ソレは墓場まで/◆QTBUWlBVVQ(4-729)さん
ざらざらと瓶を傾けて錠剤を出していると背中を優しく叩かれた。
「規定の用量は守ったほうがいいな。それに空の胃に入れるものじゃない」
そうして目の前に差し出されたのはアンパンの袋。違う方から牛乳のパックも。
「そうですよ。薬ばかりより、牛乳の方が自然ですし胃粘膜を保護するんです」
さらに心配そうに引き出しから漢方薬を出して勧めてくれる人も。
「ご心配おかけして申し訳ありません。ですがこれぐらいまだ平気ですよ」
「…そうですかあ?ここ数日みるみる胃薬が減っていってますよお」
「なにか心配事でもあられるのですか?」
ある、本当はものすごくあるのだがこんなこと誰にも言えるはずが無い。
室町警視と組んで深刻なセクハラを明るみに出した件については隠す必要も無いが、
その過程にアレやらコレやら闇に葬るしかない件が彼女との間に起こってしまい、
これは絶対にバレるわけにはいかない。特に涼子に対してだ。
だが、なぜ涼子に対してそういう意識が出るのだろう。ただその時のカタストロフを
思うと心臓が幾つあっても足りないだろうなあという思いと恐怖ばかりが先走り、
思考はそこから先に進まないでいた。
ちらり、と丸岡警部から目を向けられその先を見ると私の胃痛の原因が立っていた。
「ちょっと、話があるんだけど」
くいくいと手招きされては見ぬフリなぞ出来そうにもなかった。
「頑張ってくださ〜い」
三者三様の見守るような視線に送られて、私は廊下へ重い足を引きずり扉を開けた。
「単刀直入に聞くわ。泉田君、お由紀と何かあった?」
「あったといいますか、それは…」
「あとは私が説明するわ」
「室町警視!」
「あら、懸念のタネが向こうからやってくるなんて手間が省けたわ」
「この間、各省庁のトップエリート数人が処分されたでしょう」
「それで?」
美しき裁判官がこれまた美しい顎をくいと引いてその先を促す。
「あれは、私だけの手柄じゃないの。泉田警部補にも協力してもらったのよ」
「ふーん」
「だから、お涼が勘ぐることなど私と泉田警部補の間には何もなかったのよ」
「へー」
「ちょっと!!」
まるっきりマジメに聞こうとしない涼子の態度に由紀子の声が知らず高くなる。
「このあたしが、ソレ程度のことでいちいち騒ぎ立てると思う?ええ?
変態エリートが勝手に自滅したって話ならとっくにあたしの耳に入ってるわよ。
二人がアヤシイって裏づけがちゃんとあるからこそ、あたしは言ってるの」
「言ってみなさいよ。いい加減なことだったら只じゃ置かないからね」
「あれだけ情報料を弾んだんだもの。インチキな話であるわけがないッ」
「いくら払ったんですか」
「現金じゃないわ。『なでしこ飛行隊』のチャイナドレスバージョンよ!」
情報源は言うまでもあるまい。あんにゃろう!と唸り声を喉に押し込め宙を睨んだ。
「一、警視庁から二人でタクシーに乗り込むのを見た」
そして美しい指をさらにもう一本立てる。
「二、お由紀の服が翌日も同じ、しかも気だるそうな様子だった」
そして私と由紀子を超新星のような視線で射すくめ言い放った。
「これだけの状況が揃っていれば、二人の間にナニかがあったなんて明々白日!
さあさっさとキリキリ白状おし!私だって鬼じゃないんだから早くお言い!」
鬼じゃなくて魔女王様だろうなんて場を和ませる冗談など言える空気でもなく、
涼子の単なる直感があらゆるものを飛び越えていきなり事実を掴み取った驚きに
私も由紀子もしばらく口が訊けないでいた。
「勝負あったわね。さあ言い分でも聞きましょうか。どちらからでもいいけれど」
御使いが喇叭を吹き鳴らし、天の鉢が割れて終末のカタストロフが始まろうかと
思われたその時、場違いなほどほんわりとした響きの声が耳に入ってきた。
「良かったわ。どうやら間に合いましたようですわね」
硬直した時間の中、誰よりも早く反応したのが涼子だった。
「…おキヌ!何だってここに来たのさッ」
「あら、無用の誤解を解くお手伝いに参りましたのよ」
「誰が頼んだよ!」
「そんなこといわないでちょうだいな。涼子ちゃんだって人を疑うのは嫌でしょう?」
うーん、姉妹愛がなせるウツクシキ誤解である。さすが絹子さん。
「さ、さ、ちょっとお耳を貸しなさいな」
有無を言わさず涼子の手を引いて廊下の片隅に行きヒソヒソと話をする。
ときおり涼子の鋭い視線が頬に刺さるが、どうやらピンチは一時去ってくれたらしい。
安心する間もなく、今度は絹子さんがこちらにつかつかとやってきて同じように隅に
連れて行かれなにごとか囁かれた。のだが…それはなんていう話ですか?
「さ、これで万事上手く収まるわ。さ、頑張ってね泉田サン」
ポンと背中を叩かれ、涼子の前に歩み出る。涼子の態度はやや軟化しているように見える。
「そこまで泉田クンを悩ませていたなんて悪かったわ」
「いいえ、これは自業自得ですし」
「いいのよそんなに自分を責めないでも。それにしてもいくら恋愛の悩み相談だって
よりにもよってお由紀に指針を求めるなんて、ううん、それほど藁にもすがりたかった
というワケだったんだろうけど」
私の視界の端で眉を吊り上げる由紀子が見えたが、賢明にも彼女は沈黙を守ってくれている。
「泉田クンの気持ちはよーく分かったわ。あたしの一人相撲じゃないってことも分かったし。
さあ、エンリョせずにあたしの腕に飛び込んできなさい!」
「えーっと…」
「さあ!」
「あらまあこれでは、フレキシビリティはマイナス20点ね」
「絹子さん!貴女一体お涼になに吹き込んだんですか!」
「つまり、由紀子さんと二人料亭に行ったのは涼子への恋心を相談するためだったと」
「それはまたずいぶんと無茶な設定を思いついたものですね…」
なごやかに会話をする二人の美女に見とれる隙も与えず、目の前の美女が見る見る怒りの
ボルテージを上げていくのが気配で分かる。この期におよんでも涼子のまなじり吊り上げた顔さえ
美しいなあと見惚れている内に胃の痛みが全身に広がっていき…あれ、視界がなんだか暗く…?
「きゃあ!」
「泉田さん?」
「泉田クン!ちょっと!あたしへの告白は!!」
ネクタイを捕まれ肩を揺すぶられる感覚の中、私はどうやら気を失ってしまったらしい。
顔にぱたり、と暖かい雫が落ちる。唇の端に流れてきたそれを舐めてみると塩辛い。
眠たくて目が開けられず、手だけ動かして雫の元をたどると滑らかな輪郭に触れていた。
さらさらと柔らかい髪は短く、私の隣にいるのは涼子だと見ないうちから確信した。
さらにまたぱたりと雫が落ちて、顔を包んでいるらしい手に濡れた感触が走る。
「泣いているんですか…?」
まさかあの涼子が泣くなんて、という意外な思いと、なぜか胸が締め付けられる思いが交錯する。
「このあたしにここまで心配させるなんて…高くつくわよ」
「あなたの涙を戴いてしまったからには覚悟してますよ」
「なにをどれだけ保証しようってのさ」
「私の一生の忠誠を。それだけじゃ足りませんかね」
ようやく重い瞼を持ち上げて目の前の顔を見ると、陽光が雲の切れ間から差したような
笑みが視界に入った。手に入る力が増し、涼子の頬に添えた手をそのまま後頭部に回し
自分の方へ引き寄せた。
「泉田、クン…」
芳しい息が顔にかかる。
「あなたに恥じるようなことは何もありません。何もなかったんですよ」
「じゃあ、信じるわ。泉田クンだから、信じる」
「光栄です」
まだ胃は痛むが耐えられないほどではない。気絶してしまうだなんて情けなかったなあ。
「胃潰瘍の出血で一時的な貧血ですって。しばらく重湯の食事だろうけど仕方ないわよね」
「治ったら、また一緒に食事行きましょう」
「うん。」
「…ちょっとアレじゃ医務室に入れませんねえ」
「なにがあったのやら知らないが、まあ良かったんじゃないかね」
「まったく、人騒がせておいて…でも責任の一端は私にもあることだし、コホン」
「まあまあ一件落着という事で八方丸く収まってよろしゅうございましょう?」
皆さん方、聞こえているんですってば。
ここまで騒ぎが大きくなれば、さすがに何が原因なのであるかは私にだって察しが付く。
けれど、なんでだって私なのであろう。涼子であれば相手は選り取りみどりだろうに。
こちらも覚悟を決めてキスの一つでも涼子に奉げようかと思ったがギャラリーがこうまで
多くてはそれも出来ぬ。私は欧米人ではない、日本男子なのだ。いささか古めの。
「なにをするにせよ、まずは身体を直すのが先決よ。だから、ね。早く治すのよ」
唇に指を当てながらウインクをしてそう言った涼子は、寝ている私の唇をその指で触れて
「や・く・そ・く」
「了解しました」
窓から吹き込んだ風で薄いカーテンが強くなびいて、凛と立ち上がった涼子の周りで踊る。
その様に見惚れながら、私は久しぶりの幸福な眠りにゆっくりと落ちていった。
――まずは起きたらヤツを締め上げないとな。