疾風夫婦ネタ3 ◆dZQtv7lHHw(3-262)さん




 短い間であったが、夫婦は暫く抱き合ったままでいた。
 互いに押し寄せてきていた悦楽の波に身を任せ、そしてその波が徐々に引いていくのを楽しんでいた。体から力を抜き、
大きく息をつく。呼吸が落ち着いてくるのを待った。
 先に立ち直ったのは、夫の方であった。呼吸を整えているうちは顔を伏せて妻にはあまり見えないようにしていたが、
ふっと顔を上げた。そしてにっこりと微笑み、妻の頬を撫でる。
「大丈夫?」
 彼はそれだけを訊いた。それに対しエヴァンゼリンは少し微笑んだ。彼の下にいる彼女の胸は未だに上下していて、
口元からの呼吸は平静なものには完全には復帰していない。
「…ええ…凄く、良かったですわよ」
 小さく掠れた声が、形の良い唇から発せられた。その唇は濡れていて、さくら色を更に引き立てている。声が掠れているせいか、
ミッターマイヤーにはそれに酷く色気を感じさせていた。
 ――しかし…やはり大胆なような気がする。彼は以前にも思った事を今にも感じていた。しかも無意識に出てきた言葉のようだった。
 ともかく彼は気にしない事にした。微笑を浮かべたまま、彼は妻の太股に手をかけた。少しだけ力を加え、
広げさせる。動いた事で刺激になったのか、妻が微かに鼻にかかった声を上げた。それに一瞬気を取られたものの、彼は妻に告げた。
「…じゃあ、抜くから」
 彼はそう言って、ゆっくりと力を込める。体を引き剥がし、彼女を穿つ自らを引き抜こうとした。
 しかし、その行動に対し、エヴァンゼリンが声を上げた。
「――ウォルフ、お待ちになって」
「…え?」
 掠れ掛けているが、はっきりとした口調で妻は夫に呼びかけた。それに、ミッターマイヤーは意外に思った。
そして呼びかけの内容自体も彼にとっては意外であり、怪訝そうな顔になる。
 そんな彼に、エヴァンゼリンはにっこりと笑い掛けた。離れていこうとしていた夫の肩に手をかける。そのまま引き留めようとしていた。
「もう少し、このままでいて下さいませんか?」
「え?でも君は何時までもこのままではきついだろうに」
 ミッターマイヤーの台詞は妻を思いやってのものだった。いくら気を配っているとは言え、男が何時までも上に乗ったままと言うのは、
妻の体力には厳しいだろう。
 何より、貫いたままである。快楽が去りつつある今、そろそろ痛みと違和感の方が前面に出てくるのではないだろうかと彼は心配していた。
 しかし、夫の考えを知ってか知らずか、妻は手に力を込めた。そのまま、引き寄せようとする。
 ミッターマイヤーは戸惑うが、抵抗する理由もなかった。体から力を抜き、妻の自由にさせた。彼の体は再び妻の上に引き寄せられ、
密着させられる。
 エヴァンゼリンは笑った。少し、はにかんだような顔をした。伏目がちに、言う。
「いえ…もう少し…あなたを感じていたいから…」
 彼女は、今自分の中にある存在を、幸せに感じていた。



 どうしたものかとミッターマイヤーは思う。しかし、妻が望むならその通りにしてやりたかった。
 結果的に彼が選んだ事は、体勢を変える事だった。しっかりと抱き締め、結合したまま彼は妻の体を押した。
体力的に厳しい妻を下にしておくのではなく、側位の体勢にする。ふたりにとっては広いダブルベッドであるため、
少々の寝返りを打っても全く問題はない。
 その体勢のまま、エヴァンゼリンはそっと夫の胸に顔を寄せていた。とても愛しい男性の腕の中に在る事を、
彼女は幸せに感じていた。顔を寄せている事で拾う、相手の鼓動や汗の匂いを愛しく思う。瞼を伏せ、自らの背中に
回されている手の感触すら楽しんでいた。
 言葉ではなく、体で色々な情報を感じ取ろうとしている事により、彼女の感覚は鋭敏になっていた。そのせいか、
彼女の中に再びじんわりと熱が増してくる。
 ――あ。
 エヴァンゼリンは、夫とひとつになったままである事を実感した。
 瞼をぎゅっと瞑り、眉を寄せる。肉体的なのか精神的なのか、彼女には判別がつかないが、熱源である彼女の内部の感覚を、
意識的に追い始めた。
 異物感はあるけれど、まだ乾いていないせいか痛みまではない。この感覚…――この人の肉体。それが、私の中に入っている。
先程まであんなに強く、私を貫いて…――。
 彼女の脳裏に再び、先程までの行為が蘇ってくる。彼女自身があれ程までに乱れた、あの感覚が徐々に思い出されてくる。
鼓動が再び速くなってきた。熱さが、体の奥からこみ上げてくる。
 エヴァンゼリンはくっと鼻に掛かった声を上げ、軽く喉を反らせた。
「――どうかしたか?」
 ミッターマイヤーが不思議そうに問い掛ける。その台詞に、エヴァンゼリンはうっすらと瞼を開けた。垣間見られるすみれ色の瞳は
潤んでいて、熱に浮かされていた。
 夫に声を掛けられた事で、彼女の意識は体の感覚を追う事を一旦打ち切る。しかし、終わった訳ではない。
むしろ夫に呼びかけられた事が、彼女の意識の方向を定める事となったのだ。
「…あなた…ごめんなさい」
 彼女はそう言い、ミッターマイヤーの体を抱く腕をそっと外した。戸惑ったように見やる夫をよそに、彼女は夫の胸板に手をかける。
そこをそっと押した。
 ミッターマイヤーはこの体勢を無理に保とうとしていた訳ではない。そのため、押された事で容易く体は動いてしまう。
妻の軽い力によって、彼の体はゆっくりと仰向けに導かれていた。
 例によって抵抗する気がない夫が、妻の意を汲み、その導きに従った事もある。すんなりと体勢が変わっていった。
 今や上に乗る形になった妻を見やり、ミッターマイヤーは小首を傾げた。――まあ、きついんだろうな。この方が楽かもな。
彼はそんな事を考えていた。
 エヴァンゼリンは眉を寄せていた。軽く息をついている。そっと両足を割って滑らせる。ミッターマイヤーの上に跨るような格好を取った。
無論、ふたりはしっかりと繋がったままである。特に彼女が上になった事で、夫の雄は妻の中に根元まで余さず侵入を果たしていた。
 と、妻の手が夫の胸から離れようとしない。彼女はその手に力を込めようとしていた。腕立て伏せをするような体勢から、
ゆっくりと腕を伸ばそうとする。しかし彼女の力は足りず、体を支えきれない。体に力が入ってくる。



 不意にミッターマイヤーの腕が上げられた。手が、妻の両脇に伸びたのだ。するりと撫で上げるようにして
彼の手が妻の腰を掴み、力を込める。ぐいと持ち上げるように、エヴァンゼリンの上体が彼の力によって上げられた。
「あ、ウォルフ…っ」
 夫の唐突な行動と、体を動かした事による衝撃に、エヴァンゼリンは声を上げた。結合部を擦り付けられるような動きが刺激になる。
「こうしたかったかい?」
 下から妻の体を支えつつ、夫は問い掛ける。それに妻は小さな声で頷いた。
「…はい」
「じゃあ、君の好きにするといい」
 ミッターマイヤーは微笑みすら浮かべて、そう言う。その態度に対し、エヴァンゼリンの頬に赤みが差した。
 実際問題として、エヴァンゼリンは今自分が所謂騎乗位と呼ばれる体位を選んだ事を、知識としては知っていた。
しかし女性上位であるその体位を、彼女は今まで用いた事はなかったし、させられた事もなかった。
 そもそも今も衝動的に体勢を変えてしまっていた。体の中の熱と欲情に任せ、姿勢を変えた結果だった。狙ってやった訳ではない。
が、今の自分は確かに夫の上に跨っている事に気付いた。
 不意に自分が凄くはしたない事をしているという思いが、彼女の心をよぎる。熱に浮かされ潤んだすみれ色の瞳が夫の顔を伺う。
彼は、只妻を見上げているだけだった。腰を支える手はそれだけであり、愛撫が始まる気配は全く感じられない。
 彼女を見上げるグレーの瞳はある意味真摯な視線を投げかけていた。彼女はそれを直に受け止め、自らが上気してきたのを悟った。
空調が効いているはずなのに、再び肌が火照ってくる。顔に流れるのは涙なのか汗なのか、判らなくなって来た。
 やがて、過剰な熱を持った肌を持て余し、エヴァンゼリンは喉を鳴らす。緩慢に頭を振ると、クリーム色の髪が曲線を描いて揺れ、
彼女の白い肌を伝った。それすらも、彼女には刺激になっていた。段々と、意識にもやが掛かってくる。
 最初はおずおずと、彼女は腰を軽く上下に動かし始める。充分に濡れて粘液にまみれていた箇所が、彼女の動きに合わせて
微かな音を立てた。擦れる感触に、彼女は声を漏らす。瞼を伏せて、視界を遮断した。只、その感覚を追い求める事に専念する。
「…あっ…ん…」
 緩慢であったはずの彼女の動きが、徐々に大きく激しくなっていく。夫の胸に両手をついて体を繰り返し上下させる動きに、彼女は没頭していた。
 大きく動けば内部に強い刺激が与えられ、それは彼女にとって快楽を伴う。その感覚を彼女は持て余すように、顔を大きく打ち振った。
 下から見上げるミッターマイヤーは眉を寄せていた。しかし、妻の痴態に不快を感じていた訳ではない。
 確かに彼は妻のこのような顔を見た事がなかった。ひたすらに快楽だけを追い求めるかのような表情は、喩えようもなく淫らであった。
しかし、彼はそんな状況の彼女にすら、卑しさや醜悪さを全く見出す事が出来なかった。
 柔らかな室内灯に照らされた妻の肌は薄くピンク色に染まり、汗でしっとりと濡れて光沢すら持ち合わせている。
伏せられた瞼の合間から垣間見る事が出来る瞳は潤んだすみれ色で、目許には紅が差している。体を上下する毎に、小さな胸が軽く揺れていた。
 ――彼はそんな妻の裸体を、またしても素直に美しいと思っていた。
 妻の細い体にしては強い力を込めているようで、その体が浮き上がると夫の雄が半ばまで抜き出される。しかしすぐに彼女は腰を落とし、
一気に雄を中に埋没させる。その動きが繰り返されていた。
 夫の方も刺激を与えられて平常でいられる訳ではない。それは再び怒張し始め、彼女に更なる刺激を与えているらしい。
 屹立した浅黒い肉体に、白く濁った粘液が絡みついている。度重なる蹂躙に彼女の美しい花弁は無残に散らされていたが、
それを導く側になっていた彼女自身は全く意に介していない様子だった。




「――エヴァ」
 不意にミッターマイヤーが声を発した。短く、溜息を内包したような声だった。
 同時に彼は逞しい腹筋を用いて上体を起こした。そしてその勢いのまま、妻の火照った肌をその腕の中に抱き締める。
 体がより密着した事で刺激されたのか、エヴァンゼリンは眉を寄せる。何かに耐えるように首が緩く振られる。
ミッターマイヤーはその彼女の唇を捕らえた。噛み付くように荒々しく口付ける。ふたりは追い立てられるように激しく舌を絡めた。
 そしてミッターマイヤーは、妻の体を強く抱いた。体を押し付けながら、自らの欲望に従って彼女を強く突き上げる。
彼の衝動は、妻によって呼び起こされていた。冷静さを失う程の法悦感に押し包まれつつも、彼はそれに流される事をよしとした。
 エヴァンゼリンは夫の動きに体を震わせる。その感覚をもっと味わいたくなり、彼女は腕と足をしっかりと夫の体に絡ませた。
 そしてその動きに合わせ、彼女も腰を打ち振る。叫びも吐息も、全て夫の唇と舌に絡め取られていく。上下の粘膜に彼女は夫を感じ、
熱で溶け合うかと錯覚する。
 やがてふたりの動きは頂点に達し、一瞬止まる。そして妻の体が夫の腕の中でゆっくりと弛緩し、体全体ががくりと力をなくした。



 エヴァンゼリンは瞼の向こうに明るさを感じた。それと同時に、彼女は意識を手放していた事を知る。
 うっすらを瞼を上げていくと、天井にある室内灯は消灯されている事に気付く。部屋は暗闇ではなく、簡素な室内灯に
外部からの光が反射している。視線を巡らせ窓の方向にやると、カーテン越しに薄い陽光が感じられた。
 ――朝になっていたのね。とても良く眠ってしまったらしいわ。彼女はそんな事を考える。未だに眠気は消えていないらしく、
うとうととして瞼が重い。彼女の体には疲れが残っているが、それは心地良いものだった。
 その疲れに身を任せ、再び瞼を完全に下ろそうとしたその時、彼女は不意に思い出した。
 ――朝――!?今日は休日じゃないわ!
 慌てて彼女は上体をベッドに起こそうとする。が、その際に腰に鈍い痛みを感じた。思わず動きを中断する。
浮きかけた体を、再びゆっくりとベッドに横たえた。
 彼女は自らが何も纏っていない状態である事に気付いた。と、昨晩の状況をふと思い返す。――顔が赤くなる思いがした。
腰も痛いが、別の場所にも擦れたような鈍痛がある。自分が何をしたか、彼女は脳裏に思い浮かべていた。
 彼女は思わず、シーツに包まって丸くなってしまう。独りで慌てていた彼女だが、隣に居るべき夫が居ない事に、そこでようやく気付いた。
 その時、部屋の扉ががちゃりと開けられた。そこから蜂蜜色の髪が覗く。
「――ああ、起きたか」
 部屋の中に一歩踏み入れたミッターマイヤーは、ベッドに目をやり、そう声を掛けた。彼は軍服のズボンとシャツを着ていて、
手には軍服の上着を提げている。そして片手にはカップが持たれていて、そこからは湯気と共に香ばしいコーヒーの香りが漂ってきていた。
 夫の姿を見て、エヴァンゼリンは顔を上げた。慌てた風に声を上げる。
「ウォルフ、私」
「ああ大丈夫。出勤時間には余裕があるから」
 ミッターマイヤーは笑顔で妻の言葉を遮った。そのまま歩みを進め、ベッドの前に立つ。そこに横たわる妻の体を眺めやった。
「…それより、ついでに淹れたから君も飲むといい」
 そう言って彼は、手の中にあるカップをエヴァンゼリンの前に差し出す。
 エヴァンゼリンはコーヒーが入ったカップにまず視線をやる。次いでにこやかに笑っている夫を見る。彼が着ている軍服の類には
皺ひとつ寄っていない。彼女が昨日のうちに準備していた着替えであるようだった。
 寝過ごす事など滅多にない彼女だったが、こんな事態を引き起こす日があるなら早目に準備しておくに越した事はないと、
事前の自分の行動にほっとする思いだった。
 そしてさり気なく、部屋の壁に掛けられている時計を見る。確かにミッターマイヤーが言うように、普段の出勤時間からも
少し早い時間帯だった。しかしその時間は普通のエヴァンゼリンならば起きていて朝の支度をしているはずだったので、
彼女には何の慰めにもならなかった。
 ともかく彼女は、目の前で湯気を漂わせているコーヒーカップを何時までも無視している訳にはいかなかった。
先程の痛みを思い出し、ゆっくりと体を起こし始めた。どうやら急に体を動かさなければ、痛みは酷く伝わってこないようだった。
違和感は感じるが、痛くはなかった。
 上体を起こしたエヴァンゼリンから、シーツが落ちる。寝ていた際には肩に掛けられていたシーツが、起き上がった事により
オーディンの重力に従い、腰の辺りまでずり下がってしまった。
 彼女は慌ててシーツを掴む。再び肩の辺りに先端を掛けてみるが、上手くいかない。手を離すと再びそれは落ちてしまう。
何度かそれを試してみて、その度に失敗を繰り返す。
 エヴァンゼリンは諦め、シーツを胸に巻きつけた。脇で挟み込み、とりあえず胸から下を隠す事には成功した。
 妻の慌て振りを、ミッターマイヤーはカップを持ったまま見ていた。――昨晩は、自分から裸体を晒したのに。
彼はそう思うが、今の妻からはそんな印象は微塵も感じられなかった。やはり昨晩は特別だったのだろうかと彼は認識する。




「ウォルフ、頂きます」
 彼女の小さな手が、ミッターマイヤーが持つカップに伸びた。彼女は両手でカップを挟み込むように持つ。
夏の朝だが、寝室の空調は効いていたために、ホットコーヒーが入ったカップであっても暑苦しさを感じる事はなかった。
 妻の手がしっかりとカップを受け止めるのを見てから、ミッターマイヤーはその持ち手に絡ませていた指をそっと外した。
俯き加減でカップを顔に近づけていく妻を、彼は見ていた。
 クリーム色の髪が肩から二の腕にかけて、広範囲に広がり掛かっている。その合間から見える素肌は白く美しい。
両手で抱えるように持つカップが妙に大きく見える。彼女はそのカップの縁に、形の良い唇を寄せた。
瞼を伏せてカップを傾ける。
 ミッターマイヤーはこの一連の仕草を、やけに子供じみているように思えた。実際にこの手の仕草は彼女が引き取られてきた当時から
良く見ているもので、歳を取ってからも変わる事はない。
 彼にとってエヴァンゼリンが「妹」であった当時と同じものだし、体型や顔立ち自体もそれ程変化していないのだ。
 そのような少女じみた彼女が妻となり、昨晩はあのような大胆な事をするのだから、世の中は判らない。彼はそう思った。
しかし不快ではない。むしろ、いとおしい。
 ミッターマイヤーは妻がコーヒーを飲む姿を見下ろしながら、自らの髪に手をやった。幾分かは手入れしたつもりらしい、
収まりの悪い蜂蜜色の髪を軽く掻き回しながら言う。
「――俺独りで飲むつもりで淹れたんだが、どうにも加減が判らなくて淹れすぎてしまった。君が起きてなかったら
自分で全部飲まなくてはならなかったよ」
 苦笑しながら夫がそんな風に言うと、妻はにっこりと微笑んだ。
「美味しいですわよ」
「そうかな?君には全く及ばない」
「いえ、本当ですよ」
 エヴァンゼリンのその台詞は本心だった。が、その判断は主観的なものが大きく含まれていた事だろう。それは彼女にとって、
愛する夫が淹れてくれたコーヒーなのだから。愛情こそが調味料となっていた。
 彼女の体内にコーヒーが染み渡る。暖かい液体が、人工的な空調で微かに冷めていた体を温めてゆく。昨晩飲んだ酒の成分も、
ようやく追い出されていくような気がした。
 ――酒?そう言えば昨日飲んだのだったわ。彼女はそれを思い出した。
 酒のせいで昨日、ああいう事をしたのだとすれば、やはり普段飲まないものを飲むのは考え物なのかもしれない。
昨晩も彼女はそう考えたが、今もその考えは変わらなかった。
 軽く座り込んだ格好にすると、下腹部から軽く違和感が伝わってくる。直後ならばともかく、一晩眠った後でも
こんな状況なのだから、昨晩余程――と、そこまでが彼女の考える限界だった。やはり、どうにも恥ずかしい。
 エヴァンゼリンは思考を中断する。カップを口元から軽く離した。夫を見上げる。
「朝食はいかがなさいます?今からでも軽くお作り出来ますけど」
「いいよ。――食堂は朝からやっているから、たまにはそこで食べるとしよう」
 苦笑気味に彼女の夫はそう言う。それを訊き、エヴァンゼリンは膝の上にカップを降ろした。カップの中にはコーヒーが半分程度残っている。
「今朝は起きられなくて…申し訳ありません」
「まあ、たまにはそんな日もあるだろう。君も俺のせいで毎日働き詰めなんだしね」
 そう言って、ミッターマイヤーは腰を屈めた。座り込んでいるエヴァンゼリンに視線を合わせる。覗き込むようにして、彼女の顔を見やった。
「コーヒー、まだ飲める?」
「あ、いえ…」
「じゃあ、淹れた俺が責任持って最後まで片付けよう」
 ミッターマイヤーは再びカップの持ち手に指を絡ませた。そのまま軽く持ち上げる。エヴァンゼリンの手も持って行かれそうになるが、
彼女は慌てて手を剥がした。ミッターマイヤーは身を起こしつつ、そのカップに口をつけ、傾けた。一気に飲み干す。
 エヴァンゼリンはそんな彼を見上げていた。液体を飲み干し動く喉元は逞しく、彼女はそれを魅力に感じた。



 ミッターマイヤーはカップをサイドテーブルに一旦置いた。それから手に持っていた上着を羽織る。銀で彩られた軍服の袖に腕を通す。
「体は大丈夫?」
 夫からの短い質問に、エヴァンゼリンは一瞬口篭った。
「あ…ええ…」
 彼女は要領を得ない答えしか出来なかった。大丈夫であると言えば、嘘になる。しかし、そこまで大事ではない。
それに、痛みを訴える場所が場所であるし、その原因もどうにも恥ずかしい代物である。彼女にはそれを悟られたくはなかった。
 ミッターマイヤーはその返答に対し、一瞬手の動きを止めた。上着の前を閉める作業が中断され、エヴァンゼリンを見やる。
エヴァンゼリンはその視線から逃れるように、俯いた。
「――まあ、今晩こそは俺は遅くなりそうだから。君は俺の事を心配しなくていいよ」
 エヴァンゼリンの耳に、夫の台詞が聞こえてきた。衣擦れの音も再開されている。顔を上げると、夫が上着の着用を終えていた。
彼女にとって、夫の軍服姿は見慣れていた。今となっては彼に一番似合う服となっていた。
「昨日の食器は洗うだけは洗っておいたし、洗濯物も運んでおいたよ。君もここから起きる時にはそれを着るといい」
 そう言ってミッターマイヤーはベッドの上に新しい着替えを置く。エヴァンゼリンは申し訳ない気分になるが、彼は笑うだけだった。
彼としても自分が出来る事はやっただけであり、特別な事をしているつもりではなかった。
 夫のそういう所もエヴァンゼリンは愛していた。何て過ぎた夫なのだろうと思う。
 ふと、ミッターマイヤーを再び眺めやったエヴァンゼリンは、声を上げた。
「――あ、お待ちになって、ウォルフ」
「ん?」
 妻の声にミッターマイヤーは立ち止まる。彼女の方に向き直った。そんな彼にエヴァンゼリンは身を乗り出して言う。
「襟が曲がってますわよ」
「あれ?そう?」
 妻の指摘に彼は小首を傾げる。どうにか視線を降ろして首元を見やろうとするが、彼には胸元までしか見えない。
軽く襟元を掴んでいじってみるが、それを視認出来ない彼には果たして上手く調整出来ているのかは判らなかった。
「直して差し上げます」
 エヴァンゼリンの呼び掛けに、ミッターマイヤーは歩み寄った。再び腰を屈め、彼女に視線を合わせる。軽く胸だけを突き出すようにする。
 エヴァンゼリンの両手が彼の襟元に伸び、細い指が絡むように掴む。襟に指が添えられ、なぞるように首元を整える。
彼女は真面目な顔をして、夫の襟元を眺めていた。ミッターマイヤーはそんな彼女の顔を見ている。
 やがて、満足したエヴァンゼリンが指を離した。大丈夫な旨を夫に継げ、微笑んで視線を上げた。そこには夫の顔があり、
彼もまた笑顔を浮かべている。
 視線を合わせたからか、ミッターマイヤーは短く声を上げて笑い、妻の頬に掛かるクリーム色の髪を摘んだ。
それを摘み上げて避け、彼は妻の頬に口付ける。暖かい感触が、妻に伝わった。
 短く口付けた後、ミッターマイヤーは顔を離した。彼女の肩にそれぞれ手を乗せる。外気に触れて少し冷たくなっていた彼女の肌には、
その手は暖かかった。彼の手に、妻の髪が絡み付く。それを軽く掻き上げてやり、その体を軽く抱いた。
「じゃあ、行ってくる」
 ミッターマイヤーは妻の顔を軽く胸に押し付け、そう告げた。
 エヴァンゼリンは銀に彩られた軍服の胸に頬を軽く寄せていた。その向こう側から微かながらも確かに聞こえる鼓動に、
彼女は幸せを感じていた。胸元に手を這わせ、そっと顔を引き剥がす。微笑みを浮かべ、彼女は夫に言った。
「はい、行ってらっしゃいませ」
 別れを想起させるこの手の台詞に、昨晩彼女は心を乱された。それが全ての始まりだったはずだった。しかし、
今の彼女はこの台詞を普通に受け流すことが出来た。
 彼女もそれに気付く。しかし昨晩の異変は、おそらく酒に酔ったせいなのだと思った。それに――今は、満たされているはずだ。
昨晩、あのような事をしたのだから。
 軽く手を挙げ、笑顔を浮かべたままの夫は扉の向こうに消えていく。エヴァンゼリンはそれを見送り、再びベッドに横になった。
シーツを肩まで被る。どうにも体が疲れている。もう少し、眠ろうと思った。





 士官専用の食堂もまた、朝食を求める士官のために朝から開いている。
 もっとも、官舎やその付近にも軍人のための店は数多く存在するために、この食堂を利用する人間はそう多くはない。
せいぜい夜勤の軍人がそのままここで朝食を摂ったりする程度の利用が、多数を占めていた。
 軍務省内にある食堂のために厳密には客商売ではないので、利用者が少なくても食堂の経営には影響はないらしい。
そのため、数少ない利用者にはありがたい店であり続けていた
 ミッターマイヤーはこの食堂を朝から利用する事は稀だった。結婚した後は勿論、結婚前も実家から通勤していた時期には、
エヴァンゼリンの朝食を得る事が出来たからである。
 士官専用の店であるからには、出される食事もそれなりの味であった。しかし、彼にとってはエヴァンゼリンの料理こそが最高だった。
 今朝、久々に彼は朝からこの食堂に足を踏み入れた。月末だからか泊まり込みの軍人も普段よりも多いらしく、
客もちらほら見受けられる。しかし混んではいない。彼は適当なテーブルにつき、適当なセットを注文した。
「――ほう、卿がこの食堂に来るとは珍しい事だ」
 不意に、彼の頭上から声がした。訊き慣れた声である。
 彼は視線を上げた。そこには彼が見慣れた金銀妖瞳を持つ青年の顔があった。
「ロイエンタール!」
「よう」
 ふたりは軽く手を上げて挨拶を交わす。ミッターマイヤーは自然に相席を勧め、ロイエンタールも自然にそれに従った。
向かい合わせになる椅子を引き、そこに長身を沈める。注文を取りに来たウェイターに対し、ミッターマイヤーと同じ食事を注文した。
「卿こそどうした。早いな」
 ウェイターが去った事で一段落し、ミッターマイヤーはロイエンタールに話を向ける。
 普段のロイエンタールはそれ程早く出勤する事はないし、彼はオーディンに邸宅を持ち使用人が常時詰めている。
ミッターマイヤーとは別の理由で、彼は自宅で朝食を摂る事が出来る人間であった。その彼がどうして今、ここに居るのかが
ミッターマイヤーには謎だった。
 親友からの問いに、ロイエンタールは唇を歪めて笑う。その笑みを見て、ミッターマイヤーは悪い予感がした。
親友がこの手の笑みを浮かべる際には、偽悪的な言動が多い。
「卿はともかく、俺は遅いのだ。何せ朝帰りなのでな」
「………ああ、そうなのか」
 果たしてロイエンタールが両手を広げて言った台詞に、ミッターマイヤーはげんなりしてしまった。
 つまりは、そういう事なのである。
 彼は親友が漁色家と揶揄されるまでに女性関係に甚だ乱れている事は長年の付き合いで判っていた。それを意識的に
止めようとはしないが、やんわりと忠告する程度の事はしてきていた。
 今日の場合、昨晩あれ程までに夫婦として満たされてきた気分が、今の発言で打ち消されてしまった気がした。
ミッターマイヤーは妙に疲れを感じる。
「…女性の所に居たのなら、朝食位出るだろうに…」
 彼はげんなりとした気分のまま、ロイエンタールにそう言った。しかし、ロイエンタールは笑みを浮かべたままである。
更には、こんな会話が続いた。
「いや、流石に俺は振った女の家で食事できる程、厚顔無恥ではないよ」
「振った女性の家に泊まるのは、厚顔無恥じゃないのか」
「何、振ったのが朝起きてからでな」
 つくづく自分勝手な男だ――ミッターマイヤーは内心そう思う。しかし、それを口に出す事はしなかった。
 どうも、この男はそう言われたくて仕方がなくて、こんな偽悪的な態度を晒しているのではないかと、ミッターマイヤーには
思わせていたからだった。だとしたら、望み通りの対応はしないでおこうと、彼は思ったのだった。




 目の前の蜂蜜色の髪をした男が黙り込んでしまっているのを、ロイエンタールは眺めていた。そしてテーブルに腕をつき、口を開く。
「俺の事はどうでもいい。――卿こそ、どうしたのだ。奥方の機嫌でも損ねたか?」
 興味津々と言わんばかりの金銀妖瞳がミッターマイヤーを眺めやる。当のミッターマイヤーは「卿と一緒にするな」に
類する台詞をそのまま飲み込み、腕を組んだ。
「そうじゃない。彼女が起きられなかった」
 その台詞に、ロイエンタールは軽く首を傾げた。顎に手をやり、真面目な顔をして言った。
「そうか。奥方もお疲れなのだな」
「俺のせいで結構大変な目に遭わせてるからなあ…」
 ミッターマイヤーの顔に苦笑が浮かぶ。最前線への赴任も多いし、休日も不定期だ。自分だけならともかく、妻もその予定に
合わせて生活を組み立てなくてはならない。その労力たるや如何ばかりかと、夫たる彼は心配している。
 きっと、今朝はそれが出てしまったのだろう。昨晩酒を飲んだ事もあり、ぐっすり眠れてしまったのだろう。彼はそう思っていた。
 と、そんな彼の思いをよそに、ロイエンタールが口を開いた。相変わらず、真面目な顔をしたままの発言である。
「全くそうなのだろうな。卿は昨晩、奥方を余程大変な目に遭わせたのだ」
 一瞬、ミッターマイヤーは何を言われたのか判らなかった。
 が、その台詞を脳内で反芻していくと、内に秘めた内容が彼にも判ってくる。それに伴い、彼の顔が見る見る赤くなっていった。
「………何故そうなる!?」
 思わず彼は大声を出してしまう。顔を上げ、ロイエンタールを見やって叫んだ台詞だった。それに周りのテーブルも反応する。
両手で数え切れる程度の客が、ふたりの大佐がついているテーブルを視界に入れる。
 相席した男に声を荒げられたロイエンタールは、淡々としたままだった。顎にやった手が頬に動き、頬杖をついて親友を見上げる。
「何故と言われても…女が朝起きられないとなると、俺にはそうとしか思えぬのだが」
「卿なあ…」
 ミッターマイヤーはまたしてもげんなりしてしまった。この親友が女性に対して著しい偏見を抱いているのも、良く判っているつもりだった。
しかし、自分の妻に対してまで、そんな事を思われてはたまらなかった。
 一方で、ミッターマイヤーとしてもエヴァンゼリンは「大変な目に遭わせた」自覚がない訳ではなかった。

何せ普段やらない事をしたのである。
 妻から迫られるという経験は、彼にも普段とは違った欲望を抱かせるに充分であった。普段以上に燃え上がった気が彼にもしないでもない。
 自らの上に跨り欲情に任せて腰を振る妻の姿を思い返すと、彼は今でも平静ではいられない。おそらく、その際には
もっと凄い事になっていたのだろう。身を起こした後は、彼自身も欲情に流されて突き上げ続けたに違いない――そう思い、反省する。



「――…昨日は何かが違ったんだよなあ…」
 ミッターマイヤーの口から、独り言としてそんな言葉がついて出た。瞼を伏せ、眉を寄せて腕を組み変える。
訳が判らないと言った風情で、首を捻った。
 そんな彼に、ロイエンタールが声を掛けた。軽く手でミッターマイヤーを差し示す。
「昨日、俺は酒を渡したが、奥方はそれを飲んだのか?」
「ああ…そうか、酒が入ったのが大きいんだろうな」
 ミッターマイヤーは昨晩の出来事を脳内で思い返す。――最初にはそれがあった。あのフルーツワインを開けて
エヴァンゼリンに飲ませ、そうしたら彼女が酔って潰れてしまい、寝室に運んでいったのだった。
 飲酒が彼女の感情を露にしたのかもしれない。彼はそう納得した。独りで軽く頷いてみせる。
 その仕草に、ロイエンタールは怪訝そうな顔をした。形のよい眉を軽く寄せた。
「…何だ。気付いていないのか」
「……何に?」
 ロイエンタールの、一種の不服そうな顔に、ミッターマイヤーはきょとんとした。親友が何を言わんとしているのか、判らなかった。
 ミッターマイヤーのその表情を、ロイエンタールは真正面から受け止めた。軽く溜息をつく。そして、言った。
「あの酒、催淫剤入りだったんだが」
「へえ………――って、ちょっと待ておい!」
 ミッターマイヤーはそんな単語を聞くのが初めてだったために、一瞬軽く受け流しかけた。が、流石に気付き、慌てて反応を返した。
「何だ?俺は卿と奥方とに素晴らしい夜の営みを提供するつもりで、色々と苦労したのだぞ?」
 そこから先には、あの「フルーツワイン」に関するロイエンタールの解説が続いた。
 曰く、フルーツワインに混ぜても味が変わらない催淫剤を探すのにまず苦労する。更にはそこから習慣性が
少しでも存在する催淫剤を全て排除した。その後には適当な薬剤の配分を考え、ワインのサイズを考えた。
 無論、ワイン自体にも妥協は許さず、かなりの高級品を見つけて来た――。
 ロイエンタールは漁色家ではあるが、普段付き合う女性には薬剤を使用しないために経験則はない。全てが
手探りの中、真剣に取り組んだ「一大事業」であったらしい。とりあえず、彼は真顔でそう言った解説をした。

 一方、解説された側のミッターマイヤーであるが、蜂蜜色の頭を抱えていた。俯き、無言のまま、親友の語りを訊いていた。
 まるで普段の作戦立案のように、淡々とした、それでいて熱の篭もった語り口である。おそらくは、親友は
本気で彼の事を想って、この「プレゼント」を考えたのだろう。
 それはミッターマイヤーにも身に染みて判っていた。一部斜に構えた所はあるが、仕事には真面目に取り組む男である。
その真面目な態度のまま、こんな事をしでかしてくれたのは痛いほど判った。
 が、その「しでかしてくれた」と言う表現こそが、彼にとっては適切以外の何物でもない。
 ロイエンタールが彼の親友であり、真面目な人間である事は判っていた。判ってはいたが――。
「……この……――が」
 俯いたままのミッターマイヤーの口から、声が漏れた。押し殺したような声であった。頭を抱える手が微かに震えている。
「ん?どうかしたか?」
 長い語りを終えたロイエンタールがミッターマイヤーに呼びかける。その口元には笑みが浮かんでいた。
ある種、爽やかな笑みである。おそらくは彼を知る人間にとって、それは何故か嘘臭さを思わせるような爽やかな笑みであった。
 ロイエンタールは自分がやった事が良い事であると疑ってはいない。だからこそ、偽悪的な態度を振りまく普段とは違い、
爽やかに笑う事が出来るのだった。
 そんな爽やかな笑みは、普段のロイエンタールを心配しているミッターマイヤーが見たくて仕方がない代物だっただろう。
しかし今のミッターマイヤーには、そんな余裕はなかった。
 むしろ、耳元に届いた声がやけに爽やかであった事が、ミッターマイヤーの中で何かをぶち切る結果となった。

「――…この外道がああああああああああああああああああああ!!」





"――私はその朝、夜勤明けであり、士官専用の食堂で朝食を摂っている所だった。
 そこに、唐突にそのような物騒な叫び声が響いたのだ。無論、私だけではなく、数少ない食堂利用者達もその声に反応していた。
 叫び声に次いで、物音がした。私が視線をやった頃には、そのテーブルが引っくり返っていた。その脇に肩で息をしている軍人が一人。
そしてテーブルに隠れて良く見えないが、彼の足元から何やら声がしていた。どうやら彼は、同席者を殴り倒したらしい。
 何やら会話を交わしているが、殴り倒された側もそれ程ダメージを受けていないらしい。やがて立ち上がると、
私はふたりの上背の違いに少々驚いた。
 と同時にふたりの階級を軍服で確認できる。大佐同士の喧嘩である。穏やかではない。
 殴り合いが激発しそうであったが、店の主人がやんわりと割って入った事で、どうやら終結に向かいそうであった――。"

      ――ナイトハルト・ミュラーのゴシップネタ帳より





番外編「鉄壁ゴシップネタ帳より」


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