泉田×涼子/4-673(=633)さん
――暗い空間の中を、七色の破片を纏った光が静かに降り注ぐ。
耳に響くは荘厳な賛美歌、そして祝福の成分が多分に含まれた笑いさざめく人々の声。
自分はといえば、白く艶やかに光るタキシードを着て、胸に小さなブーケを差している格好だ。
視線を後ろに転ずれば、重厚なビロードが床にまっすぐに敷かれており、その両脇には簡素なベンチが
ずらりと奥まで並んでいる。通路側は可憐な花で飾られリボンで仕切られており、その席の中に
案じるような目を私に送る母を見つけた。私は内の覚悟を伝えるよう、しっかりと頷いてみせる。
ほっと息をつく母の肩に父が優しく手を回すのが見えたその時、余韻を残しつつ賛美歌が止んだ。
その直後、パイプオルガンが教会全体を震わすかのように華麗な美声を鳴り響かせる。
一番奥の扉に光の筋が縦に走り、差し込んだ初夏の陽光の眩しさに私は目を細めた。
大きく開かれた扉からの光が周囲を白く染める中、ひときわ白く輝くものがその光の中立っている。
正装した初老の男性と手を携え、ゆっくりとその存在は一歩一歩、私に近づいてきた。
扉から差し込む光と、ステンドグラスからの光の粒子が精霊のように空間を飛び交う。
参列者の溜息が満ちる中、粛々と二人は進み、私が立つ壇上の手前で男性だけが立ち止まった。
私と同じ白い衣装を纏った女性はそのまま一段昇り、そして私の隣に寄り添うように立つ。
深くベールを被っているというのに、彼女の美しさは誰の目にも明らか過ぎるほど明らかだった。
そとおりひめ、衣通姫その名の通り美が衣を透過するほどの麗人が古代日本に居たのだという。
いにしえのお姫様は悲恋の伝説のヒロインであるが、現代の衣通姫は運命にただ流されるままではない。
運命がそっぽを向こうとすれば直ちに首根っこを掴んで無理やり方向転換させる、活劇のヒロインである。
そのお姫様がベール越しにまっすぐな視線を私に投げてきた。
「どう?三国一の花嫁を持った気分は」
自分で言うな、自分で。
「悪くない、といっておきましょうか」
「あら…今日は素直じゃない?」
私はそれ以上返事をしなかった。悪くないというのは嘘ではないが、ここから先のダンドリを
思い出すことで頭が一杯だったのだ。こっちはともかく主役である花嫁に恥をかかせてはならぬ。
まず神父の祝福の言葉があって、誓いの言葉があって、指輪交換、だったよな。
そんなことを考えているうちにパイプオルガンは華麗な和音を長く響かせ演奏の終わりを告げた。
余韻が消え去ったのち、マイクを通して上品なアナウンスがおごそかに式の開始を告げた。
「これより、帝国パレスウェディングフェア、模擬挙式を行います」
そう、これは模擬なのだ。
本当は今日はゆっくり起きて洗濯などをして、図書館をコースに入れて気ままな散策をするはずだった。
それが何故かここに居て、神の目前で薬師寺涼子と永遠の愛を誓うハメ…いやいや模擬挙式しているのか。
色々なジジョウがあってのことなのだが、説明するには昨晩の一本の電話から話を始めねばなるまい。
以下、私の回想である。
「もしもし、準一郎?電話してくれたのね」
「携帯に着暦残ってましたから。それで、いったい何のご用で?」
「あのね、結婚式のことなんだけど」
「け、け結婚って?一体誰の?」
餌を喉に詰まらせたニワトリのような声が出てしまった。
「あなた、準一郎のよって言いたいところだけど…そうじゃなくて私の姪っ子のよ。この秋に挙式予定の」
「ああ…」
以前帰省したとき見せられた従妹とその婚約者の写真を私は思い出していた。
「それでね、挙式場所を探しているそうなんだけど、結婚式場のフェアの日程が重なってしまって。
それがどちらも候補になってるところなものだから、私が協力してあげるって姪っ子に言ったのよ」
「ええ?それは、つまり」
上手く繋がらない話を頭の中で整理しようとして、母の続けた言葉にようやく事情が飲み込めた。
「明日、私とお父さんとでそのもう一方の式場を見学に行くから、準一郎、あなた案内してくれるわね?」
「…ずいぶん急な話だね」
「だってこの話が出たのが今日の夕方だったんだもの」
「明日は非番ですが、私にも一応予定というものがあってですね」
「予定ったって、一日のんびりして図書館行くか映画見に行くかのもんでしょ?それともデートの予定でも
入ってるの?それなら喜んで私は遠慮しますけどね。で、どう?準一郎が居てくれたら助かるんだけど…」
さすが母親、あっさり私の日常を言い当てた。しばらく沈黙した私の様子を母は了解と受け取ったらしい。
それとも33にもなってあまりにカイショウナシな不肖の息子に嘆息していたか。そっちの気配が濃い気がする。
こちらの予定が白紙なのを知られていて、さらに母の頼みを断るのも気が引け、私は案内することを承諾した。
待ち合わせ場所を決めて電話を切り、近所のスーパーの惣菜と炊いたご飯とでささやかな夕飯を済ませた。
そして今朝。駅の改札を出たところに母に連れられた父が立っているのを人ごみの中から見つけ出した。
母は式場のパンフを片手に、父はデジタルビデオカメラを肩から提げており、私に気付いて手を振った。
「ありがとう、準一郎」
「親孝行としてはささやか過ぎますが、これぐらいお安い御用ですよ」
「準一郎にしては珍しく気が利くわねえ。女性の方も連れてきてくれてるなんて」
「はあ?!」
「おはようございます、お母様、お父様」
聞き間違えようとしても間違えられないその声に私は油が切れたロボットのようにぎくしゃくと振り返った。
「グッモーニン、泉田クン」
そんなに爽やかな空気を纏っていたって私は騙されないぞ。一体なんでここに上司サマが参上あそばしたのか。
と顔に書いてあったらしい。涼子はパンフを覗き込んでいる両親をいいことに私の上着を掴んで引き寄せた。
「ちゃんとルス電に吹き込んであったでしょ。今日買い物に付き合いなさいって」
携帯を見ると確かに涼子からの着歴がある。とりあえず、再生して聞いてみる。
(まだ寝てるの?今日は買い物行くからさっさと起きて支度なさい。最寄の駅まで迎えに行って上げるから
アリガタク思いなさいよ。十時には着くからそこで待ってなさい)
それが両親の待ち合わせ場所と時間と一致していたのだ。まったく神サマはこの人に運を贔屓しまくりである。
その分、不運な廻り合わせがこちらにしわ寄せとなってくるわけで…あれ?
「そういう事は今朝いきなりとかじゃなくって、昨日のうちに言うとかしていただけませんか」
「したいと思ったときに行動する!それがあたしのポリシーよ。分かってるんじゃなかったの?」
自信満々に胸をそらされてもなあ。だいいち、今日の私には涼子の言いつけを断る正当な理由がある。
私に課せられた役目を説明すると、涼子の目は沈むどころか興味深そうにキラリと輝いた。まさか…
「今日は、よろしくお願いします。ご両親は東京に不慣れだと聞いておりますし、こういうことに男性は疎いと
相場が決まってますから、私がささやかながら姪御さんの慶事に力添えさせていただきたく」
「そんな、こちらこそありがとうございます。今の女性の好みってことならなおさら今日は心強いわ」
母は涼子の手を取り感激した面持ちである。父の方はといえば…ダメだ完全に涼子の猫被りスマイルに惚けている。
「それじゃ、あちらに車を待たせてありますから。出発!」
先導役をすっかり涼子に握られ、私は覚悟を決めたロバのように涼子所有の運転手付きリムジンに乗りこんだのだった。
まだそれからあとにも色々なジジョウが発生したのだが、それはまた後で。
神父の祝福の言葉、そして結婚への心構えを説く言葉はいちいちごもっともなことばかりである。
これを何千というカップルが通り抜けているはずなのに、数年で離婚する人も居るというのは
天上の神様でも男女の仲については手が及ばないものらしい。
その神様が今回ばかりは聞き漏らしてくれるようにとこっそり心の中で願いつつ、私は口を開いた。
「汝、この女子を娶り、神の定めに従いて夫婦とならんとす。汝、その健やかなる時も、病める時も、
これを愛しこれを敬いこれを慰めこれを助け、その命の限り、固く節操を守らんことを誓いますか?」
「誓います」
幼きころの学芸会の数少ない舞台経験を思い出し、新郎らしく凛々しく張った声で答えた。
「汝、この男子に嫁ぎ、神の定めに従いて夫婦とならんとす。汝、その健やかなる時も、病める時も、
これを愛しこれを敬いこれを慰めこれを助け、その命の限り、固く節操を守らんことを誓いますか?」
「誓います」
花嫁らしくか細く可愛らしい声ではなく、先生にあてられた生徒が返事するような元気のよさはご愛嬌か。
そういうことで、主従の誓いをした涼子と私はさらに永遠の愛を誓ったことになるわけだ。
後者は模擬である。念のため言っておく。
前もって預けてあった指輪を神父の手から受け取り右手に持ちかえた。手袋を外した涼子の手を持ち
「…なんで握りこぶしなんですか」
「あ。嬉しくってつい、ね」
こういう時にガッツポーズを作る花嫁なんて普通いない。
白魚のような、という表現が凡百に思える涼子のすんなり美しく伸びた薬指に指輪をはめていく。
ついで涼子が私にはめてくれたのだが力任せに押し込むものだからあやうく付き指をしそうになった。
神父がわたしたちの右手を重ね、その上に自分の右手を置いて祝福の祈祷をしたあと見学者に宣言した。
「これで二人は晴れて結ばれました。神よ、祝福を」
模擬ですから、神様。
「では、誓いのキスを」
ああ、はいはい…花嫁のベールをしわにならないように上げるんだって言われてたな。
注意深くベールをたくし上げたところで私の心臓はいきなり不整脈を刻みだした。
もともとが綺麗なところにプロの化粧を施された涼子の顔は三国一どころか宇宙一の花嫁で
緊張でもしているのかわずかに染まった頬が、えもいわれぬ美しさをかもし出している。
…これにキスしろってか。
まじまじと絶世の花嫁を見つめ、私は石像化寸前のありさまだった。そんな私に小さく涼子が囁く。
「早く、なさい」
「とはいってもヒトマエですよ」
私も小声で応対する。
「何言ってんの結婚式なんだから当たり前じゃない。ちゃんとやらなきゃ罰があたるわよ」
「こんな式場付属のチャペル、本式の教会じゃないんですから罰なんて当たりませんよ」
「カトリックだろうがプロテスタントだろうが日本製キリスト婚だろうが誓いの言葉は誓いの言葉、
口にしたからには男なら腹をくくってとっととする!」
このままでは涼子が持ったブーケで殴られかねない。私は敢然と清水の舞台から飛び降りた。
涼子の方へ身体を折って顔を近づけていき、少し顔を傾ける。羽が触れたような感触を一瞬唇に感じた。
「…まさかホントにするとはね」
「だって誓いのキスでしょう?」
「別に唇でなくったって額とか頬とかでOKなのよ。あたしはどこでもよかったんだけど」
よくなーい!と私は叫びたかったが、まだ式は終っていないし見学者は感動しているっぽいわで
私は涼子におとなしく片腕を差し出すしかなかった。
今度は二人で腕を組み、真っ白なバージンロードを仲良く見えるように歩いて教会の外に出た。
式場のスタッフが用意したのだろう。見学者から投げられた白い粒が式服にパラパラと音を立てる。
ライスシャワーというのだそうだ。そしてブーケトス、は最近はあまりないらしい。
ブーケにたくさんのリボンが結ばれており、女性の皆にくじ引きのようにリボンを引いてもらうのだ。
いろいろと結婚適齢期の女性には複雑な駆け引きと心情とやらがあるらしい。
「欲しいなら素直に手を出しゃいいのに、世間一般の女性ってのは一々面倒くさいわねえ」
世間一般からかなり離れたお嬢様はそう私に言ってのけたものだった。
とにかく、堅苦しい式はこれで済んだのだ。一つ伸びをして珍しく晴れた六月の空を見やっていると
揃いのスーツに身を包んだスタッフ達が私たちに速やかに駆け寄ってきた。
「どうもお疲れ様でした。午後から模擬披露宴がありますので、それまでご休憩ください」
純白のウェディングドレスの長く後ろに曳いた裾をお付きの人に持たした涼子と二人、ホテルの一室に
臨時に設えられた控え室に入っていった。
夏も近いとあって正装した格好はいささか暑くるしい。涼子はといえば汗一つかかずに涼しい顔だ。
というのも道理でお付きの人が甲斐甲斐しくアイスティーを差し出し扇で涼子に風を送っている。
「やっぱり式は花嫁さんが主役だものね。私のときも色々気遣ってもらったものよ」
控え室にやってきた両親があらためて涼子の美貌に見入っている。
涼子のウェディングドレス姿は昨今流行だという形では無く、首筋まで襟が高く立ち上がった
クラッシックなスタイルのものだ。今はベールを取り素の頭であるが、式の最中その頭上には
庶民には縁が無い価格の時価七億だとかいうダイヤモンドのティアラが載せられていたのである。
「本っ当に綺麗だったわ。私、すっかり感動して目が潤んでしまって」
「ええ、模擬とはいえなかなか本格的な式でしたからね」
「もうこれで肩の荷がすっかり降ろせるってものだよな、母さん」
「降ろすのはもうしばらく待ってて下さいよ。模擬なんですから、今日のは」
「…なによ、モギモギモギモギうるっさいわね」
「暗かった受験時代でも思い出しましたか」
「そんなもん、あたしにあるわけ無いでしょ」
そうでしたこの人はストレートで東大法学部に合格あそばされたんでした。
ちなみにこれは両親が他所を向いているときに交された、挙式直後のウイウイシイ会話である。
とりあえず、涼子は私の両親の前では猫をかぶり続けることに決めたようである。
少し時間を戻して、なぜ新郎新婦の役をすることになったのかを話すとしよう。
はた目には新郎新婦予定のカップルと新郎の両親といったテイサイでホテル入り口の受付に座り、
フェアの参加用紙にあれこれ記入していると、にわかに周囲があわただしい空気に包まれた。
今日の責任者らしい人が部下に耳打ちされ、顔色がみるみる変化する。その人の視線が
フェアの会場内を忙しくさ迷った後こちらを見て目を見開き、慌てたように駆け寄ってきた。
「まことに申し訳ございませんが、ウェディングドレス着ていただけないでしょうか?」
「え?」
一同が突然投げ込まれたお願いに目を丸くしたが、母に頼んだわけはないしもちろん私でもない。
責任者の目はすがるように涼子を見つめ続けている。
「事情を聞かせてもらえますか?」
「はあ。その、今日の模擬結婚式の花嫁役のモデルが貧血とかで倒れてしまいまして、
代役も立てておらず今スタッフ一同手配で走り回っているのですが何分急を要することで。
そんなとき、まさに花嫁に相応しい方を見つけたものですから、お声がけさせて頂きました」
「お目が高い!」とはいわなかったが、これは面白いことになったと涼子の心が弾むのが分かった。
「もちろん謝礼はお支払いします。どうかお引き受け願えないでしょうか」
涼子はその頼みを快諾した。相手には涼子の微笑みが天女のごとく映ったことであろう。
「そういう事情ならお引き受けいたしましょう。けれども、謝礼は結構ですわ」
そういうわけにはいきません、と押し返されたがこちらが公務員であることを告げると口を閉じた。
「ですが、なにか今日のお礼をさせてはいただけないでしょうか?」
「でしたら」といって涼子は両親のほうを振り向いた。
「今日の宿は決めてらっしゃらないのでしょう?彼の両親に一つ部屋を用意して頂けませんか?」
「もちろん、お安い御用です。すぐ手配いたしましょう」
駅前の適当なホテルをとることを考えていた両親がこの幸運に喜ばないはずがない。
他人事のようにのほほんと構えていたら、なんと今度は私にお鉢が回ってきた。
「そのですね、お嬢様はすらりとして身長がおありになりますから、よって新郎役のモデルだと
いささか高さが不釣合いという事で、そちらの方にも新郎役をやっていただけないかな、と」
私は即答できなかった。代わりに涼子がさっさと了解の返事をしてしまっていた。
「ご両親の一泊の宿がかかってんのよ。親不孝になりたくなければ引き受けることね」
気が進まない、という消極的な理由を吹き飛ばす涼子のセリフに私は首を縦に振るしかなかった。
まあそういう事情で、今日の佳き日に涼子と私が挙式をする運びとなったのである。
休憩の後は模擬披露宴である。
色んなイベントがあるそうで、いくつか希望のものを選ばせてもらえた。
説明を聞きながらとりあえず無難なものを指定した。カクテルタワーだとかレーザー光線とか。
色々それらについて私も詳しくなったが、ガータートスについては積極的に辞退申し上げた。
興味のある諸氏は各自調べること。私の両親の手前、あからさまにガッカリはしなかったが
涼子はつまらなそうな顔つきになった。いや、危なかった。
さて、披露宴といえばドレス。ドレスといえば女性の夢。ということで母と涼子は衣装棚の中の
あれこれきらびやかなカクテルドレスを熱心に目で追っていたが、これは式側から指定された。
コーディネーターが選び抜いた今年の新作だそうなのだが、果たしてどんな姿で登場するのやら。
さきほどと同じように開始のアナウンスが場内に流れ、私と涼子はいまだに人気だという
タイタニックのテーマ曲で披露宴会場に入場した。
「花嫁なんですからゲンナリした顔しないで下さい。私だってシンボウしているんですから」
そう忠言するのも、会場中の視線が涼子に注がれているのが判っているからである。
涼子の胸元にあるのはイエローダイヤモンドが中央に輝く2億はするというネックレス。
それに勝るとも劣らぬ魅力を放つ完全無欠の美脚とハイヒールがドレスの裾を交互にさばく。
後ろから見るとロングなのだが、正面から見ると膝上20センチという変わった形のドレスで
涼子はその美貌で何でも着こなしてみせるが、このドレスは涼子のために仕立てられたと思えるほど
完璧に似合っていた。羨望とも嫉妬ともつかぬ溜息が満ちるテーブルの横を通り、ひな壇に着席する。
スタッフの教育も良く、進行もスムーズに披露宴は進む。ゴスペル歌手の美声が会場に響くころには
すっかり私にも余裕がうまれて、目の前の料理に手を出し始めた。
「ん。宴席料理は冷めて不味いというのが定説なのに、ここのはなかなかね。及第点上げてもいいわ」
食べないの?と涼子の目が問うが、花嫁にここまで堂々と食事されては窘める気も起きない。
その間にも目の前では挙式予約数を上げようと、さまざまに目を引くイベントが展開されている。
見学者から時おり歓声が上がるが、絶妙なジャグリングにもかかわらず涼子は退屈そうである。
コース料理はコーヒーまで進み、せいぜいお代わりをするぐらいの用事しか私たちには無い。
拍手がひときわ大きくなりショーが終った。芸人が退場しようとして、会場内に再び転げ込んできた。
涼子の鋭い勘が異変を感じ取り、退屈に沈んでいた眼がダイヤモンド以上に強く輝いた。
「待ってました!」
本当にどうして涼子と二人行動するとなにやら事件が起こるのだろうか。
止める間もなく涼子はすっかり片付いたテーブルをひらりと飛び越え絨毯を蹴って走り出していった。
花嫁に逃げられた花婿と見られては格好がつかないので私も急いで涼子の後を追いかける。
披露宴を放り出していきなりホールに飛び出してきた花嫁を見てスタッフが慌てて呼び戻そうとするが
「あたしは警視庁刑事部参事官、薬師寺警視よ!何が起こったのか誰か説明して!」
涼子が名乗る肩書きと絶世の美貌の花嫁を目の前にしてスタッフは聴覚と視覚に混乱をきたしたようだ。
仕方ないので私が手近なスタッフをつかまえて事情を聞きだした。
「強盗事件?」
「ええ、さきほどあなたが頭に載せていたダイヤのティアラが押し入った男に持ち去られたそうです」
「その男はどこに逃げたの?」
考えるまでもなかった。あちこちで男に突き倒されたのであろう悲鳴の先を辿ればいいのである。
世界一ゴージャスな花嫁が疾走する様にフェアにやってきた客たちの足が軒並み停止する。
申し訳ないが、幾人かそういう人を押しのけ涼子と二人廊下を走り続けた。
悲鳴との距離はだんだんと縮まっている。床が絨毯から大理石へと変わった。
陽光が明るく差し込む階段ホールにて、私たちは階段を転げるように走る強盗犯を眼下に発見した。
涼子の手がドレスの裾をふわりと跳ね上げた。まばゆいばかりの腿が目の前に露になる。
そこにあったのは色っぽいガーターベルト、ではなくバンドで止められたコルト三二口径だった。
「なんでそんなのをドレスの下に装備しているんですか!」
「拳銃を手にする花嫁なんて格好良いと思わない?」
「何を言ってるんですか!とにかく、発砲はいけません!」
「だってあいつ、もうあんなに先よ!」
男に突き飛ばされて倒れた人たちで目の前の階段は塞がれている。流れた血で大理石が赤く濡れている。
周囲を見回し他に降りられる所がないか懸命に探し――あった!
「下りのエスカレーターがあります!あっちへ!」
「それじゃ遅い!」
「ならどうやって追いかけるんですか?!」
「これよ!」
涼子がぴしりと指差したのは大理石の階段、の横の手すり。何を言わんとするかは分かったが、本気か?!
「泉田クン!あれをお持ち!早く!」
一体これで何をするんだという疑問が脳に到達するより先に脊髄反射で手が伸び、受付台の上にある
ドリンクを運んでいた長方形のステンレスの盆を腕に抱え込んで涼子のそばへ駆け寄っていった。
「ここに乗せる!」
手すりの一番上に私が置いたのを見て取った涼子は床を踏み切って、その長盆の上にひらりと飛び乗った。
重みが手にかかった刹那、手を離すとスケートボードよろしく涼子は手すりの上を長盆で滑降していく。
ドレスの裾が戦闘天使ワルキューレの羽のように華麗にはためく。それを視界の隅に捉えつつ
私も階段を三段飛ばしで駆け下りていく。終点が近くなり涼子は上体をやや起こしタイミングを計って
手すりの跳ね上げ部分から――飛んだ。
方向、距離も狙い過たず果敢なワルキューレが空を切って強奪犯を急襲する。涼子の動きの一つ一つが
スローモーションのように見えたが、実際はわずか四、五秒の間の出来事であったろう。
グバアアン!と派手な音と「ごわっ」という呻き声とともに、犯人はぐしゃりと涼子の一撃に崩れ落ちた。
犯人の手からティアラが離れ、カラカラと床を滑っていく。どうせ犯人は気絶してるだろうから
先にティアラに駆け寄りはっしと手に取り、胸から抜き取ったチーフにそれを包むと立ち上がった。
「お見事でした」
「あなたのアシストあってこそよ。さすがあたしの花婿!」
違う!まだそうじゃない!と即座に思ったが言って涼子を刺激するのもなんなので、黙っていた。
今日ぐらいは言わせておいてもいいだろう。一応模擬とはいえ式も挙げたことだし、うん。
「手に持ってるのは?泉田くん」
「取り戻したティアラですよ、ほら」
広げたチーフからダイヤモンドのきらめきが零れ出る。涼子はそれを優雅に取り上げ自分の頭に載せた。
「私の結婚式をよくも無茶苦茶にしてくれたもんだわね。あとでうんと絞り上げてやるから覚悟なさい!」
「気絶してるんだから聞いちゃいませんって」
念のため繰り返させてもらうが、私の結婚式じゃなくウェディングフェアの模擬結婚式です。
華麗なドレスに豪華なティアラを身につけた涼子は可憐な花嫁姿からは数億光年の距離にあった。
戴冠直後のエカテリーナ女帝かエリザベス女王のごとき、後光も差そうかという凛々しい立ち姿である。
…となると、私は花婿じゃなく従者か忠臣といったところであろうか。
足元でくたばっている現行犯を後ろ手にネクタイで縛り上げたところで女王様はいきなり駆け出した。
「ちょっと待ってください!あなたが強奪犯になってどうするんですか?」
「こんなの幾らでも買えるわよ失礼ね!これが単独犯のわけないでしょ?仲間が外で待機してるはずよ!」
カンカンとハイヒールの音も高く涼子はホールの外へと飛び出したが、休日開催のフェアであるから
外には沢山の人だかり。そのせいで誰が犯人のお仲間やら見分けがつかない。涼子も戸惑っているようだ。
「取ってきたぞ!受け取れ!!」
鋭い一声、そしてキラキラ光ったものが目の前を飛んでいった。男の手が人ごみの中から突き出る。
「お巡りさん!あのグレーのジャンパーを着た男の人です!」
それを掴んだ男が「なんだ!違うじゃねえか!」と叫んで地面に叩き付け、人ごみの中を逃げていく。
突然のアクシデントのお陰で私も涼子もその男の見分けがついたが、それよりもこの聞きなれた声は!
わたしたちが追う前に、制服警官がその男に詰め寄り地面に押し付け、手錠をカチリと嵌めていた。
屈強な身体を水色の上着と藍色のズボンに押し込めたその警官は、わたしたちの姿に驚きの目を向けてきた。
「これは…本日はお目出度うございます、お二方。私にお呼びがなかったのがいささか残念でありますが」
「本番にはちゃんと招待状を送るから安心なさい。こういう格好をしているのは事情があるの。また後でね」
「はっ」
頭上に冠を頂いた女王陛下にうやうやしく礼をして阿部巡査はパトカーに担いだ男を放り込み去っていった。
公務員がアルバイトしたってバレたらマズイよなあ。でも現金を貰っているわけではないから別にいいのか。
「まったく、心配するところが的外れなんだから」
「何のことでしょう?」
優雅に頭を振る涼子をその場において、私は犯人逮捕のきっかけとなった二人の姿を探し出した。
「準一郎!さっきのお巡りさんと知り合い?とても強そうだったわねえ」
「何やってるんですか二人とも!危ないことしないでくださいよ」
「だってほら、警察に協力するのは善良な市民の義務っていうじゃないか。なあ母さん」
「ええそうですよ。しかも息子が警察官だっていうのに見てみぬふりをする道理がありますか」
「そういう心ある市民の支えで私たち警察は職務に邁進できるのよ。泉田クン、ご両親に謝りなさい」
頭上と胸元に合計数億のダイヤを身につけた警察官らしからぬ姿で涼子が私に懇々とお説教をする。
どこかシャクゼンとしないまま、声を荒げてしまったことを私は母に詫びた。
「あ。」
涼子が突然棒立ちになる。猫の毛皮を脱ぎ捨てて逮捕劇で堂々主役を張ったことを思い出したらしい。
「涼子さん…」
「はい」
いまさら遅いが、しおらしく涼子が返事をする。
「あなた…」
教師の審判を待つ子供のように緊張した面持ちの涼子に助け舟を出そうと口を開きかけ
「格好よかったわぁ。本当に凛々しくって素敵だったわ、あなたの様な人が警察にいるなんて心強いわ」
そう言われた涼子の顔はなんといったらいいのだろう。照れていると見て取って、いいのだろうか。
「…ありがとう、ございます」
掛け値なしの本心で涼子が母に感謝の言葉を述べる。
「こんな娘がいてくれたらなあ、と思っていた通りの子で嬉しいよ。でかした!準一郎」
…正気か親父?とはこの場で言えるはずもなく、ようやく追いついたスタッフに強盗犯から
取り返したティアラを無事返却して我々一同はようやく安堵したのであった。
ホテルの客室のソファーに掛けていると、涼子は冷蔵庫を開けビールの缶を二つ開けて私によこした。
「ホントはシャンパンで乾杯、といきたいところだけど見当たらないし喉も渇いてしょうがないから
コレにしておきましょ」
さっきの大立ち回りで私も涼子と気持ちを同じくしていたので、その提案に進んで賛成した。
爽快な炭酸とアルコールが渇いた喉に染みとおっていく。
「ああ、キンベンに働いたあとの、しかも善いことをした後の一杯はほんっと最高よね」
「まったくです」
珍しく涼子と思いが一致したことにしみじみと感慨を抱きながら私は一本一気に飲みきった。
一息ついて、扉の開いたクローゼットに目がいった。…ああ、そうだった。
「な、なに脱いでんの泉田クン?!」
「この衣装で帰る気ですか?着てきた服が、ほらあそこにありますから着替えて帰りましょう」
頬が染まった涼子の狼狽え顔を見ている内に、血中に廻った酒精が余計な悪戯心を呼び起こしてしまった。
「このまま結婚式の続きして帰りましょうか?」
「つ、続きって!ナニ言ってんの?!」
「あなたが想像しているだろうことですよ」
涼子の顔がすっかりピンクに染まりきった。涼子の手の中で空き缶がパキパキと音をたてて潰れていく。
自分で言っておきながらあまりの効果に逆に驚きつつ、私はタキシードの上着を無造作に椅子にかけ
ネクタイに手をかけた。「なんてね」と続けようとして振り向きかけ、私の視界は縦に90度回転した。
「…そこまで言われて黙って引き下がるワケにはいかないわ」
涼子の顔が眼前に迫る。体をひねった不安定な姿勢を涼子に突かれてベッドに倒れこんだのだ。
喉元が涼しくなりボタンを外す音がして、自分の置かれた状況が分かった私は一気に酔いが醒めた。
「じょ、冗談ですってば」
「冗談で済ませようたって、あたしの耳に入ったからにはそれで済まない事ぐらい分かってるでしょ?」
「人が来ますって!」
「…そんなにイヤなの?」
涼子が私の上に乗ったまま悲しげに俯いた。女性を泣かせたというよりもコドモをいじめているような
なんともいえない自責の念が私の胸中に湧き上がってくる。しおれた花のような涼子の顔を見られず
視線を下げてしまった。2億のネックレスが目に眩しい。
…すみません正直に白状します。大きく開いたドレスの胸元から覗く艶かしい乳房の丸みに私の目は
釘付けになってしまった。しかし長々と見とれている訳にはいかない。
「嫌なわけじゃないですよ。ただ、あのですね、」
花嫁からベッドに押し倒され、しかも服を脱がされかけているのが新郎というのは、たぶん初夜として
珍しいパターンではないだろうか。
「イヤじゃないならこのまま進めるわよ」
「待って、落ち着いてください!」
どっちが花嫁のセリフやら。涼子の面目をつぶさずこの貞操の危機をどう回避しようかと頭を廻らせる。
「だから、ダメですって!式を挙げたといっても今日は模擬なんですよ」
「花嫁がいいって言ってるのに、何がダメなのよ」
「そういうことは本番のときまでしたくは無いんです!」
「ホンバン?」
「そうですよ、人生に一度きりの事なんですから模擬の式なんかで無駄遣いしてはいけません。
だから、その時まで…その、大事に取っておいてください」
「…分かったわ」
たっぷりの沈黙の後、そう言って涼子は私の上から衣擦れの音をさせつつ大人しく離れてくれた。
無事この場を切り抜けることができたようで私は大きく肩で息をつく。
コンコンとノックの音の後、式場のスタッフが涼子の着替えを手伝いに中へ入ってきた。
「…お取り込み中でしたか?」
「いいえ!」
とるものもとりあえず私は急いでタキシードを着替えて部屋の外へと飛び出したのだった。
廊下に飾られた水彩画を眺めながら待っていると、普段のスーツに着替えた涼子が姿を現した。
「待った?」
「いいえ、それほどは。思いとどまってくれたようでなによりです」
「なーんか言い方に気になるものがあるけど、確かに泉田クンの言うとおりだわ。それにそういうことは
それなりに準備というものが必要でもあるしね」
「そうですよ」
ようやく涼子と普通の会話ができるようになって、私はいつものペースを取り戻した。
「その時が楽しみだわ」
笑顔の涼子につられ私も笑顔になるが、いつに無く涼子が上機嫌なのはどういったわけだろうか。
ホテルに泊まる両親に見送られ、私と涼子はロビーを横切りホテルの玄関から足を踏み出した。
数歩歩いたところで、自分の左手に光るものを発見した。
「しまった!ちょっとホテルに戻って返して来ます」
「いいの。このまま帰りましょう」
上着を掴んで引き止めた涼子の左手に光っているのは、私と揃いの結婚指輪。
オカネモチの涼子サンがとっくにお買い上げを済ませたとのことだった。
「今日の記念よ。エンリョしないで貰っておきなさい」
「記念、ねえ」
「色んなことが今日はあったでしょ?だから、ね!」
朗らかに笑って涼子は初夏の宵の空に左手をかざして見せた。月に照らされたプラチナが涼やかに光る。
「無くしたりしたら承知しないわよ」
「はい、大事に部屋に保管させていただきます」
「ん、よろしい。本番まで私も着けないでおくけど」
今日は確かに式を挙げたが、模擬だったんだよな?その認識がどういうわけかどんどん揺らいでいく。
「泉田クンは何も気にしなくっていいの。世間が認めりゃ事実なんて後付けでかまわないのよ」
それってつまり…なにやら胸が騒ぐ予感を感じつつも、私は差し出された涼子の手を拒めなかった。
「あら、なんだかんだ言ってすっかり準一郎もその気じゃない」
「…来年あたりに式の予約入れて帰ろうか」
「まあそれは、二人に希望を聞いてみないとね」
そんな会話が後方で交わされているとも知らず、私と涼子は手をつないで満月の下をふたり歩いて帰った。
終わり。