疾風夫婦ネタ ◆dZQtv7lHHw(3-262)さん





 エヴァンゼリン・ミッターマイヤーに職場の夫からヴィジフォンが掛かってくる事は、そう珍しい事ではない。
その時間帯が夕方なのも有り触れている。
 しかし、今日はその内容が正反対だった。
 夫から夕方にヴィジフォンが掛かってきた際、彼女は反射的に落ち込んでしまう。
 何故ならいつも「今日は帰りが遅くなるよ。食事もここで済ませるし俺の帰りを待たずに寝てくれて構わないよ」
…そんな事を申し訳なさそうな顔をして、妻に言うのが常だからだ。だから今日も、彼女はそれを想定していた。
 しかし、違ったのだ。
 今回、彼は「9時頃には帰れそうだから、良かったら食事を作っておいてくれないかな?いや、君は食事済ませて
くれてていいんだけど」と妻に告げたのだ。
 が、普段のヴィジフォンとは内容が正反対なのに、彼は相変わらず申し訳なさそうな顔をしていた。それが、妻には不思議でならない。
 エヴァンゼリンは夫からの申し出に頷いた。そしてヴィジフォンが切れた後、小躍りしてしまった。それは
彼女の夫が言う「燕のように軽やかな舞」だった。



 きっかり9時に、その一軒家のチャイムが鳴る。エヴァンゼリンはその音を聴くと、キッチンから駆け出した。
玄関先に着き、簡単な鍵を開け、次いで扉を開けると、そこには彼女の夫が立っていた。
「――ただいま、エヴァ」
「おかえりなさいませ、ウォルフ」
 挨拶をしながらウォルフガング・ミッターマイヤーは僅かに屈み込み、妻の頬に軽く口付けた。
 顔や体が近付いた事で、エヴァンゼリンには夫から微かに漂う汗の匂いが感じられた。軍務省は空調が効いているために
汗ばむ事はない。おそらくは帰宅するまでに汗をかいたのだろうと妻は思う。現在は8月であり、オーディンの季節は夏であった。
 見ず知らずの男性の匂いなど近くで感じたくはないものであろうが、エヴァンゼリンにとって夫は例外だった。
ともあれ彼の口付けはすぐに終わり、顔が上がる。妻の肩に片手を置き、覗き込む瞳は柔和なグレーだった。
「遅いのに、すまないな」
 そして彼はヴィジフォンの時のようにまた申し訳なさそうな顔をする。その夫の態度に、妻はにっこりと微笑んで見上げた。
「まだ9時ですわ。今から食事と言う家庭もままあるでしょう」
「…もしかしたら、君も食べてないのかい?」
 妻の台詞に夫は驚いていた。ヴィジフォンで先に食事をしておくように勧めておいたというのに、自分の都合で振り回してしまったのだと思った。
 エヴァンゼリンは肩に置かれた彼の手に、そっと触れる。それは彼女よりも一回り大きくて暖かかった。
「ええ。折角ですから御一緒したくて」
 すみれ色の瞳が夫を真っ直ぐに見上げ、にこやかに微笑む。その笑顔に夫は少しはにかんだ。そして彼女の肩を軽く撫で、手を離す。
「…あ、ごめん。俺、先にシャワー浴びてもいいかな。歩いて帰ったら結構暑くって」
 苦笑気味に彼は言い、もう片方の手に持っていた鞄を持ち直した。それを合図にするかのように、彼は玄関から屋内へ歩みを進める。
「構いませんわよ」
 妻は当然のように歩調を合わせ、彼の隣を歩いた。



 「エヴァンゼリンの料理は極上だ」と、ミッターマイヤーは酒の席で隙あらば親友に自慢する事が少なくない。
 無論、結婚以前の同居も7年を数えるだけあり、彼女が彼の味の好みを把握しているのも大きいだろう。しかし、
彼としてはそれを差し引いても、妻の料理はどんな高級ホテルで用意されたものにも負けないと信じている。
 が、彼は食卓を見た時に、既に気付いていた事があった。
「――そう言えば、今日は少し豪華じゃないかな」
「お判りになりまして?」
「俺の誕生日だから?」
 夫の何気ない指摘に、妻は一瞬動きが止まる。
「…覚えてらしたのですね」
「忘れてると思ったかい?」
「ええ、出勤される時には何もおっしゃいませんでしたから」
 相変わらずにこにこと微笑を浮かべて言うエヴァンゼリンに、ミッターマイヤーは苦笑して自らの髪をかき回した。
――君には敵わないなあ。そんな台詞を口にする。
 そして彼は足元に持ってきていた紙袋を持ち上げた。それは妻は出勤時には見かけていなかった物である。
「まあ、俺もあいつにこれを貰うまでは、自分の誕生日なんかすっかり忘れてたんだけどさ」
 そう言って彼は紙袋をエヴァンゼリンに手渡した。妻の手に、少々重さを感じる袋が持たされる。彼女は上から中を覗き込む。
どうやら中に入っているのは、箱状のものであるらしい。
 それを確認し、彼女は視線を袋の中から上げた。夫の顔に視線を戻す。
「――…ロイエンタール大佐からですか?」
「そうなんだ」
 妻は夫が言う「あいつ」とは誰かという事をすぐに把握し、夫もそれを当然だと思っている。それが彼らの関係であった。
 エヴァンゼリンはミッターマイヤーの頷きにより、その紙袋から丁寧に箱を取り出した。長方形状の箱であり、
中身からはそれなりの重さを感じる。彼女は「夫の友人から頂いた物」と言う事で、努めて丁寧にその箱を開封する。
 中から出てきたものは、ワインだった。


 彼女は酒の事を全く知らないために、それにどのような価値があるものかは判らない。しかし箱の立派さなどを鑑みると、
ある程度は高価な物ではないかと判断した。
 しかし、普段このふたりの大佐がやり取りする酒類にしては、これがミニボトルである事が意外でならない。
 彼女は夫と結婚して1年だが、夫が出征する日々が続き同居の期間はそれ程長くはない。そして未だに彼女は
そのオスカー・フォン・ロイエンタールと言う人物と直に接した事はなかった。
 ミッターマイヤーがその人物を親友と呼んで憚る事はなく、酒を共にしている事は知っている。が、その酒盛りの舞台は
戦場以外では専ら酒場やロイエンタール邸であり、ミッターマイヤーがロイエンタールを自宅に招いた事はなかった。
 しかしながら、ミッターマイヤーは自宅で独りで酒を嗜む事もある。その際、最低でもワインは、フルボトルで1瓶は消費される。
独りでこうなのだから、ふたりで飲む時は如何ばかりかと、彼女は思いを巡らせていた。
 そして「独りでの酒の状況」を、親友たる人間が想像出来ない訳がないと――つまりは、こんなミニボトルでは彼女の夫は
酔いも楽しみも出来ないだろうと、彼女は踏んだのだ。
 そんな彼女の思いを知ってか知らずか、ミッターマイヤーはにっこりと微笑んだ。
「フルーツワインだ。多分、甘くてさっぱりしている味だと思う」
「…そうなんですか?」
 彼女は両手でミニボトルを持ったまま、そう言う。彼女には酒の事は全く判らない。ボトルの首と底にそれぞれ手を当てて
持つ事すら、持て余し気味だった。
 ――ともかく頂いたのだから、早くお注ぎした方がいいのかしら?いや、食事しているうちに少しは冷やした方が美味しいのかも…
そんな事を考えている。
 そんな彼女に、ミッターマイヤーは続けた。相変わらず、微笑んだままだった。
「あいつが、君に――だって」
「………え?」
 エヴァンゼリンは夫が言った台詞を理解するのに数秒掛かり、更にそれを理解した後にも当惑が意識を支配していた。
 ――何故、ロイエンタール大佐が私に?しかも、ウォルフが言うには御自分の誕生日をこのプレゼントで知らされたとの事だから…
彼にとってこれはウォルフの誕生日プレゼントではなかったの?それなのに、何故――?
 そんな疑問が彼女の脳裏に浮かんでは消えていく。その状況を夫も見て取ったのだろう。笑みが苦笑に変わった。
「あいつが言うにはさ、君と一緒に酒でも飲めって」
「…私とですか?」
「ああ。――全くあいつと来たら…"自宅では奥方を交えずに酒を飲んでいるとするなら、その分の時間を奥方を共有出来ていないのを
惜しいとは思わぬのか?" と言って、それを押し付けてくれたよ」
 ミッターマイヤーは苦笑を浮かべ、両手を挙げてミニボトルの経緯を述べた。彼の脳裏にこの夕方の情景が浮かぶ。
 ――月末間近で決済書類に埋もれた彼を発掘するようにして、親友はその紙袋を手渡したのだった。いつもながらの
皮肉めいた口調とその視線も思い起こされる。



「……そうなのですか」
 一方のエヴァンゼリンはそれだけ言って沈黙した。俯き加減になり、ミニボトルを手の中に持て余す。彼女の白い指が
ボトルの腹のラベルの辺りを所在なげに撫で回している。家事を人並み以上にこなす立派な妻であるにも拘らず、
その手と指は客観的に見ても美しいものだった。
 ミッターマイヤーも妻の様子に気付いた。――どうも、独りで浮かれていやしないか俺は?彼女の所在なげな姿に気付いた
彼の頭にそんな思いが一瞬よぎる。
 が、ふと彼女の指の仕草に眼が留まる。白く美しい指が濃く深い赤色のワインボトルを撫でている姿がそこにある。
 次いで視線を上げていくと、家事をし易いようなゆったりとした服に包まれた細身の体があり、更にはうなじに掛かる
クリーム色のくせっ毛が視界に入る。俯いた事で長い髪が顔に掛かってしまっているが、そこから節目がちな瞳と
少女のような桜色の形のいい唇も垣間見えた。
 実際の時間にしてみたら、ミッターマイヤーが彼女の妻に眼を奪われていたのはほんの数秒の事だった。
しかし彼が再び我に返った時、彼はそれを数分にも感じていた。
 その長い時間を妻に費やした事に対し、彼は思わず赤面する。明らかに何かが違った目で彼女を見てしまった自分を恥じた。
 彼にとって幸いなのか、妻は未だに俯いたままである。数秒と言う実質的には短い時間だったのも手伝い、
どうやら彼の様子には気付いていないようである。
 ミッターマイヤーは軽く顔を左右に振った。シャワーを浴びたばかりで生乾きの蜂蜜色の前髪が、彼の視界を顔を振った回数だけ横切る。
「ま、俺もあいつが言う事は一理あるかなと思うよ。君もたまには飲むといい」
 ミッターマイヤーが出したのは、誤魔化すような、不自然なまでに明るい声だった。しかし彼の台詞に嘘はなかった。
親友が言う"奥方と一緒に過ごす時間"を彼は望んでいたし、一度は妻と酒を共に嗜んでもみたかった。
 当のエヴァンゼリンは、顔をゆっくりと上げた。夫程ではないが癖のある髪が、彼女の顔に掛かり、落ちる。
眼を細め、口元を綻ばせて彼女は言った。
「――…つまり、ロイエンタール大佐は、ウォルフに素晴らしいプレゼントを下さったおつもりなのですね」
「ん?」
 ミッターマイヤーは彼女の台詞に視線を上げた。妻の顔を見る。料理が並ぶテーブルだが、そこから僅かに身を乗り出すようにして、
彼女の顔に出来る限り顔を近づけようとした。
 エヴァンゼリンは夫の視線を拒まなかった。そっとワインボトルを胸に寄せ、大切なものを抱きしめるようにする。
そして彼女は夫を見た。小さな唇が優しい言葉を紡ぎ出す。
「私はあなたと一緒に過ごす時間が愛しいし、素晴らしいものだと思っています。――あなたもそう思って下さるのならば、良いのですが」
「勿論だよ」
 当然のようにミッターマイヤーは笑った。そこにあるのは、親友が言う所の「気持ちのいい笑顔」と言う物だった。
そしてエヴァンゼリンもまた、この微笑に魅せられてこの夫からの求婚を受けたのだった。
「………良い方ですね。ロイエンタール大佐は。そのうちにお礼をしたいです」
「これもいい機会だ、そのうちにあいつを誘うよ。――君の料理は絶品だって前から言ってあるから、実際に食べさせてやりたい」
 ミッターマイヤーは頷いた。――ロイエンタールがミッターマイヤー邸での酒の招待を口実をつけて拒む理由を、
ミッターマイヤーには何となく判るような気がしていた。しかし、何時かは妻を紹介してやりたいとも思っていた。
 それならば、自分の側にも何らかの口実があればいいのだ。「プレゼントのお礼」とは、何と適切な口実だろうか。
そして、そこまで正当な口実があって尚、招待を拒むような親友ではないとも気付いていた。ある意味義理堅い男だと、
彼は親友に対して確信している。
 エヴァンゼリンは夫に勝るとも劣らない、「相手の気持ちを和ませる笑み」を浮かべた。
「私もその際には、ロイエンタール大佐のために、腕を振るおうと思います」
「いや、普段通りでいいよ。それで充分美味しいんだから」
 妻の台詞に夫は相好を崩した。
 ともあれ、夫婦の会話はそこで一旦打ち切られた。彼らの眼前のテーブルには、未だ手付かずの料理が広がっており、
これ以上続けていては冷めてくる恐れがあった。それに、仕事を終えて帰宅した夫は勿論、妻もそれなりに空腹だったのだ。
 ひとまず夫の親友からのプレゼントのワインは冷やされ、今は妻が用意していたワインが夫のために開けられる事となった。


遅い時間ながらも、和やかに夫婦の食事は進んでいき、一段落する。
 ミッターマイヤーは今現在口にしている料理が如何に素晴らしいものか、自分にとって嬉しい事か、それを調理してくれた
エヴァンゼリンに対して楽しげに語る。そしてエヴァンゼリンはその評価に対して気恥ずかしさと共に、嬉しさと微かな誇らしさをも感じていた。
 テーブルの上の料理がある程度片付いた段階で、先程のミニボトルのワインが冷蔵庫から再登場した。それは食事の間に程好く冷やされていた。
 ミッターマイヤーが慣れた手付きでそのワインの栓を抜く。彼は既に妻が用意してくれていた赤ワインを1本開けていた。
しかしその手付きからは酔いが全く感じられない。
 ワインの栓が抜けると、途端にその口から微かな香りが漂ってくる。それは甘く、それでいてさっぱりとした香りで、
それとなくそのワインの質の高さが伝わってくる。
「――ほら、エヴァ」
 親友から酒を貰った事、その親友が少しは妻を気にかけていてくれた事、酒を妻と楽しめる事――それらが余程嬉しいらしい。
 ミッターマイヤーは本当に楽しそうに笑いながら、妻にワイングラスを渡す。細身のグラスで、エヴァンゼリンの手には
丁度いい大きさであるように思えた。
 エヴァンゼリンは少し戸惑ったものの、夫の手からグラスを受け取った。困ったような微笑を浮かべ、感触を確かめるように
グラスを軽く何度か傾けてみる。そして夫に対してにっこりと笑いかけ、グラスを差し出した。
 ふたりの視線が合う。すると、どちらからともなく顔を傾けて、少し声を出して笑った。逆の立場は良くあるのだが、
夫が妻に酒を注ぐという行為はこの夫婦には初めての事である。普段やらない事をやるからか、何となく気恥ずかしかったのだった。
「…えーと、注ぐよ」
「はい」
 少し笑った後、夫がそう言い、妻は頷く。その間もふたりは笑っていた。注がれていくワインの香りがふたりの間に漂っていく。



 そしてエヴァンゼリンはグラスの半ばまで注がれたワインをじっと見ていた。彼女は酒類を殆ど飲んだ事がない。
彼女にとって酒とは夫が飲むものであり、或いは料理に使うためのものであった。だから今のこの状況は、彼女にとって馴染みがない。
 ワインを透かして向こう側を見ると、彼女の夫が微笑んで見ている。それに気付いたエヴァンゼリンは苦笑してしまう。
 漂ってくる香りにはアルコール特有の匂いが含まれている。しかし果物らしき爽やかな甘い匂いは、彼女が嫌いなものではなかった。
 少しどきどきしながらもグラスに口をつけ、傾けてみる。彼女は中の液体を軽く口に含んだ。香りと同じく、アルコールの風味と同時に
果物の甘さらしき味が口の中に広がる。アルコールはそれ程きつく感じられず、ジュースのようなものとして飲む事が出来そうだった。
 彼女はそれを一口飲んでみた。さっぱりとした風味が喉を伝わっていく。
「…どう?」
 彼女の喉が動くのを見届けて、ミッターマイヤーは感想を訊く。エヴァンゼリンは彼の顔を見やる。どうも、不安がっている様子だった。
「…え…その…――美味しいですわよ」
「――それは良かった!」
 ミッターマイヤーは軽く手を叩き、そう叫んだ。顔には満面の笑みが浮かんでいる。そのワインは彼自身がプレゼントしたかのような喜びようである。
 彼としては、親友が渡すようなワインなのだからその質を心配してはいなかった。が、万が一と言う事もある――
そう思い、万が一妻の口にワインが合わないと言う事態を心配していたのだった。
 しかしどうやら妻はそのワインを美味しいと言い、それも本心からであると思われた。だから彼は安堵したのだった。
 その夫の心情は、妻にも良く判っていた。だから、それを微笑ましいと思った。
 エヴァンゼリンの胃まで下りたらしい液体が微妙な熱を持っている。だからそれは紛れもない酒なのだろうが、
口当たりはとてもいい酒だった。彼女はグラスから口を離し、下ろした。夫の顔を見て言う。
「私はお酒の事は良く判りませんが、このお酒は飲み易くて助かります」
「そうか。――あいつは本当に気遣いが上手い奴だなあ…」
「明日お会いになったら、私に替わってロイエンタール大佐にお礼を申し上げて頂けますか?」
 エヴァンゼリンの申し出に、ミッターマイヤーは頷いた。そして自分のグラスを傾ける。彼が消費している
赤ワインは、そのグラスに残っているだけで終了だった。酒量としては普通の晩酌だった。
 再びグラスから一口飲みつつそれを見ていたエヴァンゼリンは、不意に自分のグラスを夫に差し出した。
「あなたもいかがですか?」
「…え?俺?」
 妻の台詞に、夫は戸惑う。微笑む彼女の顔と、その前のグラス、そしてグラスの中で揺らめく液体を見比べるように眺めやる。
妻は酒に慣れていないだけあってか、既に頬が軽く色付いている。彼が彼女のそんな顔を見るのは初めてだった。


「いや、それは君のワインだから」
 ミッターマイヤーは妻の申し出を固辞しようとした。片手を挙げて掌をそっと前に突き出し、彼女のグラスを押し留める
仕草をしてみせた。直接グラスに掌が当たっている訳ではないが、エヴァンゼリン側からはグラス越しの視界全てが大きな掌で覆われていた。
 が、エヴァンゼリンは尚も微笑を浮かべていた。グラスをその場で軽く揺らす。
「一口なら宜しいでしょう」
「悪いよ。それはロイエンタールが君にあげたものなのだから」
「彼にお礼を言うからには、あなたも味見をしておくべきではないですか?」
「………それは、否定できないな」
 固辞してきていたミッターマイヤーも、エヴァンゼリンの論拠に対して遂に陥落した。――物腰柔らかでにこやかだけど、
筋は曲げない。こういう所が敵わないなと、彼は思う。しかしそれは常々と同じく、悪い気分を引き起こすものではなかった。
「じゃあ、喜んで御相伴に預かるよ」
 そう言ってミッターマイヤーは笑った。今まで固辞の意思表示を表していた片手をそのまま伸ばした。グラスを持つ妻の手に、
自らのその手を上から重ねる。
 エヴァンゼリンにとっては、自分より体温が僅かに高く、自分よりも一回り大きな掌が重ねられてきていた。
手の甲から感じられる感触に彼女は何故かどきりとした。
 彼女の夫はそんな心情を知らないまま、重ねた手をそっと引く。エヴァンゼリンの手ごと、ワイングラスを少しだけ
自分の側に引き寄せた。ミッターマイヤーはもう片方の手をテーブルに突き、軽く腰を浮かせる。身を乗り出して顔をグラスに近づけた。
 妻の手に自らの手を重ねたまま、グラスを傾ける。彼は妻の眼前で、勧められたワインを口にした。
 彼の口はすぐにグラスから離れる。重ねた手から力をそっと抜き、妻の手を引くのを止めた。しかし腰は浮かせたままで、
体を乗り出した格好のまま、彼はエヴァンゼリンの顔を覗き込む。
「――うん、さっぱりしてて飲み易そうだね。あいつは本当に酒の選び方が上手い」
 ミッターマイヤーは先程口にした飲み物に対してそう論評した。普段から酒を飲み慣れている彼にとってはそれは
果物ジュースのレベルでしかなかったが、飲み慣れていない妻には丁度いいアルコール分であるように、彼には思われた。
 と、彼は妻がグラスを手にしたまま何も言わない事に気付いた。彼女は頬を微かに赤く染め上げ、何やら惚けていた。
客観的に心ここにあらずと言う印象を与える表情だろう。



「…エヴァ、どうかしたかい?」
「――え?いえ、何も…」
 ミッターマイヤーの呼び掛けに、エヴァンゼリンは反応した。取り繕うように微笑む。
「あなたにもこのお酒が素晴らしいものに思えるなら、本当にそうなのでしょう」
 そう言って彼女はにっこりと笑い、グラスの中の液体を飲んだ。が、彼女の内心は何故だかどぎまぎしていた。
――まさかウォルフの顔に見とれていたなんて、そんな恥ずかしい事言える訳がないじゃない。そんな思いがよぎっていた。
「ロイエンタール大佐は私達の事を良く理解されているのですね」
「…そうなのかもしれないな」
 内面の動揺を上手く誤魔化そうとしているエヴァンゼリンの台詞に、ミッターマイヤーは苦笑した。笑いながら鼻の頭を掻く。
「きっと、君へのワインがプレゼントの主体ではなくて、こうやって君と俺が一緒の時間を過ごせるようにしてくれたのが、
あいつなりの俺への誕生日プレゼントのつもり…なんだろうな」
「そうなのでしょうね」
 エヴァンゼリンは笑顔で相槌を打ち、グラスを下ろす。元々グラスの半分程までしか注がれていなかったワインは、既に失われていた。
 それに気付いたミッターマイヤーはミニボトルを手に取り、再び妻のグラスに注ぐ。ミニボトルだけあって量は少なく、
このグラスに最後まで注ぎ切った時点でボトルから液体はなくなってしまうだろう。
 エヴァンゼリンははにかみながら夫に対して軽く会釈をし、グラスに口をつける。何故だか彼女は今、目の前の夫の
「気持ちのいい笑顔」を見るのが気恥ずかしかった。
 これが酒に酔うと言う事なのか、それともこういう気持ちを誤魔化すために酒に酔いたくなるのか――
彼女には良く判らなかったが、結果的にグラスを傾ける事に逃げていた。
 口にしている酒は確かに彼女の口に合うものだったが、彼女にその味を楽しむ余裕はなかった。前述の理由の他にも、
「夫の親友からの贈り物」だから残す訳にはいかないと言う配慮も働き、早目に飲み干そうとしていた。




 どうやら、それが良くなかったらしい。
 グラスから酒が無くなった頃には、エヴァンゼリンは俯き加減になってしまっていた。手にしたままだった空のグラスを
何とかテーブルの上に戻す。そのままだったら床に取り落としていた事だろう。
 彼女は両手をテーブルに突いた。顔を支えるように手で覆う。手に伝わる顔はとても熱いが、その掌自体もかなり
熱を持っているように彼女には思われた。体の中心から鼓動の度に熱が発せられている。
「――エヴァ、酔ったかい?」
 流石に心配そうにミッターマイヤーは声を掛け、自分の席を立つ。
「はい…どうやらそのようです」
 その声にエヴァンゼリンは顔を上げた。夫に対して少しだけ微笑んでみせる。
 慌てて彼は妻の隣に移動する。酒精によって真っ赤に染まった彼女の顔を見下ろした。目元まで赤くなり、その眼は
とろんとしていて微かに潤んでいる。
「普段、君は酒を飲まないからね。それだけで酔うものなのか」
「そうみたいですね…」
 妻は夫の心配そうな顔と声をよそに、再び顔を伏せた。腕で顔を支えようとするが、それすら億劫になってそのまま
ゆっくりとテーブルに突っ伏してしまう。――みっともない。彼女は自分の状態をそう思うが、体が全く言う事を利こうとしなかった。
 ミッターマイヤーは足早にキッチンに行き、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取ってくる。
しっかりと冷えているそれをグラスに注ぎ、妻の前に置いた。力を失っている妻の片手を取り、グラスに指を絡ませる。
妻は怪訝そうに顔を僅かに上げた。
「とりあえず水だけでも飲んで」
 夫の勧め方は真剣そのもので、思考能力が下がっている妻はそれに素直に従った。緩慢に体を動かし、グラスに口をつけた。
口の中に冷たい液体が侵入してくる。
 どうやら体はそれを欲していたらしく、彼女はゆっくりとグラスの中の水を飲み干していった。喉を通過していく水が
彼女の体を冷やしていく。酒による熱が若干奪われたように思えた。
 水がなくなったグラスをミッターマイヤーの手が取り上げる。そして彼はエヴァンゼリンの頬に手を当てた。
彼女の容態を確かめるかのように、顔を近付ける。
 彼の視界に潤んだすみれ色の瞳が映る。桜色の唇から漏れる吐息からは僅かにアルコール分を嗅ぎ取る事が出来た。
もっとも、それ以上のアルコール分を彼自身が摂取している。
「――吐き気があるなら遠慮なく言って」
「…いえ、それはありません」
 間近に迫っている夫の顔に妻は微笑む。確かに吐き気はなかった。単に酒精の熱さに負けただけのようだった。
その顔色は悪くなく、夫も妻が遠慮して嘘をついているようには思えなかった。
「そうか。じゃあ早く眠った方が良さそうだ」
 安堵したように彼は笑い、すっと体を妻から剥がす。妻が座る椅子の前で前傾姿勢を取っていた彼だが、一旦上体を伸ばした。
 が、次の瞬間には腕を彼女の下に差し込んでいた。片腕を彼女の膝の後ろに、もう片腕を背中に掛けて、そのまま力を込める。
彼はあっさりと妻を抱き上げていた。



 あまりにも軽々と抱き抱えられた事にエヴァンゼリンは驚いた。自分の足が床についておらず、宙に浮いている。
彼女にとってこれは結婚式の時位しか記憶にない抱かれ方だった。
 ミッターマイヤーはそのまま歩みを進める。リビングから廊下に出ようとしていた。
「ウォルフ、あの」
「どうかした?」
 戸惑ったような声を上げる妻に対し、ミッターマイヤーはにこやかに笑い掛けた。人ひとりを抱え上げて歩いている状況とは思えない、
普通の態度だった。
「独りで歩けます」
「無理しないでいいよ」
「…重いでしょう?」
「そんな事ないよ。君は軽いし、そもそも俺は軍人だ。将官になれば判らないが、現状ではまだまだ実戦部隊に
籍を置いているんだからね。女性を難なく抱えられる程度には鍛えているよ」
 全ての軍人がここまで鍛えて力があるのかはエヴァンゼリンには確証は持てなかったが、少なくとも自分の夫が
小柄ながらも体操選手のような引き締まった体である事は知っていた。おそらくはバランスよく筋肉がついている体なのだろう。
 とりあえず夫の邪魔はしないようにと彼女は不用意に動かない事にした。大人しく抱き抱えられたままに任せ、夫を見上げる。
 彼は前を見て歩いていた。私服のシャツのためか上のふたつ程度のボタンを外しており、そこから垣間見える首筋と鎖骨は逞しい。
蜂蜜色の前髪が歩く度に微かに揺れる。彼女はそれを見ていた。
 ふと気付いたように夫が視線を下にやる。夫の顔を見ていた妻と、視線が合った。それに対して夫は目を細めて笑う。
グレーの瞳が柔和な色を醸し出した。
 瞬間、エヴァンゼリンは顔が赤くなるのを感じた。心臓が早鐘のように鳴る。落ち着こうと息を大きくついた。
――さっきから、どうかしているわ。彼女はそんな事を思った。
 彼女は自分の事ながら、普段とはどうも心の動きが違うように思えていた。何故かと理由を探すならば、
やはり普段と一番違う事――飲酒にその原因を見出してしまう。普段やらない事をやるのはやはり考え物なのかもしれないと彼女は結論付ける。
 そう思ったものの、彼女の中から動揺が消え去る訳でもない。鼓動は先程よりは遅くなったものの、平常心とは言えない状態を保っている。
 そして水を飲んで少しは冷やしたものの、体は相変わらず火照ったままだった。廊下の外気に触れて少し冷えた自分の服が、
肌に擦れる。それが心地良いような微妙な感触を彼女にもたらしていた。
 彼女が内心の動揺を夫に悟られる事なく分析しているうちに、ミッターマイヤーは寝室の前に辿り着いていた。
そこまでの歩調は全く変わる事がなく、やはり彼にとって妻の体重は大して問題にならない事であったようだった。
 彼は妻の背中を抱いたままの片手で器用に扉のノブを回し、鍵を開ける。そのまま手を離し、肩で扉を押し開けていた。



 ミッターマイヤー家の夫婦の寝室は常日頃綺麗に片付けられている。妻の努力の賜物ではあるが、もう一方の使用者である夫も
整理整頓を心掛けているからなせる業でもあった。
 扉を開けたばかりの室内は、程好く暑い。夜になったとは言え、オーディンの夏の終わりの気温はまだまだ高かった。
ミッターマイヤーがエアコンのスイッチをオンにした事で、おそらくはすぐにそれも冷える事だろう。
 次いで彼は部屋の明かりをつける。暖かい色をした室内灯が、調度類を照らし出す。寝る前であるが、とりあえずは
妻をベッドに横たえるまでは明るさを絞るのは止めようと彼は思った。
「ウォルフ、ごめんなさい」
「いや別に俺は構わないよ。夫婦で気を遣うってのも何だと思うし」
 詫びの言葉を投げかける妻に対して、夫は微笑むだけだった。そのまま歩みを更に数歩進める。綺麗にシーツが張られた
ベッドが前にあった。夫婦揃って小柄であるために、そのダブルベッドは彼らにとって少々広かった。
 ミッターマイヤーは体を曲げる。腕の中のエヴァンゼリンをゆっくりとベッドの上に降ろす。腰と背中の辺りから彼女の体を横たえ、
邪魔にならないように優しく腕から力を抜いた。彼女の体重を受け入れたベッドが微かに軋む。
 ベッドのシーツは夏の気温を含んでいたが、エヴァンゼリンにとっては自分の体温の方が更に高いように思われた。
彼女自らの体と服とシーツの温度の差異は、それぞれが密着した事によってそのうちに解消されるだろう。
 ミッターマイヤーはゆっくりと腕を彼女の体から抜く。そして彼女の足に手を添えた。優しく彼女の靴を脱がせにかかる。
夫の行動に、エヴァンゼリンは慌てた。片腕を突いて上体を浮かせる。
「あなた、自分でやりますから」
「気にしないでいいよ。君は休んでていい」
 笑ってミッターマイヤーはエヴァンゼリンの靴に手を掛けた。軽く力を入れるだけで靴は脱がせられる。エヴァンゼリンは
微妙な圧力から足が解放された事に気持ち良さを感じる。
 結局彼女が押し留める間も無く、ミッターマイヤーは妻の靴を両方とも脱がせてしまった。彼はその靴をベッドの足元の隅にきちんと並べ揃えて置く。
 それから彼は妻の元に戻り、妻のブラウスに手を掛けた。気が楽になるようにと言う観点から、ボタンを上から数個開けてやる。
「気分は今も悪くなっていないかな?」
「はい、大丈夫です」
「なら寝てしまえば、起きた時には酔いも覚めていると思うよ」
 ミッターマイヤーはそう言い、掌で彼女の額を撫でた。その手が離れる間際、額に掛かるクリーム色の髪の一房を額からそっと払う。
そしてその手はそのまま彼女の頬を掠める。熱い頬に触れる別の感触に、エヴァンゼリンは熱い息をついた。
 ミッターマイヤーは妻に笑いかけ、立ち上がった。自らの蜂蜜色の後ろ髪を軽く掴む。
「――じゃあ、俺はちょっと片付けてくる」
「そんな、あなたにそこまでして頂く事は」
「何、洗い物をやっておくだけだよ。何処に片付ければいいかは判らないし」
 妻の言葉に対して彼は苦笑して言う。肩を竦めて両手を挙げる。彼は妻の家事に言葉を挟む事は極力しないが、
手伝う労力は惜しまない夫だった。
「俺の事は気にせずに君は休んでいなさい。――いいね?」
 そう言ってミッターマイヤーは再び屈み込んだ。ベッドに肘を乗せ、横たわる妻の顔を間近で見られるようにする。
至近距離で視線を絡め、眼を細めた。それから彼は顔を上げ、彼女の額に軽く唇を落とした。
 その感触にエヴァンゼリンは震えた。自分の体温が一気に上昇するのを自覚した。頬すら一気に紅潮したのではないかと
彼女は思ったが、目の前の夫は全く意に介していない様子である。
 彼女の額から唇が離れていく感触がして、その後にはその辺りを軽く指で撫でられる感触が続く。潤んであまり鮮明ではない
視界に映るのは、普段通りのにこやかな夫の笑みだった。
 ――じゃあね。エヴァンゼリンは彼の唇がそんな言葉を紡ぎ出すのを聴いた。何故だか判らないが、彼女はそれに過剰に反応した。
 その挨拶自体は日常的な会話であるにも拘らず、彼女は彼に行かないで欲しかった。




「――お待ちになって下さい。ウォルフ」
「ん?」
 妻に呼び止められ、ミッターマイヤーは声を上げる。立ち上がろうとしていたが、一旦それを中断した。
 彼女はそんな彼の両頬を、両手で挟んだ。エヴァンゼリンは自分の掌が汗ばんでいる事を自覚している。そしてその体温が
夫に伝わる事を恥ずかしく思った。しかし彼は微笑んでいるだけだった。
 エヴァンゼリンは夫の頬に添えた手を、ゆっくりと動かす。感触を確かめるように指を頬に這わせる。掌を動かして
頬の感触を確かめ、指先で目許や眉などにも触れた。それらの感触に彼女の心が穏やかになる。彼女は瞼を伏せた。
 ミッターマイヤーは妻の好きなようにさせていた。おそらくは酒に酔っているのだろう。だからあまりに迷惑になる
行為以外は受け入れるつもりだった。妻も一晩寝てしまえば、この行為をすっかり忘れてしまっているだろうから。
 それに彼には妻がここまで酒に弱いとは想定外であり、なのに酒を勧めてしまったと言う、彼にしてみたら「負い目」がある。
とは言えその元凶とも言える親友を責める気にはなれないのが、彼だった。
 エヴァンゼリンの指はミッターマイヤーの首の後ろに回り、長い後ろ髪を掻き分けている。彼は自分の髪をいじったり
掻き回したりする癖を持っていたが、他人にそれをやられるとなると戸惑わざるを得ない。――やはりこの髪、鬱陶しいかなあ。
そんな事を思っていた。
「――ウォルフ」
 不意に妻が彼の名を呼んだ。それに彼は微笑みかける。
 すると、エヴァンゼリンの瞼が薄く開く。目許を薄く染め上げ、潤んだ瞳が明らかになる。その瞳をミッターマイヤーは見ていた。
かなり酔ったのか、それにしても――。
 彼がそう思っていた時だった。
 エヴァンゼリンは彼の首筋に回した手に力を込めた。
 普通の女性の力である。普段のウォルフガング・ミッターマイヤー大佐ならば、そんなものには全く動じなかっただろう。
しかしここは寝室であり、相手は酔った妻である。彼にとって、全く不意を突かれた事態だった。
 彼はそのまま引き寄せられていた。慌てて肘に力を込めるが、眼前に妻の顔がある。彼の納まりがついていない前髪が、
彼女の頬に落ちるまでに、近い。
 ふたりは最接近した距離のまま、見詰め合う。ミッターマイヤーは意外な事態に戸惑った表情を浮かべているが、
エヴァンゼリンは潤んだ瞳のままで夫を見上げていた。
 エヴァンゼリンの形のいい唇が微かに動いた。ミッターマイヤーは吐息を感じつつも、彼女が何かの言葉を紡ぎ出しているように思えた。
 彼女の手に軽く力が込められる。ミッターマイヤーは先程とは違ってそれに反応する事は出来たが、敢えて抵抗する必要性は見出せなかった。
 引き寄せられるようにして、彼は妻と唇を重ね合わせていた。




 妻の柔らかな唇の感触に、ミッターマイヤーは眼を細めた。彼女のその口元が微かに開き、吐息が漏れる。
それから探るように口の中に舌が差し込まれてきた感触が彼に伝わり、彼はそれを受け入れた。
 自らもやんわりと舌を絡めてやる。彼は妻から微かに甘い味を感じ取ったが、おそらくそれは先程まで互いに口にした
フルーツワインの残り香だろう。しかしその微かな甘味が彼に何かを錯覚させた。それは彼を引き寄せている妻も同様であった。
 エヴァンゼリンは相変わらずミッターマイヤーの首筋に手を回し、彼の顔を引き寄せていた。口内で舌を絡めている間、その手は夫の後ろ髪を梳る。
 妻から与えられる様々な刺激に、ミッターマイヤーは自分が覚えている錯覚が大きくなっていくのを感じ、眉を寄せた。
ベッドに肘を突いて上体を支えていたが、その手をエヴァンゼリンの頬に伸ばす。彼女の頬を優しく撫でると、肌が微かに濡れている感触がした。
 何時しかエヴァンゼリンが引き寄せるのと同様に、ミッターマイヤーも彼女に覆い被さる格好になる。そして彼らの口付けも
長く、深く、激しいものになっていた。息を継ぐために軽く口を離してはまた角度を変えて口付け、吸う。
 夫の髪を撫でる妻の手はそのうちに彼の髪全体を撫で回し、時には何かに耐えるように掴むようになっていた。
重なり合った上体を軽くよじらせる。
 不意にエヴァンゼリンの唇から、夫の唇がゆっくりと剥がされた。ミッターマイヤーはベッドに突いた肘に力を込めて、
自らの上体を僅かに持ち上げたのだ。
 それにより顔も僅かに上がり、ふたりの口付けも中断された。それでも未だに彼らの顔は最接近したままで、
互いの息が顔に感じられるまでの距離だった。
 エヴァンゼリンは不思議そうな表情をして、夫を見上げていた。そのすみれ色の瞳は潤み、ある種の熱に浮かされている。
口に残る優しい感触が名残惜しく思えて、彼女は自らの唇に軽く舌を走らせる。彼女の口の中の唾液が僅かに粘り気を帯びていた。
 見下ろすミッターマイヤーからは、彼女の口の中に赤い舌がちらちらと動いて見えている。その様子に彼は軽い興奮と、
同時に軽い困惑を覚えていた。ともあれ、彼はそんな妻の頬を優しく撫でる。
「――ウォルフ?」
 頬を撫でる暖かい手の感触に満足しつつも、エヴァンゼリンは小首を傾げて夫の名を呼んだ。
「…えーと…」
 名を呼ばれた側は、何故か苦笑してしまった。彼は肘に更に力を込め、腕全体を伸ばす。上体を完全に妻から引き剥がした。
しかし彼女を覗き込むような顔の向きは変わる事はない。
 苦笑を浮かべたまま、ミッターマイヤーは軽く自らの髪を掻き回した。今浮かぶ彼の表情には困惑と言うよりも、むしろ照れ臭さが見て取れた。
 それをエヴァンゼリンはじっと見つめている。今も尚残る夫の唇の感触に、彼女の体は熱を保っていた。濡れた唇から漏れる呼吸が、
彼女自身にとっても熱く感じられる。
 沈黙はそれ程長くは続かなかったが、それでも1分弱は彼らは何の言動も起こさなかった。室内にはエアコンの作動音と風の音、
そしてそれに紛れるように呼吸音が伝わっている。
 それらの静かな音を遮り、ミッターマイヤーは口を開いた。にっこりと微笑み、エヴァンゼリンに言った。
「――俺を誘っているなら、部屋の灯りを消そうか」




 このミッターマイヤーの発言は、エヴァンゼリンの体温を急上昇させた。本当に実測値で体温が上がったか
どうかは謎だが、少なくとも彼女としては「火が出るかと思う」程に体温を上昇させたような気がした。
「――誘…う…!」
 声がそれだけしか出てこない。出てきた言葉すら、まともに発音出来なかった。彼女は顔を真っ赤にさせ、
次いでその顔を自らの両手で覆う。
 恥ずかしくて仕方がない。顔を覆ってもまだ駄目なような気がして、彼女は体ごと夫を避けてしまう。今まで彼を見上げていたのだが、
彼女はさっと向こう側に寝返りを打ってしまった。
 ダブルベッドのためにそのスペースには余裕がある。熱くなった彼女の体に、エアコンの風で冷たくなっている部分のシーツが心地良かった。
 ――はしたない。
 エヴァンゼリンは心の中でその言葉を連呼していた。
 全く、私はどうかしている。大体、どうしてウォルフにこんな事――。
 その「こんな事」と、それをしでかした自分を思い出すとまた、彼女の顔が熱くなる。寝転がり、両手を顔に当てて首を竦めたまま、
彼女は顔を横に何度も振った。脳内に思い返される情景を懸命に打ち消そうとする。
 が、その感触は打ち消すにはあまりにも彼女の脳内に鮮明に記憶されていた。重なる唇、絡み合う舌――
それらの感触に、心臓が早鐘のように鳴る。
 一瞬、何かを求めるように彼女は唇を舐めるが、すぐに彼女は自分のその行動に気付いた。顔を振り、奥歯をぎゅっと噛み締めた。
眉をきつく寄せる。熱い息を堪え、我慢する。が、その分熱が内に篭もってしまったようで、体が酷く熱い。
 夫婦なのだから、この位の事は今更恥ずかしがる事もないのかもしれない。しかし、今回は彼女の方からこういう事を
始めてしまったと言う事情がある。それは彼女にとって初めての事で、そしてしてはならない事だった。
 エヴァンゼリンの実の両親は、ゴールデンバウム朝における一般的な平民であった。そして10代半ばにして
彼女を引き取ったミッターマイヤー家の両親もまた普通の平民である。
 彼女を育てた両者は教育方針も非常に素朴で健全だった。「良き娘」「良き妻」と言う観点を、彼女はごく自然に学び取っていた。
 彼女が空気として理解しているはずであった「良き妻」の理念から、今回の行動は明らかに逸脱している。
彼女はそう思い、そんな行動を取ってしまった自分を恥じて蔑んでしまっていた。



「――エヴァ」
 彼女の耳に、夫の声が聞こえてくる。普段通りの優しい声だった。
「…ごめんなさい。私、何て、はしたない事を…」
 しかし彼女は夫を見る事が出来ない。背中を震わせ、小さな声でそう言った。自分を抱きしめる格好のまま

固まっていた。
 そんな彼女に対して、夫の声が上から投げかけられる。
「何だ、そんな事を気にしていたのか」
「え?」
 夫のあっさりとした口調に、エヴァンゼリンは思わず一言声を上げた。それは彼女にとって予想外の台詞だった。
思わず腕の強張りが解けていく。
 ミッターマイヤーは緊張が解けていく彼女の背中を眺めやり、その肩にそっと手を置いた。微かに妻の肩が震える感触が彼に伝わる。
彼はそれを知り、少し微笑んだ。振り向いていないために、エヴァンゼリンにはその表情は窺い知る事は出来なかった。
 妻の肩を軽く何度も撫でながら、ミッターマイヤーは優しい声で告げた。
「まあ、確かに驚いたけど…――俺は嫌ではないよ」
「…ウォルフ」
 夫の台詞に、エヴァンゼリンは遂に振り向かざるを得なくなる。名を呼び、ゆっくりと彼を見た。
 そして彼女が見たのは、夫の優しい笑顔だった。少しだけ照れ臭いような成分が含まれているようにも見て取れるが、
大部分は普段通りの柔和な表情だった。
 彼女は夫の普段通りの顔を見ていると、自分の顔の赤さが際立つような気がした。が、優しい瞳に見つめられていると、
やはり彼女の心臓の鼓動は早まる。
 ミッターマイヤーはそんな彼女の顔に手を伸ばした。額に掛かるクリーム色の髪をそっと摘み、払う。そして彼の顔自体も
妻の顔に対してかなり接近してきている。エヴァンゼリンは自分の体から放射されている熱がそのまま夫に届くのではないかと思った。
「俺は君の夫だ。他の男ならともかく、相手は俺なのだから、はしたない事なんてないだろう」
 ミッターマイヤーはそう言い、エヴァンゼリンの額に軽く口付けた。
 彼女は自分の体温がまたしても上がった気がしたが、夫はそれに気付いた様子は見せない。或いは体温の上昇は
あくまでも彼女が主観的に感じているだけであり、客観的にはそれ程上昇はしていないのだろう。
 エヴァンゼリンの額から、柔らかい感触はすぐに離れる。ミッターマイヤーは唇を剥がしたが、顔と顔は接近したままで、
妻のすみれ色の瞳をじっと覗き込んだ。ふたりの視線が絡み合う。
 そしてミッターマイヤーはにっこりと微笑み、妻の肩を軽く叩いた。立ち上がり、視線を部屋の隅にやる。
 ――部屋の灯りを消すつもりね。エヴァンゼリンは夫の視線にそれを見出した。
 肩に置かれた手の暖かさが愛しい。どんな理由であっても彼が離れるのが嫌だ。どんなに短い時間であっても、
離れずに傍にいて欲しい、彼をずっと見ていたい――ミッターマイヤーの何気ない行動に対し、何故か彼女の心の中に、そう言った感情が渦巻く。
 おそらくは、酒の影響で日常封じ込めている感情が妙な形で解放されているのだろう。
外征続きで自宅に居る事が少ない夫に対して寂しさを全く感じないかと問われれば、それは嘘だった。
 しかも単なる仕事での赴任ならともかく、彼女の夫は職業軍人である。「暫く帰れないよ」「じゃあね」―
―その何気ない挨拶こそが今生の別れにならないとも限らない。彼女も、「遠縁の少女」の時代からそれを知っていた。
 知っていても、彼女はそれを夫にぶつけようとはしなかった。自分の我儘で夫を困らせる事はしたくはなかった。
 心の中に封じ込めてきていた思いが、酒の力を借りて表面に出てきている。彼女が素面ならばそう分析出来た事だろう。
しかし今の彼女にはそんな余裕はなかった。仮に分析出来たとしても、その衝動を押し留める事はおそらく適わなかった。
 離れようとしたミッターマイヤーの手を、彼女は掴んだ。衝動的な行動だった。女性の力のため、ミッターマイヤー本人には
それ程強くは感じなかった。しかし、それなりには強い意志を感じさせる。
「――お待ちになって、ウォルフ」
 行動に続いて妻の口からそんな台詞が発せられる。その態度に、ミッターマイヤーは振り向いた。一歩踏み出そうとしていた足をそのまま止める。
 エヴァンゼリンは夫から手を離し、ベッドに身を起こした。そのままベッドの上に座り込む格好になる。長いスカートに覆われた足を揃えて曲げ、
膝の上に手を置く。
 ブラウスの上から数個のボタンは外されている状態だったため、僅かに襟元が開き胸が覗いている。そこにクリーム色の髪が掛かる。



 彼女はすみれ色の瞳を夫に向け、言った。
「灯り、つけていて頂けませんか」
「え?」
 ミッターマイヤーは妻の申し出にきょとんとした。様々な理由から、普段は明るい中での行為を妻は好まない。
夫も特に不都合には思わず、ベッドサイドの灯りのみつけて行うのが常だった。そのため、先程も口付けを中断してまで室内灯を消そうとしたのだ。
 が、今回の妻は全てにおいて普段と違うらしい。ミッターマイヤーはそれを改めて思い知った。
「今晩は…あなたに私を見て頂きたいのです…」
 夫の視線を受け止めたエヴァンゼリンは俯いた。か細く小さな声で、そう言う。
 微かに震える両手が、ゆっくりとブラウスの前に掛かる。ボタンは先程ミッターマイヤーに介抱された際に、上からいくつかが外された状態だった。
既に胸元がちらりと覗く格好になっていたが、彼女はその真下のボタンに手を掛けた。
 眉をぎゅっと寄せて、ひとつボタンを外す。次いで、更に下のボタンに手を掛ける。彼女は、指に妙に力が入ってしまい、
上手く行かない気がした。気ばかりが焦って、もどかしい。押し殺している呼吸で胸が動き、外れた箇所が軽く開く。
 ミッターマイヤーは、妻がブラウスのボタンを自ら外していく光景を、只見ている事しか出来なかった。何も考えられず、
彼女の指の動きを注視する。只ボタンを外しているだけなので、ブラウスの合間からは細身の体が垣間見れるだけだった。
 やがて、一番下までボタンが解放される。エヴァンゼリンはブラウスに手を掛け、そっと前を開いた。開いた襟元が肩まで落ちる。
袖のボタンを外し、もどかしげに腕を抜く。背中の向こうに、脱げたブラウスが落ちた。
 彼女の肩と背中にクリーム色の長髪が掛かり、微妙な色合いを醸し出す。エアコンによって調節された室内の空気が直に彼女の肌に触れる。
熱で火照った体に、冷房が心地良く感じられた。
 ミッターマイヤーは眼前の光景に、思わず大きく息をつく。それは溜息ではなかった。奇妙に空気が乾いているようにも感じられ、
彼は唇を湿らせ、唾液を喉に追いやった。
 夫婦なのであるから、彼が妻の裸体を見るのは初めてではない。出征続きで結婚生活も想定以上に時間を取れない状況ではあるが、
それでも皆無と言う訳ではない。
 エヴァンゼリン同様に彼も普通の一般的な平民の両親に育てられている身である。彼は生まれ持った性格とも相まって、
健全な夫としての立場を貫いていた。
 が、妻から求めてきている今回の状況は、今までとは違う。エヴァンゼリンもそう思い恥じらいを持っていたが、
ミッターマイヤーからしても困惑せざるを得ない。
 ――このような大胆な行動に出るような女性だったのだろうか?彼は内心そう思う。しかしエヴァンゼリンが危惧したように、
彼は妻をはしたない女として蔑むような気持ちを全く持たなかった。
 おそらくは、彼は妻に大きな愛情を注いでいるのが、第一の理由だった。しかし、それ以外にも、彼女を蔑むには目の前の裸体は
厭らしさと言うものを全く持たなかった。
 ブラウスを脱ぎ去ったものの、スカートは穿いたままだった。座り込んでいる彼女の両足は長い布地に覆われている。
胸元には白いブラジャーが残っており、小さな胸は未だに隠されていた。しかし部屋の暖かな灯りが、彼女の肌を照らし出す。
桃色に色付いた肌が晒されている。
 ――美しい。ミッターマイヤーはごく自然にそう感じた。



 一方のエヴァンゼリンは、スカートの上で拳を作って俯いていた。視界の隅に自分の髪が掛かる。脱いだ当初は
僅かに寒気を感じたが、それも今では体内の熱と上手く調和していた。むしろ、体内の熱の方が再び勝ちつつある。
 彼女はミッターマイヤーをまともに見る事は出来なかったが、彼の視線は感じていた。――どのような顔で、
どのような眼で、私を見ているのだろう?彼女はそう思うが、それを確かめる勇気が出てこない。
「…はしたないとお思いでしょうけど…私を…――」
 それ以上は、彼女の羞恥心が邪魔をした。これが彼女の限界だった。彼女は顔を上げる事無く、スカートをじっと見つめていた。
 不意に、彼女の視界に影が差した。次いで、彼女が座り込んでいるベッドの近くが軽く軋む。
「エヴァンゼリン」
 彼女の耳元で囁く声がした。その声と、それに伴う微かな空気の振動を彼女の耳は感じ取り、びくりと震えた。声のする方を思わず見てしまう。
 エヴァンゼリンのすぐ近くに、ミッターマイヤーが腰を下ろしていた。
「何度も言わせないでくれ。はしたない事なんてない」
「ウォルフ…」
「俺は君を愛しているのだから」
 そう言って、ミッターマイヤーは眼を細めて笑った。そしてエヴァンゼリンの顎にそっと触れる。
 それを合図にしたように、エヴァンゼリンは夫の肩に腕を伸ばした。その後ろで両手を絡ませる。腕を狭めて抱きしめると、
素肌に夫のシャツが当たった。品質は良いが洗いざらしの感触。
 それを感じながら、彼女は夫に向き直る。そのまま彼らは唇を重ねた。




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