どうなさったの?」
玉じゃくしを手に花が開くような笑顔をその影は投げかけてきた。
「??!!」
「旨い、旨いよ太真王夫人!あー生き返るううう」
「なんで、貴女が、ここに?そして何を?」
「見ての通り、肉団子汁です。お口に合えば良いのですが、どうぞ。
 なぜ居るのかというのは竜王家が人界で不自由無きようにと母の言いつけで参りました」
温かい碗を手に持ちながら、青竜王はいまだ目の前の人を信じられぬ思いで見つめていた。
牛種の謀略に陥る前から天界公認の恋仲である、西王母の末娘、大真王夫人その人を。

背後で足音が聞こえ、残りの二人が来た事を彼らに気づかせた。
「あ、大真王夫人、こんばんは」
「こんばんは、黒竜王。さあ、召し上がれ」
「太真王夫人…そうですか。崑崙の配慮、痛み入ります」
「ええ、崑崙は中立の位置ですから竜王様方には公然と肩入れできませんけど、私一人ぐらい応援しても
 中立の天秤が大幅に傾く事なんてことはありませんわ」
「いずれ人界に降りていらっしゃるだろうと予想していましたが、早かったですね」
(貴女ならどんな状況であっても兄の元へ駆けてくるんでしょうね…)

四人としても“調理”された料理を口にするのは久しぶりなので、しばし太真王夫人の手料理に没頭した。
鉄鍋一杯の肉汁は食べつくされ、最期に放り込んだ米飯などは猫が皿を舐める以上にさらわれた。
「ここまで気持ちよく食べてもらえると料理人冥利に尽きますわ。ありがとうね」
「ううん。本当に本当に美味しかったよ!こちらこそ、ありがとうございます」
「果物もあるわ。でもこれきりなの。あとは干し果物になってしまうけどね」
「その食料袋、私が持っていきましょう。また困る事態になりかねませんからね」
「チェッ信用ないのな」
「前科者がなにを言っているのです」
「貴女が泊まるところを作りたいのだが、やはり一つ寝所じゃまずい。外套があるから
 俺はそれに包まって一人外で寝るよ」
この非常時になに固い事言ってるんだ、と残りの者は長兄の融通の利かなさに呆れたが
「私も道具を用意して来ています。竜王様を外でなんか寝かせられませんわ」
結局、彼女の天幕は青竜王が使うことにし、安全のため彼女は大きな天幕側で休むことになった。

太真王夫人が一行に合流したことで、彼らの食糧事情は格段に向上した。
獲物を捕ってくるだけで良くなった白竜王などは喜色満面である。
いささか綻びた服の修繕も、簡素だが調えられた食卓と生活面が潤っていくにつれ
最初は彼女に恐縮していた皆も、彼女からの希望もあったのだが、遠慮なく物を言い合える
親しい仲へと変わっていった。それは彼女太真王夫人にとって嬉しいことであったし、長兄を除いて皆、
来る将来を先取りしたかのような状況に心が浮かれぬわけがなかった。
だが全員の心は一つ、離れるようなことは一切なかった。
「はやくこの宿題に片をつけなければならない」




彼ら一行のささやかで、けれども賑やかな夕食後の一時、ようやく事件は訪れた。
生薬の心得もある太真王夫人の力作の、印度風肉汁に兄弟は感嘆賞賛の声を上げ
常以上の速さで鍋は空けられていった。
その後、太真王夫人はこれまた村人から分けてもらった乳で干し杏を煮固めたものを泉から
取り出しに出かけ、長兄は彼女夫人の警護。残りは火の端で満足しきった表情で休んでいた。
白竜王は先ほどの料理がいたく気に入った様子で、平らげた直後なのにもかかわらず
しきりに「次はいつ作ってくれるのかなー、毎日これでも大歓迎だよ」などと
頬が緩みきった実にしまりのない顔である。
いつまでもそんな極楽郷に遊ばせてたまるかと牛種が思ったのかどうか、焚き火の火が
突然に立ち消えた。さきほどまで寛いでいた三人ではあるが、やはり最強の竜一族である。
危険の火が神経の端に点った瞬間、すでに迎撃体制を整え終わっていた。


「まったく菓子の後に来れば良いってのに行儀をわきまえないやつらだ」
「ここはしっかりと礼儀をたたきこんでおかねばなりませんね」
言い方は穏やかであるが、紅竜王の全身から立ち上る気迫は鋭い。
救いなのはここに太真王夫人が居ないこと。彼女に武術の心得があるのは皆知っているが
やはり将来の義姉さんになる人にはなるべく危険から遠ざかっていて欲しかった。
「太真王夫人は兄さんがいるから安全でしょう。むしろ心配なのがこっちに一人」
「そんなこと面と向かって言うなよな、黒竜王は繊細なんだから」
「あなたのことじゃないんですけどね」

そのセリフが三男の耳に届くより先に、黒い獰猛な影が三人の前に躍り出た。
そいつは無言のまま、大きく両手を振りかぶった。
と、最初の緩慢な動作とは裏腹に空を切る勢いで両手が振り下ろされた。
敏捷に飛び退った三人だが、爪は地面を深くえぐり撒き散らされた土が周囲に飛び散った。
「あ、俺最初ね」
「ああ!だからその無鉄砲さが心配だってあれほど」
「頑張って!兄さん!」
弟の声援だけを耳に入れた白竜王は高く飛ぶと木の枝に手をかけ回転した勢いでそのまま
敵の顔面に飛び蹴りをお見舞いしようとした。彼の計算で行けばその痛烈な一撃で敵は
もんどりうって倒れるはずであった…はずであったというのはその敵は白竜王の急襲を
待っていたかのように彼の足首を掴み高々と持ち上げて見せたのだ。
「…だから言わんこっちゃない」
「へへ、面目ない」
「呑気に言ってる場合じゃないでしょうが!」
さすがに白竜王も(こりゃしくじった)と反省していたが、片足ならともかく両足首では
いささか動きづらい。上体を跳ね上げて敵の顔面に拳を食らわそうかと力を溜めたとき
「ウ?ギャ!アア」
いつの間にか敵の後手に回っていた黒竜王が抜いた切っ先で敵の足の腱を寸断していた。
「謝謝!太真王夫人特製の冷菓子、半分分けてやるよ!」
「恩に対してずいぶんお礼が少ないですね。少なくとも一週間は全部を渡しなさい」
「そんな殺生な〜」
「大丈夫だよ。半分ずつで僕、それでいいから」
「甘やかしは人格の向上を妨げるんですよ、いけません」
とかなんとか軽口を叩きながらも三人の連携で包囲網を狭め、とうとう紅竜王の一戟で
敵の頭部は肩から切り落とされた。復活を防ぐために頭部は窪みに埋め、更に背の丈ほどの
石でしっかりと抑えつけた頃、長兄と太真王夫人が竹篭を手に皆の下へ戻ってきた。
長兄はピクリと眉を跳ね上げたが、三人が無傷なのを見ると緊張の顔を緩めた。
太真王夫人にいたっては三人が勝つのは自明のこと、とばかりにいつもどおりの態度で
「お待たせしたわね。でも、その前に手と顔を洗ってきなさいな」
兄弟は素直に彼女に従った。

果たして冷菓子は六皿分あったので、今日の殊勲者である黒竜王が二つ貰うことになり、
白竜王は敵に捕まるより怖い菓子抜きの刑を無事、免れられた。






多少時は前後して、こちらは泉に向かった二人の道中。

夜の森、人目は無し、それなのに二人は手をつなぐことも無く肩を並べ歩いていた。
それでも、崑崙にいるときには考えられないほどの近さである。
(この状況の中じゃ不謹慎なんだろうけども、嬉しい)
寝起きの顔から、就寝のあいさつまで同じ時を過ごせる今の状態が嬉しくないはずがない。
なんといっても彼女はまだ歳若いのだから。一方で、彼女は自分の立場を弁えていた。
(私は崑崙からの派遣、という理由で来た身。万が一にでも青竜王様の顔に泥を塗るような
 “人界に愛妾を連れて遊んでいる”などと、触れ回られるわけには絶対、いかないわ)

西王母、そして姉妹からも同じような言葉で送り出されてきた。だが、その後に続くのが
「身の危険は自分で守れるでしょ?だから危なくなったら帰って来いなんて言わないわ。
 寂しいとか、辛いとか、そんな安い言葉で青竜王様の気を惹く方がおしまいよ。
 そういうさもしい女に成り下がりそうになったら、彼から離れてこっちに戻りなさい」
そんなこと言わないわ、と姉妹に宣言して出てきたが、その機会はまったく訪れなさそうだ。
現に、長身である彼の歩く速度は彼女に合わせて緩められている。
ぬめった地面では肩を貸してくれている。これで寂しいなどと思うわけがなかった。


青竜王の内心もまた、愛しい女性との擬似新婚暮らしに喜んでいるだけではなかった。
いくら濡れ衣とは言っても、やはり天界から追われている身なのだ。
それに比べ、太真王夫人はまだ西王母の娘としてかばわれる余地がある。
(いつ、西王母様の元へお返したらよいのだろうか)
感心なことに、そんなことを言ったら彼女が悲しい顔をするだろうと察する心はあった。
太真王夫人と別れる、という選択を青竜王は最初から思い浮かべもしなかった。
このまま手放した挙句、よその男に嫁がれてしまった日にはとうてい立ち直れないだろうことは
自覚していたが、これをどう彼女に説明したものだが、青竜王自身には分からないでいた。
(いつ晴れるかも分からない疑惑が解けるまで、ずっと待っていてくれないか…なんて
 いくらなんでも身勝手すぎるだろう。ましてや西王母様にいらぬ心労をお掛けしてしまう)
相手の状況は思いやれるくせに、相手の心情にはまったく鈍い二人を半月が静かに照らしていた。

泉に着くと、牛乳羹はほどよく冷やされ良い按配である。
容器を入れた竹篭を泉から引き上げて持つと
「そんな青竜王様、それぐらい自分で持てます」
「いいから俺に持たせて。貴女が来てくれた事に比べたらささやか過ぎるお返しだけど」
青竜王が歩き始めると、ふいに手から籠の重みが半減された。
「これなら、いいわ」
籠の持ち手を握る手に、蜜のようになめらかな感触が伝わってくる。

今が夜で助かった、と青竜王は安堵した。耳が熱くなっているのが自分でも分かる。
おそらく、顔も相当染まっていることだろう。
太真王夫人は手が除けられないことが嬉しかった。青竜王の手が熱いのを知ると
彼女の胸には彼への愛しさが満ち溢れた。今、歩くこの時だけは、どうか…

そうして、先ほどの事件の直後に戻ってきたのである。





それからは平穏無事な最初の一月が嘘のように牛種は次々に襲ってきた。
衆目がある天界を離れたらこっちのものとばかりに、えげつないほどのやり口である。
太真王夫人も愛剣の飛燕双を手に、時には兄弟の危機を救うことさえあった。

崑崙にいたころは、絹や宝玉に飾られた優美な衣をまとい、仕草は優しげ、と
まさに深窓のお嬢様であった彼女だが、人界に降りてきてからはもともとの美しい顔立ちに
生気が満ち溢れ、内側から光輝くようである。動作は鳥が身を翻すかのように身軽、
碁を優雅に打っていた細い指は包丁を操る手へと変わったが変わらず白く綺麗で、
青竜王は、崑崙の彼女よりも人界での彼女こそが本来なのではと思うこと度々であった。
彼自身は真面目に太真王夫人の考察をしているつもりなのであるが、三兄弟から見れば
兄は美しい彼女に目を奪われ気を抜かれている様子にしか見えないこと度々であった。


太真王夫人の食事の支度を手伝い、小刀で芋を削っていた青竜王の手が止まっていたので
率先して引き受けた薪割りをせっせとこなしていた白竜王がからかい半分、
「兄貴、今度は何“難しいことを”を考えてるんだい?」
いつもであれば、その瞬間慌てて表情を整えるのが面白いのだが、今回は違い
「ああ、そろそろ場所を移動しようかと思ってな」
「え?いい場所じゃんかここ。食料は豊富だし泉は近いし申し分ないところだぜ」
「お前…俺たちが人界に降りてきた理由はなんだ?」
「えーっと…ちょ、タンマタンマ!覚えてるってば。牛種を徹底的にやっつけるため!」
「まだ足りないな。玉帝不明の情報を集める為だ。だがここで待っているだけでは勝手が悪い」
「そうですね、いくら敵が強くともそもそもが格下、手下の類ばっかりで何もつかめてませんからね」
「玉帝様のことが、天界にも漏れてないのだから…牛種の方も、知ってる人を限っているのかしら」
「そう。黒竜王は実に聡いな。でだ、玉帝を隠すのに不自然でないところといえばどこだろう?」
「いくら三千年を閲してるとはいえ、あの威光はただものじゃありませんよ」
「ああ、たとえ牛種に記憶を封鎖されていたとしても、あれは隠しきれるものではない」
「そこいらの街や村じゃ、周りの人にびっくりされちまうわな」
「木は森に隠し持て…つまり、同じような身分の人が集まるところかしら…宮廷?!でも、まさか」
「まさか、とは俺も思ったがかといって牢獄のようなところに置かれてらっしゃるとは思えない。
 牛種にとって、玉帝を手のうちに置いているという事が唯一最高の切り札だ。不逞な事を言ってしまうが
 万が一の事態が起きた時点で、牛種には何の根拠も無くなる。さらに全天から逆賊として
 滅殺される運命になる以上、この唯一にして最大の手札を損なう失策は犯さないだろう」
「いやーそろそろこの牧歌的生活にもマンネリを感じていたんだよな。都かー楽しみだな」
「さっきまで田舎暮らしを絶賛していた人を引き離すのは、こちらとしても心苦しいですから
 ずっとここに住んでなさいね、天幕とか道具は置いていきますから大丈夫でしょう」
「都のお土産、何がいい?」
「黒竜王、お前まで!」
「はい、兄弟漫才はそこまでよ。さあ身の回りのものを片しましょう。自然を使わせてもらったのだから
 以前よりもきれいに整えていきましょうね」
皆で竈を崩し、道具を纏め、穴は埋め戻し、旅立つ用意は整った。
「おやすみなさい」
「おやすみ」




―襲撃は夜半に起きた。

小用に起きた末弟は事後、後頭部の髪がざわつくのを感じていた。
年少であっても、戦いの経験を何度も積んだせいか感覚はすでに一流の武将のものである。
何気ない風を装い、天幕へ戻るとすでに他の三人も手元にそれぞれの愛剣を引き寄せていた。
ざわり、と木がぞよめく。ひたりと冷気が天幕に忍び込んできたが、まだ敵は遠い。
剣の柄に手をやり、石火で抜けるように中腰でかまえ、敵が近づくのをじっと待つ。
突然天幕が引き裂かれ、唸り声と共に敵の姿が目の前に現われた。
先手必勝と両翼から白竜王と紅竜王が居合いの声とともに切りかかる。
手ごたえがあり、地面にゴトリと二つ音がした。
「「音が二つ?!」」
見ると地面には牙をむき出しにした牛の首が二つ転がっている。まだ敵は立ち続けている。
「なんと、三面のバケモノか!」
気づいたものの、すでに二人は敵の背後に回ってしまった後である。
敵の正面に立つのは太真王夫人と、黒竜王だけである。
「お前ら、そこをどけ!」
意外な敵の容貌に呆然としていた二人は兄の一喝にすぐさま横に飛んだ。

ビュオッ

人間なら大の大人5人でも弓を引くことが敵わない強弓を引き絞り青竜王は矢を放った。
だが、焦りのせいだろう怪物の頭頂には刺さらず、肩を射抜いただけであった。
自分でも思わず動揺したところに
「青竜王様!これを!」
手に飛び込んできたものを見れば呪を彫りこんだ六角の聖杖である。
「玉傘聖呪か!」
これが投げられたという事は彼女は無事なのか、それよりも急を争う。
見ると怪物の切断された箇所からは新たな首がウネウネと再生されつつある。
怪物の前後を挟み二人で朗々と呪文を読みあげる。
首の再生が遅くなり、怪物の身体は絡め取られたかのように鈍重になってきた。
「はっ!」
怪物の頭がガックリ下がったところに、脳天に黒竜王の剣が深々と突きたてられる。
剣先にはすでに護符を刺してある。脳内から聖呪を打ち込まれた怪物は膝から崩れ落ちた。
青竜王は聖杖を心臓の真裏から突き立て、怪物の息の根を止めると二人の無事を確かめに走った。
「あんなに焦った顔の兄貴、初めて見た…」
「…そろそろ、魔境に足を踏み入れたということですかね」



顔に泥汚れが付いているだけで黒竜王は無事であったが、太真王夫人は足に一筋の切り傷を負っていた。
「敵にじゃないわよ、避けた時、木の根に引っ掛けてしまっただけだから」
けれども白く細い足に一筋の血の跡を見てしまった青竜王は落ち着いてはいられない。
うかつにも今更思い出したことだが、彼女は竜種とは違い、鱗を持たない生身の肌なのだ。
「だが、そうは言ってくれても、まだ貴女は崑崙に属している御身なのだから」
「つまり、崑崙に帰ったほうが良いってことかしら?」
青竜王だってこれまでの数々の恩を彼女から受けておきながらこのまま追い返すつもりは毛頭無い。
この数ヶ月の生活を青竜王こそ心底愛しく思っていたのだから。髪一筋ほども危険な目に合って欲しくない。
それなら自分の手元に置いておけばいい、けれどもこれからは牛種の権謀渦巻く宮廷に入っていくのだ。
巧みに彼女と引き離される危険は非常に大きい。ならば崑崙で待っててくれたならどれほど安心か。
太真王夫人だって、きっと分かってくれる。
そして彼女にとってくやしいことに、そういう青竜王の気持ちをまた心から理解できてしまうのである。

せっかくの美男美女でありながらこれ以上に無い不器用さの二人の恋をずっと見てきた兄弟も
この状況を良く分かっていた。三兄弟自身、太真王夫人とここで別れたくはなかった。
けれども、いつまでも深刻に浸りきれないのがこの兄弟の美点である。
「太真王夫人が帰ったら、また砂をかむような日々に逆戻りか〜。でも行き先は都だから何とかなるか!」
「ここでお別れになるのは寂しいですけど、すぐに兄が迎えに行くでしょうから待っててやってください」
「都で食べた料理を覚えて帰るから、またきっと、美味しい料理を作ってよね」
「別れを惜しむ前にまず手当てだ、ちょっと太真王夫人を連れて出かけてくる」


「…たしか、このあたりだと覚えていたのだが」
そんなたいした怪我じゃないから歩けると主張する太真王夫人を
「いいから、俺に甘えておきなさい」
と彼女を背中に背負った青竜王は以前崖上から見かけた湧泉を探して歩き回っていた。
足元を猿の親子がすり抜け、煙のように消えた。「?」と思うと木に幾重にも絡みついたツタから
下りていったようである。湯気の匂いが気流に昇ってやってくる。「ここか」
「降りるよ。しっかりつかまっていて」
降りて周囲を見ると、こんこんと湧き出る熱水に、主流をそれた滝からの冷水が注ぎ込んでいる。
湯の中には乳房の傷ついた母猿、足を挫いた鹿など、ここは動物の湯治に使われている温泉らしい。
服が裂け、傷が覗いている肌をたっぷりの湯で洗い流し、湯の薬効か化膿は避けられそうである。

「よし、これで…」
と振り返ると、太真王夫人は湯面に目を吸い寄せられたままだ。
ああ、と青竜王は合点がいった。これまでの生活には何も不満は言わなかった彼女だが、風呂だけは
やはりどうにもできず、身体を拭くだけとなっていたのだ。女性ならこの湯を使いたいのも当然であろう。
「どうぞ、入っておいで。俺は上で待っているから、終わったら声をかけてくれたらいい」
「…青竜王様は入っていかれないのですか?」
湯気に当てられただけではない赤みが彼の頬に差した。
「いや、そんな気持ちは本当に、その、ありがたいけど、しかし」
「ごめんなさい!こんなこと言ってしまうのははしたないと思うのだけど、でも…」
青竜王の喉は干上がり、耳元では大きく音が鳴る。
「背負ってもらったとき、ちょっと…どうかなって。あっ、ううん気にしないで!」

彼は完全に赤面した。



さて、と青竜王はこの状況をどうするかと素早く頭を廻らせた。
ああ言われているのに太真王夫人の勧めを頑なに拒むのも不自然であるし、なにより女性に
ここまで言わせてしまった以上はそれに乗るというのが責任の取り方というものであろう。
それに、そもそも(客観的にはどう見えていようとも)彼女と自分は恋仲という状況なのだ。
“一緒に湯浴みをする”ぐらい、そういう仲なら普通に起こりえる。きっとそうに違いない。
(…であるから、ここは一緒に湯を使うというのが正しい振る舞いであるはずだ)
ややもすると膨らむ煩悩を無理無理に抑えつけ、青竜王は道着を脱ぎ下穿きに手をかけた。

(言わないほうが良かったかしら…)と太真王夫人は思ったが、口に出した以上取り消しは効かぬ。
はたして青竜王がくるりと後ろを向いたので、(見ないようにしてくれたのね)と思い帯を緩め袖を抜き
湯の方を振り返ったところ、今度は太真王夫人の心臓が跳ね上がる番となった。
無駄なく筋肉がついた男らしい広い背から続く引き締まった腰、形良く腱が発達した長い脚と
自分でも一瞬のうちによくもと思ったが、青竜王の後ろ裸身をしかと見てしまったのだった。
衣の前をかき合わせその場にしゃがみこんでしまったが、いつまでもそうしていられるわけはない。
(まさか、さっきのセリフをそういう意味で取られるなんて…)
背後でザブリと湯の音がする。
(し、しっかりなさい!ここまできて逃げ出したら青竜王様に恥をかかせることになるわよ?)
わずかな時間で肚を決めた太真王夫人は立ち上がるとスルリ、と衣を地に落とした。




先に湯に入った青竜王は、天に見事な満月があるのを見つけていた。しかも夜風は涼しく、
今の状況をどうかするとそのまま忘れてしまいそうである。
背後で、パシャンと小さな音がした。
油が切れた機械のようにぎくしゃくと後ろを振り返ると、湯着というのか薄い一重を身体に巻きつけた
太真王夫人の姿が見えた。
「そっちにいって、良い?」
まったくの素裸ではないこと、そして湯も多少濁っていることに安心を覚えた青竜王は
「どうぞ、こちらは視界が開けてて本当良い景色だよ」
とはいえ、まだ相手を直視する勇気が出ない二人は、背中合わせに湯に浸かっていた。
滑らかな湯の感触に、先ほどの襲撃で夫人を失うかもしれないと恐怖した心も溶け出していく。
やはり、太真王夫人には安全な場所に居てもらいたい。そして…
「そして、…なに?」
いつの間にやら口に出して言っていたらしい。まあ、ここまできたら本心を隠すこともなかろう。
「太真王夫人には崑崙で、俺たちがこの戦いに勝利して帰ってくるまで待っていてもらいたい。
 その暁にはきっと西王母にご挨拶に伺うから。だから、俺たちを信じて待っていて欲しい」
そう青竜王が言い切った後、しばらく沈黙が満ちた。
(やはり、これは俺の身勝手な気持ちであったか…けれど本心は伝えきれた。思い残すことは無い)

「…何年でも、たとえ何千年だろうと、待つなといっても私は待ってるわ。私に好かれたからにはそれぐらい覚悟なさい」
冗談めかしてはいるが、彼女の真心が約束された返事である。にもかかわらず、青竜王はしょうもないことに
「ありがとう」
と一言返すのが、まったくの彼の精一杯であった。
ふと、底についていた手に太真王夫人の手がそっと重ねられた。瞬間、青竜王の身体に電撃が走った。
跳ねた手に驚いた彼女はハッと立ち上がろうとしたが青竜王はその手を離さず、そのまま己の内に抱きしめた。
湯着があるとはいえ、濡れた薄い布越しに感じる甘い香りと細い腰、白いうなじに張り付いた髪の悩ましさ。
これまで近くに居ながら敢えて意識から外していた分、その衝動は倍となって青竜王を突き飛ばした。
「…苦しいわ、青竜王様」
腕を緩め太真王夫人の顔を見れば、水の玉が髪を飾り、上気してつややかな頬、肌に吸い付いて透けた布
そのすべてが青竜王をどうしようもなく駆り立てる。だが鋼鉄の自制心が彼をギリギリ足止めさせていた。
彼女を怯えさせていないだろうか、それが気がかりで彼女の様子を伺うと、逆に覗き込まれた。
「天界から離れて久しいというのに、まだ眉間に皺寄せる癖が抜けてないのね」
可笑しくてたまらないといったふうに笑って、太真王夫人は青竜王の眉間をそっと指で撫でた。
先ほどまでの彼の悲壮さは彼女の笑顔ですっかり洗い流され、幸せな恋人達だけがそこに残った。





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