二人でお茶を(ミュラー×フレデリカ)1/3-338さん
一度目は偶然だった。
それは、廊下と廊下が交差する地点での出来事だった。
その日、それまでのイゼルローン共和政府主席である
フレデリカ・グリーンヒル・ヤンが、
イゼルローン共和政府軍司令官代理のユリアン・ミンツを伴って
幼帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムの暫定摂政、
ヒルデガルド・フォン・ローエングラム皇太后と
今後の問題について3時間以上にもわたる初めての会談を終え、
会議室から出て廊下を歩いていたときだった。
まだ草案としての域を出ていなかったが、
帝国・旧同盟どちらにも有利な条件を引き出す会談となったことに
ほっとしていたのだろう、
フレデリカは自分のやや後ろを歩いていたユリアンに顔を向け、
話しながら歩いていたから気がつかなかったのだ。
話しながら歩いていたユリアンが
前方の廊下の曲がり角から現れた人物に気づき、
「あ、危ない!」
とフレデリカに注意を促したときには既に遅かった。
フレデリカはその人物と接触し、
「きゃっ!」
と短い悲鳴を上げながら、
そのまま転ばないように無意識のうちに接触した相手の上着を握り締めていた。
通常であればフレデリカもそれで転ぶことはなかったのだが、
いつもと違う状況がさらに事態を悪化させていた。
フレデリカが履いていた、公式の立場以外では履くことのない高さ10cmのパンプス。
それがフレデリカの足元を不安定にさせ、
相手の足を蹴り上げてしまっていた。
そのままフレデリカは後ろに倒れそうになる。
必然、上着をつかまれたままの相手も、
そのまま引っ張られる形で自分に圧し掛かってくる。
半分ほど倒れたところだった。
とっさの判断で硬い床に叩きつけられるフレデリカの身体を庇おうとしたのだろう、
彼女の背中と後頭部に相手の両腕が回っていた。
驚きで眼が見開かれ、
そのまま瞳に吸い込まれるかの如く互いの顔が近づく。
どすん、という大きな音を立て、2人の身体は床に転がっていた。
が、床に転がった直後の場面を何も知らぬ人物が見たら、
「仮皇宮の廊下の交差地点」というその場所で、
そのような狼藉を働いている、
フレデリカの上に圧し掛かっている人物に非があるように見えるだろう。
フレデリカの唇に、相手の唇が触れていた。
双方の顔が瞬間的に朱に染まる。
フレデリカを押し倒しているその人物は
「も…、も、もも…、申し訳ありません!」
弾かれたかのように身を退け、片膝をついてフレデリカの上体を起こした。
「お…お怪我はありませんでしたか、
フロイラ……違った、フラウ・ヤン?」
フレデリカが相手の力を借りて立ち上がるまで、
相手は片膝をついたままの状態を保ち続けた。
2人のそばに立っていたユリアンには、
その姿はフレデリカを護衛する誇り高き「騎士」のように見えた。
「え…、あ…、は…はい」
相手はフレデリカの返事で無事を確認すると、やっと自分も立ち上がって。
いまだお互いの頬が染まったまま、少しの間視線が合わさる。
慌てたように再び相手は謝罪の言葉を口にした。
「フラウ・ヤン、申し訳ございません!
以前からこの場所は衝突事故が起こりやすく、
小官もそれを充分心得ていたのですが、
今日に限って考え事をしながら歩いておりましたゆえ、
フラウ・ヤンのお姿に気づくのが遅くなってしまいました。
本当に申し訳ございませんでした!」
自分の失態から目の前の婦人を危険な目に合わせたことを詫び、
深々と頭を下げる、黒地に銀の意匠を施してある上着を着た人物。
「いいえ、こちらも私の後ろを歩いていたミンツ中尉と話しながら歩いていたし、
その…足元がぐらついてしまって…。
それでお召しものを引っ張ってしまいましたので、
その点から申し上げれば原因は私にありますわ」
とフレデリカの方も非を認める。
と、自分の目の前にいる相手の姿に、フレデリカは見覚えがあった。
「あなたは確か夫の葬儀のときに…」
砂色の髪。砂色の瞳。比較的高い身長。
いくらか高音ながらも柔らかい印象を与える声。
「はい、私は帝国軍元帥のナイトハルト・ミュラーと申します」
「あの時はフラウ・ヤンもご傷心であらせられましたので、
あまりお話することもできず…」
「…あの時は帝国を代表してのご参列ありがとうございました、閣下」
ととりあえず形式に沿った挨拶を交わす。
やっと互いの体裁が整ったのを見計らって、一度咳払いをしてから
「フレデリカさん、大丈夫ですか?」
とユリアンが声を掛ける。
2人はユリアンの存在をすっかり忘れていたことに気がついた。
「あ、…ええ。大丈夫よ、ユリアン」
ミュラーはフレデリカの後ろに立つユリアンに敬礼で挨拶した後、
「本当に申し訳ありませんでした、フラウ・ヤン。
少し急ぎますゆえ、私はこれで失礼致します」
とその場を立ち去ろうとした。
「お待ちください、閣下」
と呼び止めるフレデリカが、上着のポケットから何かを取り出す。
「閣下、失礼致します」
と取り出したハンカチでミュラーの唇を拭った。
「場所が場所ですし、元帥ともあろうお方の唇に口紅がついていたら、
あらぬ嫌疑を掛けられることになりかねませんわ」
薄手のハンカチ越しに触れられた指先のほのかな温かさが、ミュラーの唇に伝う。
ちり、と胸の奥がわずかに焦げる音が、ミュラーの内側に聞こえた。
「これで大丈夫です、閣下。では私も失礼致します」
とにこやかに微笑みながら一礼し、フレデリカ達の方が先に歩き始めていた。
少し急いでいたはずのミュラーは、
その後ろ姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
(美しい方だった…)
その晩、ミュラーは自宅のベッドで昼間のことを思い出していた。
(いや、1年ほど前に初めてお会いしたときにもそう思ったが、
なんというか…美しさに磨きが掛かったような気がする)
互いの注意力散漫から起きた偶発的な事故とはいえ、
金褐色の髪の触り心地が。
抱きしめたら骨が折れそうなほど華奢な体格が。
ミュラーの身体に蘇ってくる。
(あれほどのか細い身体のどこに、
共和政府主席としての才覚を隠しているんだろう?
少なくとも昼間の様子からでは、
少女の面影を残したまま大人になった女性としか思えない)
触れてしまった唇の柔らかさ、直後に顔中を真っ赤にして恥らった姿。
(あれではまるで…男を知らぬ乙女のような…)
だが、ミュラーが亡き敵将ヤン・ウェンリーの
葬儀の際のことを口にしたときに、一瞬だけ見せた瞳の陰りは
間違いなくフレデリカが未亡人であることを物語っていた。
(1年足らずの結婚生活だったとも聞くし…寂しいんだろうな)
彼女の夫を倒すべくその戦いに参加したミュラーは、
結果的には彼女の夫を殺すための「舞台」を作ってしまった
責任と罪の意識の一端を痛いほど感じていた。
(あの場で詰問されても否定はできないのに)
だが自分を呼び止めたフレデリカはそうはせず、
ハンカチ越しに自分の唇に触れ、にこりと微笑んだ。
その表情は、まるで姉が弟の身体を労わるような、慈しみに満ちていて。
(子供の唇を拭うかのように、傷つけないようにそっと触れられた…)
自分の指先が無意識に唇に手を延ばす。
が、ミュラーの意識は理性からの訴えでそこで強制的にストップが掛かった。
7、8年前の苦い記憶が頭の中に蘇る。
(…いや、止めよう。
あの日自分自身で悟ったではないか、自分は色恋事に向いていないと)
自分自身への警告を込め、わざと音を立てて唇に触れていた手を枕へ落とす。
固く目を閉じ、明日に備えてミュラーは眠りについた。