色目×伯爵令嬢 ◆ALOVG.j6AI(3-111) さん




 俺は長年、奴との付き合いを続けている。互いに艦を持ち、それが旗艦となった今でも、互いの艦を行き来して酒を飲む習慣は変わらない。
 しかし…流石に、衛星軌道から敵の首都星を眺める経験は、今回が初めてだった。
 そして、女が同席していると言う事態も。しかも、今は友人が席を外している。
 今、俺は、事もあろうに友人の旗艦の一室で、女とふたりきりで時間を潰していると言う、あり得ない状況下に置かれている。

「――フロイライン・マリーンドルフ」
 俺は目の前の女の呼称を口にした。
 フロンライン・マリーンドルフと、帝国軍将兵に呼ばれる女。ローエングラム公の主席秘書官にして、深遠なる智謀を持つ女。
 この女がまず俺の親友を説得して動かし、そして親友が俺にその作戦を伝えた。曰く、今から反転してもローエングラム公は救えない。
公を救う唯一の方法は、ハイネセンを急襲して陥落させ、同盟政府から停戦命令を下させる
――兵法としては特に目新しい手法ではない。しかし、大胆だ。それはまるで、ローエングラム公が考案したかのような――。
 俺は彼女には特に視線は合わせない。手の中のコーヒーカップからは既に心地よいコーヒーは失われていたが、そこに視線を落とす。
「…どうか致しましたか、ロイエンタール提督」
 彼女の声が俺の耳に届いた。程よく効いている空調が、微かな作動音の中に女の声を混ぜる。彼女の声は何気ないものであるようだったが、
訝しげな要素を含んでいるようにも聞こえる。俺の勘繰りに過ぎないだろうか。
 気が置けない友人の艦で、まさか腹の探り合いのような真似をするとは――ふと、そのような事を思う。今日は何故か、妙に、神経がささくれている。
「不躾な質問をさせて頂きたいが、宜しいか」
「伺いますわ」
 彼女は視線を上げた。探るような視線を俺に向ける。――俺はコーヒーカップに視線を落としたままだが。
 しかし、その視線を上げた。俺は彼女を見つめた。口元には僅かに笑みを浮かべてやるが、おそらくはその目は笑っては居ないままだろう。
鏡を見ている訳ではないが、俺は自分の表情が手に取るように判るし、扱うことが出来る。
「フロイラインは何故、私ではなく、ミッターマイヤー提督をお選びになったのですかな?」

 俺の問いに、彼女は明らかに戸惑った。おそらくは、彼女の現状の心中の急所はこれだった。腹を探ったつもりだったが、それが明らかに正解だった。
もっとも彼女はすぐにその表情を消してしまうように努力していた。
 しかし、俺には無意味だった。既に俺は彼女の心中に気付いてしまった。
「…選んだ、と言う訳ではありませんわ」
 しばしの間の後に、彼女は品のいい微笑を浮かべてそう答えた。門閥貴族の女らしい、美しい笑み。しかしここまで上品な笑みを
浮かべることが出来る女は、貴族にもそうはいない。さぞかし心が清らかなのだろうか。
「しかし実際に私ではなく彼を選んでいる。私の艦隊と彼の艦隊とで、フロイラインが到達に必要な時間は然程変わらぬはずでしたな」
 性根から歪んでいる俺が表す笑みは、彼女の清らかさに敵うべくもない。そして舌鋒こそ鋭くはしないが、
俺は彼女に対する追求を緩めるつもりはない。
「或いは、人間に可能な限りの速さでハイネセンを失陥させる必要があるため、私ではなく疾風ウォルフを頼らざるを得なかった?――違いますな。あの男は、この作戦が必要であると判っていようが、自身の艦隊のみで動く訳がなかったのです」
「…提督は何故、そうお思いになりますか?」
「ウォルフガング・ミッターマイヤーという男は、客観的に見て、こと政治的な動きに関しては清廉潔白な男ですし、当人もそうあろうとする人間です。
仮に彼の艦隊のみが主君のために反転せずにハイネセンを失陥させたとしたら、彼はローエングラム公に対する忠誠心を疑われる事になりかねない。
確かにこの作戦は公をお救い申し上げるためのものだ。
しかし、それでも、ここが彼にとっては越えられない一線と言う奴だったのです」
 それが、俺の親友だ。全てにおいて馬鹿馬鹿しいまでに真っ直ぐでいて、高い矜持を持っている。それでも尚自分の立場を計算出来るから、
旧体制時代のゴールデンバウム王朝においても俺と同様に出世したのだろうが。
 俺は視点を落とした。何も入っていないコーヒーカップを弄ぶのにも飽きてきた。汚れの後も欠けもないカップをそっと皿に戻すと、乾いた音がした。
「私は彼と長い付き合いをしている。しかし、彼の行動原理は、少し洞察力がある人間が見ていたらすぐに理解出来るだろう。
ましてやフロイライン・マリーンドルフ――
ローエングラム公の首席秘書官であるあなたが、それを見抜けない訳がなかったのですよ」



 そこで一旦台詞を切る。…椅子に座り続けるのにも飽きてきた。俺は席を立つ。
「つまり、ミッターマイヤーを接触対象に選んだところで、結局は彼は自らの行動に正当性を与えるために誰か他の提督を共に行動するしかない。
そして、他の提督率いる艦隊と共にでは、彼の艦隊が誇る用兵の速さを完全に適用は出来ないでしょうな」
 席を立ち、テーブルから離れる。ここはベイオウルフ内の会議室であり、十数人が着席できる規模のテーブルと椅子が設置されていた。
俺と彼女はそこで向かい合いに着席していた。
 俺は丁寧に引いた椅子を元に戻し、テーブルをゆっくりと回り込んでいった。自分の軍靴の音がやけに室内に響くような気がする。
「――…彼が疾風ウォルフであるのは、あなたにとって全く関係がない要素だったのではないですかな?むしろあなたが彼を選んだ理由とは、その矜持の高さだったのでは?」
 歩きながらも尚俺は言葉を続けた。彼女は視線で俺の姿を追うのだろうか。彼女を見ていない俺には良く判らない。
 やがて、俺は彼女の隣で立ち止まった。座っている彼女を上から見下ろす格好になる。
 どうやら彼女は今は、俺を見ていなかったらしい。くすんだ金髪の頭頂が眼前にある。それは利発そうな印象を与え、そして実際に利発な女。
この形のいい頭の中に、何処までの知略が展開されているのか?
 俺は彼女の隣でかつんと軍靴の踵を合わせた。敬礼するかのように姿勢を正し、しかし彼女を見下ろす体勢を保った。
そして、少しだけ微笑んで、言った。
「――逆を言うと、つまりは私は、あなたに全くと言って良いほどに信用されていないのでしょうよ」
 俺はその台詞とその言い回しに、少しばかりの毒気を混ぜたつもりだった。鈍感な人間には嗅ぎ取れない程に、微妙な毒を。
 毒――それは一体何か。嫌悪感か、蔑みか、それとも他の成分か?俺は人の心を負の方向に持っていく手法をわざと行う事があるのだが、
だからと言ってその際に必ず自分が持つ毒を性格に自己分析出来ている訳ではない。
 ともかく、俺の前では、彼女が視線を上げていた。俺に対して向けられた視線には、彼女の感情は覆い隠そうとされている。
意識的に感情を殺そうとしているらしいが、それでも大抵の人間は自分の感情の発露を隠し通す事は出来ないものだ。
 ――今彼女から感じられる感情は、困惑か、恐れか…その他の要素か。


「…提督にはローエングラム公を支えて頂きたいと思っておりますわ」
 沈黙は長くはなかった。彼女の視線から微妙な感情の流れが消えたと思ったら、すぐににっこりと微笑む。爽やかというよりは、
可愛らしいはにかみめいた笑み。自覚はないだろうが、ちょっとした男ならこれで落ちるのではないだろうか。
 ともあれ、俺もこの状況に乗る事にした。彼女と同様に笑う事にする。
「ミッターマイヤー提督と共に、公の両翼となって、ですか?」
「そう言う事になりますわね」
「私如きに、非常に勿体無いお言葉ですな」
「帝国軍の双璧と呼称されるおふたりに相応しい仕事であると思いますが」
 ここまでの会話に、俺は目を細めざるを得なかった。――どうやらこの女は冷静ではあるが、完全なる嘘をつく事は苦手のようだ。
だとすると、俺も自分の直感を納得せざるを得ない。
「なるほど、あくまでも私はミッターマイヤー提督と共にと言う扱いですか。私単独ではやはり信用して頂けない御様子」
「そういう訳ではありません」
「彼の方は単独でもあなたの信頼を得ていると今回の一件で判明致しましたが、何故私では無理なのでしょう?」
 ――自分の胸に聞いてみろとでも返せたなら、この女も楽だろうにな。俺は、自分で問うておきながら、そんな事を思う。
 しかし表向きは、俺達は笑顔を浮かべたままの会話だ。つくづくこの女とは腹の探り合いが続く。どちらが先に自分の本音をぶちまけるか、
その勝負になってしまう。実際には互いの本音が相手に薄々感じられているだろう事は想像がつく。しかし、それを露呈したくはないのだ。
 おそらくはこの女も同じ事に拘り、このような猿芝居が続いている。彼女は嘘をつけないから手放しで俺を信用しているとは言えない。
しかし様々な粉飾で、それを誤魔化そうとしている。
 ――彼女ならば俺を本気で誤魔化せるとは本気で思ってはいないだろうが、少なくともストレートな暴露はしないようにしている。そして、俺も同様だ。



 そういったやり取りが続く事を予想したのだろう。彼女はすぐに言葉を返そうとはしなかった。言葉尻を捉えられるのを嫌がるのだろう。
 何も言わない彼女を良い事に、俺は彼女の隣にそっと片膝を付いた。恭しく頭を下げ、胸に手を当てて畏まる。形だけは、恭順の姿勢を取る。
まるで大昔の騎士が女性に対して行うように。
 隣から驚いたような空気が漂ってくるのが判った。彼女は机に向かい合った体勢のままであり、俺はその隣で片膝を付いているのだから、
完全に彼女と向き合っている訳ではなかった。
 しかし、彼女は驚いたのか、反射的に体をこちらに向けたのが判る。それでも、急遽の姿勢変更であるにも関わらず、椅子が微かに音を
立てるだけだった。それは彼女のそつのなさが滲み出ているかのようでもあった。
「――あなたは公の首席秘書官です。あなたに信頼されると言う事は、公の信頼を得ると言う事でしょう。私はあなたの信頼を得たいのですよ」
 恭順の姿勢のまま、俺は目を伏せてそう言う。それは、本音であったろうか。
「…私本人の信頼ではなく、私を通して公の信頼を得たいとお考えですのね」
 俺の台詞に対し、彼女はそう返した。――何故か、俺は口元に笑みが浮かぶのを止められなかった。顔も上げないまま、彼女に答えた。
「いけないでしょうか?」
「…え?」
 俺の回答に、彼女は戸惑ったようだった。
 何ら意味のある台詞を返さず、短くそれしか言えなかった事で、それは明らかだ。このような猿芝居のような会話を交わしている以上、
無意味な言葉を口に出す事は相手に付け入る隙を見出させるだけなのだから。
 おそらく彼女は俺の言葉尻を捕まえたつもりだったのだろう。――自分の信頼を得たいと言いつつ、それはローエングラム公の信頼ではないのかと。
なのに、俺はそれを受け流してしまった。
「失礼」
 俺はそれだけ言ったが、彼女の許可は待たなかった。
 彼女の右手をそっと手に取り、唇を寄せた。あくまでも恭しく。
 これもまた、大昔の騎士のように――と言うか、現代の貴族の女に対する恭順の姿勢でもある。形の良い、白い肌の手の甲に口付ける。
美しい手だと思った。
 彼女の手がほんの微か、本当に微かに、ぴくりと震えるのが判った。


 彼女は仮にも、門閥貴族の一族に名を連ねる一人娘であったはずだ。いくら父親が門閥貴族にあるまじきまでに誠実かつ平穏を求める
人柄であるとは言え、貴族として社交界と隔絶出来る訳がない。だから、この手の挨拶には慣れているはずだ。
 ――少なくとも、彼女はそう応対するはずだ。応対しようとするはずだ。
 目の前の男は、あくまでも女性に対する「挨拶」をしているだけに過ぎないのだと。
 俺は彼女の薄い手の甲にそっと口付ける。微かに香る上品な香水に、何気に手入れされている爪。自らを飾る事を知らないような娘だが、
身嗜みと言えるレベルの事には気を使っているようだった。それには好感を持つべきなのだろうか。
 俺は彼女の手首に軽く手を添え、手の甲に唇を寄せ続ける。手首は細く、しかし黒と銀に彩られた軍服の感触は普段俺自身が感じているものと
同じだ。
 最初に口付けた際に感じられた僅かな震えは、もう感じられない。もしかしたら平静を装っているだけで、鼓動はどうにかなっているのかもしれないが、
手に口付けているだけではそんな事は判らない。
「――あの」
 俺の上から短い声がする。戸惑っている調子の声。しかし俺はそれに応えず、相変わらず手の甲に唇を寄せていた。
「……提督?」
 声の調子からは戸惑いだけが感じられ、緊張の成分などは含まれていないように思える。――或いは、緊張を覆い隠しているように思える。
短い言葉から類推できる事は少ないのだが。
「どうかなさいましたか?フロイライン」
 俺は唇を寄せたまま、問い返した。それ程大きな声にはならないが、はっきりとした口調になるように心掛ける。
唇の動きがそのまま手の甲に当たるのが感じられた。そして、彼女の手の甲が反射的に震え、上で微かに息をつくのも判った。
「…これは一体どういう事なのでしょうか」
「どういう事かと仰いますと?」
 手に唇を寄せたまま喋り続け、俺は顔を上げない。俺に彼女の顔は見えないし、彼女も俺の顔が見えないだろう。
「その…挨拶にしては少々長いのでは?」
 彼女の声の調子からは相変わらず戸惑いが感じられる。そして、僅かながらに緊張の調子も紛れてくるような気もする。
「淑女に対する挨拶ですとも。紛れもなく」
 俺は悪びれもせずにそう答えた。
 確かに彼女の方が正しいだろう。男が女の手の甲に口付けると言うのは確かに挨拶だが、まさか長々と口付けを続けるのが
正当な挨拶だとは思えまい。
 しかし、彼女はそう思うなら、手を振り払うなどと言った行為に出れば良かろうに、その気配は全くない。嫌悪感を自分から出すつもりはないのだろう。
それを明らかにしては、負けだと思うのだろう。
 …何に対しての負けなのだ。俺も同等の勝負を挑んでいるからこそ、馬鹿馬鹿しく思える。彼女の回りくどい態度を笑えないし、
逆に自分ごと笑ってしまいたくもなる。
「フロイラインはこのような挨拶には慣れておられませんか?」
「いえ、そういう訳ではないのですが…」
「では普通に流せば宜しいでしょう。――私もあなたに対して特別な感情はありませんよ」
 俺はそう言って、不意に顔を上げた。彼女の顔を見上げる。
 彼女は僅かに眉を寄せていた。戸惑ったようでいて、微かに不快感だか緊張感だかが感じられるような顔。
 しかしそれは一瞬だった。彼女は「俺に顔を見られた」事を悟るや否や、すぐにその表情を消してしまった。整った顔を努めて維持しようと
目論んでいる様子だった。改めてこうしてみると、美しい女だと思う。それは素直な感想だった。


「――私には特別な感情はお持ちではないと言う事は、やはり私の信頼は必要とは思ってらっしゃいませんのね」
 俺の唇が手の甲から離れたからか、少しは余裕が出てきたのか。彼女は少しだけ微笑んでそんな事を言った。
「私はローエングラム公の忠実な部下です」
 俺はそう言って頭を下げた。片膝ついたまま、まるで彼女に忠誠を誓うかのように。
「……私は公ではありませんよ」
 俺の行動に対して、やはり彼女は戸惑ってしまうようだ。少しの沈黙の後に、そんな馬鹿正直な台詞が帰ってくる。
「しかしあなたは公の主席秘書官です」
「提督は、誰かに取り入って忠誠を証明するような方ではないと思っておりますわ」
「買い被りですよ」
 ――本気で取り入っているつもりだとして、その取り入る相手に「お前には興味ない、お前の上司に興味があるから取り成せ」と
露骨に言動で示すとすれば。それは馬鹿の所業だろう。そんな事をしたら、取り入る相手は気分を害する事はほぼ確実だからだ。
 しかし今の俺の態度はそれを地で行っている。そして「俺が取り入る相手」である彼女は、だからと言って単に気分を害するだけに
留まらないだろう。聡明な彼女ならば、俺が本気で彼女に取り入っている訳ではないと判ってしまっているだろうから。
 では、目の前に跪く男は何をしたいのか?「取り成せ」と言う要求が存在しないならば、つまりは信用だの何だのを前置いた挙句に
「お前には興味がない」と言う事を露骨に示したいだけだ――彼女にはそこまで判ってしまうだろう。
 判ってしまったからと言って、どうだと言うのだ。彼女はやはり俺に対して態度で示せないだろう。俺がいくら嫌悪感を煽ろうが、
彼女は何処までも交わそうとするだろう。しかし彼女の忍耐力は何処まで続くだろうか。
 ――互いにそりが合わない事を自覚し、遠慮なく弁舌を振るう事が出来るオーベルシュタインと俺の関係は、その実健全なのではないだろうか。
この彼女とのやり取りでふとそんな事を思い、内心苦笑せざるを得ない。



「また、不躾な事を伺いたいが、宜しいか?」
「…どうぞ」
 片膝ついて忠誠を誓うかのようなポーズを取ったまま言う台詞ではないだろうが、彼女は不問に処した。何が出てくるのか楽しむ余裕は
まだあるのか知らないが、ともかく彼女は俺に続きを促す。だから、俺も遠慮なく言葉を続けた。
「今回のフロイラインの計画が上手く行かなかったとしたら、どうなさるおつもりだったのですかな?」
「…と、仰いますと?」
「我々に出来る事は同盟首都星を急襲して無条件降伏を促す事だけでした。それ以降の話は同盟政府の裁量に任せるしかなかった。
――仮に彼らが民主主義の守護者としての威信を賭けたとしたら?無差別攻撃される事を受け容れて尚、我々に折れるつもりがなかったとしたら?」
 俺は問うて一旦言葉を切った。彼女が何らかの反論をするなら、それが出来る程度の間を置いてやった。しかし彼女は即答しない。
俺もここで話を終わらせるつもりはなかったので、短い間を置いただけで話を続けた。
「また、ミッターマイヤーも危惧していたようですが、同盟政府が無条件降伏してもヤン・ウェンリーがその命令を無視したら?
彼が誘惑に身を任せないのは、こちらの願望に過ぎなかったでしょう。そして、そもそも、無条件降伏の命令が間に合わなかったとしたら?」
「…リスクが大きいのは承知の上でした。ですが他に方法はなかったと思います」
 俺の台詞が途切れ、彼女はそう答えた。しかし、その答弁で俺が納得すると思っている訳はないだろう。
「不躾で申し訳ないが、私はあなたの願望を今更伺っているのではありません。あなたの作戦の分岐点の行方を伺っているのです」
「……提督が何を求めておられるのか私には――」
 戸惑いの表情が、微笑に取って代わった。ああ、それだ。何かを偽っているような表情。彼女の表情の変化を見た俺は、
彼女の台詞を遮って畳み掛けた。
「聡明なあなたがそれを想定していなかったとは私には思えない。――我々の行動が完全なる成功に至らず、ローエングラム公が
敗北すると言う分岐の先には、あなたはどのような策を見出していましたか?」
 自他共に認める「策士」ならば、事象に対していくつかの可能性を呈示し、それに対応するだけの策を用意しておくものだ。ましてや
相手の行動に望みを託すような願望めいた作戦を主に置いて安心している人間が、今までの実績を残せる訳もない。
 ローエングラム公が敗死する。元帥府の軍人には高級将官であろうとも考える余地もなく、また空気として考える余地が許されなかった可能性。
そこに切り込む事が出来る娘である以上、本当に敗死した後の可能性まで考えていない訳がないのだと、俺は判断した。



 俺の畳み掛けるような問いかけに対し、彼女は黙り込んだ。口元から微笑が消えた。それは、彼女なりに出来の悪い取り繕いだと言う
自覚はあったのだろう。
 しばしの沈黙の後。彼女は口を開いた。しかしそれは俺に対して予想外の問いだった。
「――提督ならどうなさいましたか」
「………は?」
 俺は初めて、彼女に対して意外そうな声を上げてしまった。反射的に止められなかった。
 彼女の顔をまじまじと見てしまう。硬い表情だった。おそらくは、彼女自身もそれが危険な問いだと気付いているのだろう。
 危険な問い。普通に考えて、主君の死を想定するのは、部下にとって不遜だ。
「…私ですか?」
「はい」
「公が亡くなったとして――私の身の振り方ですか?」
「そうです」
「あくまでも仮定として、ですな?」
「それで宜しいかと思います」
 当初は本気で意外そうな声を出して俺は訊いた。そして彼女は頷くだけだった。それを繰り返しているうちに、俺は心中で意を固める。
意外そうな声が、演技の範疇に収まっていく。
 俺は視線を上げた。彼女の顔を見つめた。口元には少しの笑みを浮かべる。
「私が忠誠を誓うのは、ローエングラム公だけです」
 そう、答えた。それだけの言葉で、俺が何を言いたいかは、彼女ならば判るだろう。
「…つまり、公が亡くなったならば、あなたは覇権を握ろうと行動を起こしたと?」
 彼女の応対は少し口ごもった後だったが、それは彼女の演技だろうか。本心だろうか。俺にはどちらにも取れた。
そして俺は意外そうな声を上げてみせる。
「そこまで飛躍されるとは思いませんでしたが、乱世に生きる軍人として機会があるならば生かしたいものだと思っております」
 危険な問いと、その答え。あくまでも「仮に」と言う建前がつくとは言え、かなり踏み込んだ会話になるのは必然だ。しかしその建前がついている以上、
俺が何を言おうと誰にも咎められる筋合いはない。
「もっとも、私だけでは力不足でしょうから、ミッターマイヤーを誘うのも良いでしょう。彼を味方にすれば将兵の大半も安心してついてくるでしょうし」
 俺と奴の武勲を足しても尚、ローエングラム公には及ばないだろう。しかし、公に次ぐ第二の可能性を標榜するには充分ではないだろうかと俺は考える。何せ公と俺達ふたりに匹敵する武勲の持ち主は、現在の帝国には存在しないのだ。
「ミッターマイヤー提督は果たしてそのような考えに乗るでしょうか?」
 彼女の疑問は当然のものだろう。俺はそれも考えていた。だから、口からすらすらと答えが出てくる。
 この考えはあくまでも仮定として。それが建前だ。
「彼はまるで出世欲がありませんからな。ヤン・ウェンリーが同盟政府からの命令を無視する可能性より低いかもしれません。
しかし帝国に混乱をもたらす惨禍に較べたら、彼も一時的にでも統治者となる気も出てくるのではないですかな?
――まあ、これは私の願望に過ぎませんが」
「そしてあなたは一時的で終わらせるおつもりではないのですね」
「実際問題として公がお倒れになった場合、他に我々が仰ぐべき人物は存在しますか?いないならば…やむを得ない事もありましょう」
「公には姉君がいらっしゃいます」
「それは現在の幼帝と同じく、傀儡として、あなたは薦めてらっしゃるのか?」
「…それは」
 「主君亡き後の政権争い」と言う危険な会話は、彼女が口ごもる事で一旦止められた。



 事実、現状の帝国の体制がローエングラム公に権力が一挙集中する独裁体制である以上、彼が敗死した場合にその代わりを務める事が
出来る人間はいないのだ。No.2不用論を推し進めた結果がこれだ。
 危機管理も何もあったものではないが、この「危機」自体を考慮する事を公自身が行わない限り、誰も表立ってこの危機に対して
予防線を張っておく事は出来ない。
 かろうじて考えられる可能性としては、正にこの首席秘書官が口にしたように、公の姉君に出馬して頂く事だろう。
しかしどうも姉君は現状を取っても政治に関わる気が全くない様子だし、公のように全てを任せるに相応しい能力を持っているとも言い難いだろう。
 となると、姉君は傀儡以外の何物でもなくなる。それは、今の体制における「ゴールデンバウム王朝を継ぐ幼帝達」と立場上何ら変わる事はない。
それを姉君自身、そして俺達含め周りの人間が受け容れる事が出来るのか?
 少なくとも、俺には出来ない。
 そして、俺は「その時になれば自ら覇権を握る事も厭わない」と、今彼女に対して明言した。
 彼女は俺を、危険な人間だと思うだろうか。
 ――俺にここまで明言され、主君の首席秘書官という彼女の立場を考えれば、危険を感じない方がおかしいだろう。しかし、彼女が俺に対して
何らかの言動を取れるだろうか。それはまた別問題だ。
「成程、フロイラインのお考えは公の姉君をお頼り申し上げるという事ですな」
「…そうなりますね」
「ええ、そうですな。血筋は全てにおいて優先される…全くもって今昔変わらぬ貴族の論理です」
 俺が口元を歪めた笑いを浮かべ、そう告げる。と、彼女の眉も心なしか歪んだように見えた。――針で細かく神経を突付くような言動ばかり
やってきた俺だが、彼女にも少しは効いているのだろうか。
 どちらが先に自分の負の感情を露にさせるのか――奇妙な競争だ。この競争自体は馬鹿馬鹿しいが、俺はこの手の小娘は気に喰わない。何故だか、気に喰わないのだ。
 この毅然とした小娘が感情を発露させた時――俺との競争に負けた時、何を思うのだろう?この気の強いまなじりに何が浮かぶ?
 俺は歪んだ笑いを浮かべたまま、再び彼女の手を取った。



 彼女はまた微かに震えたが、すぐにその震えも止まる。また跪いたまま、挨拶と言う建前の口付けが来るのか。彼女はそう思ったのだろう。
しかし、俺の行動は彼女の予測とは、おそらく違った。
 俺は彼女の手の甲に唇を落とした。それは前回と同じだ。
 しかし、それから俺は、彼女の手の甲に吸い付いた。
 それは跡が残るとか、それ程に強く吸い付いた訳ではない。しかし、敢えて目立つように音を露にしてやる。もっとも室内が静寂に包まれている
以上、それ程大きな音を立てる必要はなかった訳だが。
 それでも彼女の動揺を誘うには充分だったようだ。吸い付いた手がびくんと震えた。そして、反射的にだろう、手が俺から勢いよく引こうとしたのだ。
しかし俺はその手首をしっかりと掴んでいた。逃がさない。
 俺は吸い付いた唇をそのまま、彼女の指先まで走らせた。舐めている訳ではないが、先程吸い付いた際の唾液が唇を介して彼女の指に
撫で付けられるのが俺にも判る。
 きめの細かい肌と、手入れされ薄くマニキュアが塗られた爪の感触を楽しむ。そして俺は掴む手首の角度を変え、彼女の人差し指の腹に、
軽く口付けた。
「…何をなさるのですか」
 押し殺すような声がした。感情を露にしないように懸命に努力しているが、その声を押し殺す行為自体から感情が感じられる。
俺に負けないためにも、無駄な努力と言う奴を彼女はしなくてはならないようだ。
 俺は彼女に答えない。強張った人差し指の先に舌を走らせる。すると、彼女は震える。判り易い反応が来る。そのまま俺は指の根元まで
一気に舐め上げた。そして、指の間をじっくりと舐めてやる。上で、息をつく雰囲気が感じられる。
 俺は指を舐めてやりつつ、そっと視線を上げた。
 彼女の顔は強張っていた。寄せられた眉は苦痛に満ちているようでいて、他の感情も見当たるようでもある。伏せ目がちでじっと何かに
耐えている様子だ。唇は半開きになっていて、そこから吐き出される息は、俺が舌を走らせるのに反応してくれているようにも思える。
 彼女の顔を無遠慮に見つめながら、舌を走らせる。人差し指ばかりではなく、他の指にも行為を行い、時には掌にも口付ける。
ある部分を舐めると、彼女はほんの僅かに喉を反らせた。それを見て俺は低く笑ってみせる。
 と、彼女は俺の笑いに気付いたのか、伏し目がちだった目をうっすらと開いた。熱に浮かされつつある――そのような表現を用いたくなるのは、
俺が彼女に対して悪意を持っているからか?ともかく、彼女の瞳は普段の明晰な代物とは明らかに違ってきていた。
 しかし俺の視線に気付いたのだろう。彼女は明らかにはっとして、目を見開いた。顔を横に振り、熱を冷まそうと心掛けようとした。
が、俺はそれを見計らい、以前舐めた際に反応が顕著だった辺りに再び舌を走らせる。
 それに対する反応は明快だった。彼女は体を強張らせ、軽く鼻に掛かったような声まで上げてしまう。そしてその事実に驚愕したか、再び激しく顔を振る。――反応は、可愛らしくもある。
 俺は彼女の掌を舐め上げ、そのまま手首の辺りに口付けた。掌が俺の頬に当たるので、そのまま手に頬を寄せる事にした。まるで本気で愛しい恋人にでも対する態度のように。
 以前はわからなかったが、今は彼女の体温が手からも伝わってくる。それはかなり熱い。
 そんな風に彼女の手を弄び、彼女の様子を楽しみつつ、俺は言い放った。
「――公だろうが、その姉君だろうが――あなたが覇者を作り、支えていくのは、楽しい事でしょうな」



 彼女が硬直したのが判る。熱を持った掌は、汗を僅かに掻いている。
 俺からの痛烈な批判とでも思っただろうか。しかしその批判を、何故このような行為をなしつつ言い放つのかと理解に苦しむだろうか。
 ならば俺は彼女にこう問いたい。――嫌いな相手をやんわりと追い詰め、いたぶるのに、全てにおいて論理的な思考は必要か?――と。
「――お戯れはお止め下さい!」
 遂に、彼女が声を荒げた。と同時に、俺に弄ばれていた手を再び強く引こうとする。が、俺は相変わらず手首を強く掴んだ。
相手の反応に合わせて掴む力を変える事は、普段の格闘訓練からして慣れている。
 自分の行動が失敗に終わった事を悟った彼女は、再び何かを口走ろうとした。が、俺は優しく告げる。
「あまり騒ぐと外の人間に聴こえますよ」
 効果は覿面だった。彼女ははっとした様子になり、そのまま口をつぐんだ。俺は満足し、ようやく姿勢を崩した。
長々とこの女の前で跪いたままだったが、彼女の手を掴んだまま立ち上がる。同じ姿勢を保つ事は、軍人として訓練されているので苦痛ではなかった。
 俺は空いている片手を胸に当て、やはり恭しく一礼した。微笑を浮かべたまま、彼女に言う。
「何せここはベイオウルフだ。あなたは勿論、私の旗艦でもない。お互いにとって、言わば領地外と申しましょうか。ミッターマイヤー艦隊の面々に、あまり気を使わせないように致しましょう。――ミッターマイヤーもいつここに戻ってくるとも知れませんし」
 俺の台詞に、素直なまでに彼女は反応する。特にミッターマイヤーの名前には何らかの感情を動かされるらしい。
 俺の旗艦であるトリスタンならば、旗艦内で起こった事が他人に知れたとしても緘口令を敷く事は容易い。少なくとも、俺が最高司令官である
艦隊なのだから、俺の命令は絶対なのだ。
 しかしここはミッターマイヤー艦隊の旗艦ベイオウルフだ。ミッターマイヤーと俺は同等の地位である上級大将だが、この艦隊の人間が俺の命令を
無条件に効かなくてはならない義理はない。この艦隊で起こった事件の解決は、全てミッターマイヤーの裁量に任されるだろう。
 そして、肝心な事だが、ミッターマイヤーは今この会議室を一旦退席しているに過ぎないのだ。彼が顔を出して同盟政府に勧告した以上、
表向きの折衝は彼がやる事になってしまっているのだ。
 勿論ローエングラム公一行がこのハイネセンに到着するまでは、不用意な約束事は出来ない。が、それでも窓口は必要となる。
現在、その厄介な役目を押し付けられているのが、奴だ。
 この秘書官の意見を聞き入れた上で、今は同盟政府の連中と「世間話」をやっている事だろう。しかし、その世間話が終わり次第、
その結果を携えて奴はここに戻ってくるはずで…――。
「…それがお判りなら、このようなお戯れはお止め下さい」
 彼女は、微かに声が震えていた。俺に対する精一杯の抵抗だろうか。しかし俺はその彼女を、鼻で笑った。それは嘲りにも似て――
いや、もう取り繕う必要はない。これは、嘲りだ。



「フロイライン・マリーンドルフ。あなたは非常に明晰な女性だが、全ての事象を知り尽くしている訳ではないようだ」
 彼女は俺の台詞を聞き、視線をやる。怪訝そうな瞳。そして、先程まで手を弄ばれた熱をまだいくらか残している瞳。
俺は彼女に視線を合わせたまま、行動を一気に起こした。
 掴んだままの手首を勢い良く背後のテーブルに押し付ける。彼女が座っていた椅子を軽く蹴ってずらし、向こうに追いやる。
そして俺は彼女の上体に体を押し付け、圧し掛かった。
 彼女の口から小さく悲鳴が上がるが、それはテーブルにふたりで倒れ込んだ衝撃で倒れた、テーブル上のコーヒーカップの鋭い音でかき消された。
彼女もその衝撃音に耳を奪われたらしい。
 ――この音で外に異常が伝わったなら?それに加えて、自分の叫びも混ぜていいものか?
 そんな事を考えたのだろうか。ともかく彼女はそれ以上叫びを上げる事をしなかった。
 コーヒーカップの中にはもうコーヒーは存在していなかった。だから倒れても被害は皆無だった。
 俺は皿の中で倒れたまま緩やかに左右に揺れているカップを片手で掴む。それをそのまま皿の上に置いた。置かれた際に鳴った音は、
倒れた音に較べようもなく小さい。
 彼女の片手首を掴み、上体同士を押し付ける格好になっている。まあ、普通の状況ではなかろう。誰かに見られたとして、言い逃れのしようがなかろう。
 俺は彼女の顔に、自分の顔を近づける。そして、言葉を続けた。
「あなたはこれを戯れと仰る。そして戯れなら止めろとも仰った。そうですな?」
「…はい。ですから――」
 小さな声で尚も、彼女は俺に思いとどまらせようとしているらしい。が、俺は彼女のか細い抵抗を断定口調で遮った。
「だからあなたは判っていないのだ」
 整った顔がそこにある。美しい色をした瞳や、形をした唇が目の前にある。自分と同じく軍服を纏ったその合間から垣間見れる首筋は、
軍人とは明らかに違うまでに細い。
 そして密着した上体には、男を組み伏せた時には感じようのない柔らかな感触が、厚い軍服越しに伝わる。
「どうしても肉体的に苦痛を伴う女と違い、男はそんなものを一切感じない。単に快楽を追い求めるだけだ。
 ――明晰なフロイライン。後学のためにも覚えておきなさい。男という生き物は、気紛れや戯れのみで、相手の意思など関係なく、
女を抱く事が出来るのですよ」



 俺がそう教えてやった後の彼女の表情は、見物だった。おそらく俺は暫く忘れる事は出来ないだろう。
 驚愕と、怒りと、諦めと――色々な感情がない交ぜになっているのであろう、何とも言えない顔だった。そして、美しい顔と言うものは、
どのような感情を発露しようが、美しいままなのだなとも俺は学んだ。
 その顔を楽しみつつ、俺は自分の顔を彼女に近づけていく。彼女の見開かれた瞳に、自分の顔が映っている。――ああ、非常に嫌な、いい笑顔だ。
我ながら、そう思う。何かに満足した表情がそこにあった。
 硬直したままの彼女の顔に最接近する。息だけをしている、半開きの口元がそこにある。
 ふと、はっとしたように、彼女は顔を背けようとした。
 しかし俺はそれを許さなかった。
 圧し掛かった俺は、彼女の唇を表面上は優しく奪った。



 彼女の唇は思った以上に柔らかい。薄く引かれた口紅の感触は僅かに伝わる。品質が良い口紅なら、そう簡単には落ちないだろう。
俺としては別に落ちても構わないのだが…。
 俺が唇を奪った時には、彼女の口は半開きの状態だった。その状況を最大限に生かさなければならない。俺は彼女の精神が自律を取り戻す前に
――つまりは簡単に言うと、彼女が我に返り口を閉じて拒まれる前に、彼女の口内に舌を侵入させていた。
 強引に歯列を割らせる手段もないではないが、別に必要でもない女の唇を奪うために、省く事が出来る労力は省くに越した事はない。
 無理矢理に唇を奪う事は、他の女でもない事はない。が、通常、俺がそのように口付けを許す女は、基本的には俺を好いている。
だから拗ねている女に対して強引な態度に出る事はあるのだが、そんな女でも一旦俺に迫られたら徐々に許していくのが常なのだ。
 今回はそれとはまるで違う。俺はこの女を別に好いてはいないし、特に抱きたいとも思ってはいなかった。そしてこの女も、俺に抱かれたいとは
思ってはいないだろう。普段の女とはそこが違う。
 俺が舌を差し込むと、口元に隙間が出来る。そこから息が漏れ、微かな声らしきものも出てくる。
 嫌がるように顔を背ける。俺から逃れようとする。が、俺はしっかりと圧し掛かっている。手首を打ち振るって俺を退けようとしても、
片手は俺が掴んでいるし、空いている手を振り回した所でその威力は軽過ぎる。本当に戯れで嫌がっているようにしか見えない。
 ――本気で嫌だと意思表示したいのならば、もう少し激しく暴れたらいいのだ。俺はそう思う。が、彼女はそうしようとはしない。
あくまでも、声も、態度も、荒立てようとはしない。それがこの娘の矜持か、誇りか。
 折角、俺は人間の急所のひとつである舌を、彼女の口の中に差し込んでやっているのだ。どうせなら思いっきり噛み付いてやれば良いのだ。
しかし彼女はそうしないし、俺もそれが半ば判っていたからこういう事をしている。強張った彼女の舌に、絡めてやる。
 彼女が震えるのが伝わってくる。塞がれた口の中から、明瞭ではない声がする。逃れる舌を追い、更に弄ぶように絡める。
結果的に俺の舌は彼女の口中を蹂躙する。
 口元が唾液にまみれる感触がする。俺は空いている片手で、彼女の唇をなぞった。少々粘着質な感触がする。そして俺は親指の腹で
唇を撫でてやった。そのまま、ゆっくりと顔を上げた。舌を、口を、彼女から離してやる。
 口付けをやめて顔を上げる事で、彼女の顔を全体的に見ることが出来た。紅潮した頬に、潤んだ目元。口元は唾液で濡れていて妙に艶やかだ。
そこから微かに荒い息が漏れている。
 その瞳には、俺が顔を剥がした時には茫然自失と言った感があったが、俺が離れたと気付いたらしい。その後には眉を寄せて俺を睨むような
顔になった。――「睨むような」と表現する他ない。何せ…。
「――そのような赤い顔で睨まれても、凄みと言うものは全く感じられませんよ。フロイライン」
 俺は目を細めて笑い、彼女に説明してやった。唇に添えていた指でまた、唇をなぞってやる。彼女のまなじりが歪み、はっとしたように
俺のその手を掴んだ。交わす事は容易かったが、俺はその手を拒まない。



 俺は片手を掴まれたが、もう片手は逆に彼女の手首を掴んだままだ。そちらの片手をお返しに自分の方へ引いた。
 彼女の手の甲を口元に寄せ、俺はその手で自分の唇を拭った。少し眉を寄せて顔をしかめて見せて――まるで汚い物を拭い去るような顔をして――
数度擦り付ける。無論、彼女が見ているからそのような行動に出る訳だ。
 手で口元を数度拭ううちに、湿り気と粘液が取り去られていく。そして彼女の手の甲を見ると、擦りつけられたせいか、僅かに赤くなっている。
摩擦によって水分の殆ども飛んでしまったらしく、その部分は微かに光り濡れていただけだった。
 が、ほんの僅かに人工的な色が残っているのを見る限り、口紅は完全に落ちていない訳ではないようだ。
 俺は彼女にその部分を見せてやる事にした。――口紅が落ちてしまいましたよ。そんな事を、少し気分を害したような顔をして見せて。
「化粧道具はお持ちですか」
 俺にそう問われると、彼女は微妙な表情を見せた。戸惑いなのか、怯えなのか――少なくとも、勝気な表情ではない。現状では、俺が完全に
優位に立っているようだ。
「…はい」
 数刻の迷いの末に、彼女は簡単にそれだけ答えた。だから俺は微笑んで言った。明らかに自分の優位を見せ付けるような笑みを浮かべ、
彼女に対してまた顔を近づける。俺の顔を見せ付けてやる。
「それならば良いのです。化粧が落ちても後で直せばいいのですから」
「……あ、あの…このような事は…」
 俺が顔を近づけた事で、彼女は顔を歪める。俺の接近から逃れようと、机の上をずり上がろうとする。そのために彼女は、折角彼女の方から
掴んでいた俺の手首を離してしまった。
 どうやらまた唇を奪われると思ったようだ。――今はそれが目的で顔を近付けた訳ではないのだが、いずれは同じ事をするのだから彼女の危惧は
当たらずとも遠からずである。
「このような事、ですか」
 俺は片手を胸に当てて、微笑んで彼女の言葉を繰り返す。優しげな顔をして見せるが、それは或いは彼女を侮蔑しているとも言える表情。
どういった意味に取るかは、彼女の勝手だ。
 ところが、彼女は戸惑いの表情を振り切るように目を伏せ、そして開いた。目元は微かに色づいたままだったが、それでも今までとは明らかに違う。
 そして彼女は俺に対して口を開いた。
「提督は漁色家と呼ばれる方ですが、それが極端に短い時間であっても、一人の女性にしか愛情を注がないと訊いております」
 ――おや。まだこの娘は弁舌でもって俺から譲歩を引き出そうとするつもりか。
 彼女らしい行動ではあるのだが、その「彼女らしさ」を未だに保っている事が意外だった。ならば俺も彼女の弁舌に乗ってやることにしよう。
それもまた一興、他の女とは違う。



「それは誤解ですよ、フロイライン」
「え?」
「私は酒を嗜む際に、何種類ものワインを同時に飲んで酒の味が判らぬような事にはなりたくないのでね。1本のワインボトルを空けるまでは
その酒の事しか考えないようにしているだけです。――そのボトルが空になってしまえば、別の酒に手を出すまでですよ」
 つまりは俺にとって女は消耗品であり、それだけの存在なのだ――俺は彼女にそう述べたつもりだ。
「…女性は酒とは違います」
 流石に彼女は俺の思想には引っかかりを感じるようだ。まあ、まともな人間ならば、酒に喩えられて面白かろうはずはない。
が、俺もそう言われても、こう返す他はないだろう。
「そんな事を言われても、これは個人の主義主張の問題ですからな。皇帝陛下の御命令ならいざ知らず、あなたに強制される謂れはありません」
 大して面白みもない答えだと我ながら思う。皇帝云々を除けば、まるで民主主義とやらを奉ずる連中の発言だ。どうやらハイネセンの惑星軌道上と
言う場所が、悪いらしい。
 俺はつまらん発言をした事になるし、俺からそんな発言しか引き出せない彼女の現状もまた、つまらんのだろう。だから、相手を続ける必然性を
見出せない。さっさと会話を打ち切ろうと、意思表示をしておこう。交わし所が見付け辛い台詞を続けておく。
「それに、私が士官学校生でまだ無名だった時代ならともかく、"漁色家"としての悪名轟く現状において尚、私に接近しようとする女性がいるのだから
仕方ありません。彼女らも私に消耗されたがっているのだと、私に勘違いさせたいらしいですからな」
 そう言いつつ、俺は自分の胸に当てた手をそっと彼女の胸元に置く。軽く置いたつもりだったが、これでも既に彼女が息を飲んだのが、胸の上下で判る。やはり男に胸を触れられるのには慣れていないか?
 軍服の厚い布地に、更にはその下にシャツを着ているはずだ。女性ならば、その下には更には下着でもつけているのかもしれないが、
軍服が厚さに紛れて感触は殆ど判らない。軽く掌で押して撫でてみるが、彼女はすっかり身を硬くしてしまった。これではつまらない。
「――自分を嗜好品として扱われたくないのならば、そう扱う男の前に飛び出してくるべきではありません。そうお考えにはなりませんか?」
 俺が不意にうなじに口付けると、彼女はびくりと震えた。そのまま首筋に唇を這わせる。そこにはうっすらと汗が滲んでいたが、俺には不快な感触では
なかった。
 俺に掴まれたままの片手もすっかり硬直してしまっている。軽く拳を作った状態のまま動けない様子だ。
 どうやら激しく抵抗するのははしたない事を思っているようだ。ならば体を硬くして動かさない事で感覚を遮断し、俺からの扱いに反応しないように
すると言う事か。良くある拒絶の仕方だ。だが、それが通用すると思っているなら、甘い。
 俺を押しのける気がない事を状況から判断した俺は、彼女の手首から手を離した。もっとも、当初から肉体的な拘束目的で掴んでいた訳ではない。
「拘束されている」事を伝えるために――精神的に拘束するために掴んでいたようなものだ。




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