フロイライン攻略 /4-444 さん
夏の終わりにおこった、大本営幕僚総監ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフの突然の欠勤。
皇帝ラインハルトの近侍に過ぎないエミール・ゼッレには、残念ながらその詳しい理由はわからなかった。
暗殺事件の夜、とめどなく酒に溺れている皇帝の部屋の外、歯を食いしばり涙を堪えているところにフロイライン・マリーンドルフが現れた。
頼まれるまま中に通し、エミールは彼女が出てくるのを待った。
心配でたまらず、ラインハルトの様子を訊ねようと思ったのだ。
だがフロイラインのほっそりとした姿はなかなか現れなかった。
(きっと陛下のお心を、言葉を尽くしてお慰めてしておられるんだ。ヒルダ様は優秀な方だから)
辛抱強く待っていると、やがて、すすり泣きを堪えているような、ちいさな取り乱した響きがどこからかかすかにかすかに漏れきこえはじめ、
あれは一体なんだろうと考えていると足音を忍ばせたキスリング准将がやってきて、否応無しに自室へと追いやられてしまった。
それがエミールの関わった、ヒルダ欠勤に関わるいきさつの全てである。
思春期とはいうものの、華麗絢爛にして潔癖極まりない皇帝ラインハルトに早くから仕え、その、世界に対する覇気と才能の薫陶を受けまくっている
エミールは俗世では有り得ないほどに純真な少年だった。
しかもこれまでラインハルトとヒルダが一向に『そういう雰囲気』を醸し出した事がなかったから、余計にそういう方面への想像は働かなかった。
だから、次の日から仕事熱心なヒルダがいきなり欠勤しはじめ、ラインハルトが、酒は手放したもののなんとなく心ここにあらずの有様になったとて、
その二つの現象を結びつけて考えることはやはりエミールには不可能だった。
ただ、日頃から健康で快活で、風邪をひいても二日と続けて休んだことも稀な幕僚総監の一週間にも及ぶ欠勤は少年をそこはかとない不安に陥れた。
エミールはヒルダが好きだったし、近侍からみても凄まじいラインハルトの激務を考えると、帝王に欠くべからざる有能な彼女という存在の欠如は
大きいのではと思えるのだった。
まさかその皇帝陛下本人が彼女の欠勤の理由を作ったのだとは想像の埒外である。
だが喜ばしいことにそのヒルダはついに昨日、再びエミールの前に姿をあらわした。
見た目にやつれた様子もなく、少年に向ける笑顔もいつもの美しく明るいもので、エミールは胸をなでおろした。
これで陛下もご安心だろう、と思ったのである。
ただ…。
元に戻った日常の影に少々変化した事もある。
かつての皇帝は純粋な仕事以外でもマリーンドルフ伯爵令嬢を私室に招いてコーヒーを一緒に喫する時間なども持っていたのだが、それが
さっぱりなくなった。
明敏で快活な令嬢と、崇拝する皇帝の、公の会議の場よりか幾分か和らいだ、かつ機知に富んだ会話を給仕をしつつ漏れ聞くのを自分だけの
特権として楽しみにしていたエミールにすれば、まことに残念な変化である。
ラインハルトにその理由を訊ねるなど、エミールにとっては非常に畏れ多いことだったがそれでも勇気を奮って口を開いてみた事があった。
「あの…陛下、フロイライン・マリーンドルフは、お忙しいのでしょうか」
ぴくりと、カップの取っ手を持つラインハルトの彫刻のような手が動いた。
エミールの気のせいかもしれないが、豪奢な黄金の髪と華麗な軍服の隙間からのぞいた首すじのあたりがさっと赤みを帯びた。
彼が黙ったままなので、エミールは慌てて言葉を継いだ。
「こんな事をお訊ねして、どうかお許しください。でもこのところ、全然お茶にいらっしゃいませんので…」
いくぶんか乱暴に受け皿にカップを戻し、彼の軍神はエミールを眺めた。
微笑になり損ねたようなかすかな歪みを完璧な唇に貼付けて、皇帝は言った。
「そうだな、忙しいのだと思う。予が仕事をせずに、こうして怠けて遊んでいるからな」
「いえ、そんな…」
エミールは赤くなって口ごもり、ラインハルトが使い終わったクリーム入れを急いで銀盆に引き寄せた。
崇拝する主君にからかわれるのはいつもならば嬉しいのだが、なぜだか今日のラインハルトの口調は妙に苦々しいように思えた。
余計な事をいわねばよかった。信者エミールは後悔した。
銀器を集め、一礼して退出していくエミールの反省しきりの表情にラインハルトは気付いていたが、気の利いたフォローを入れてやる余裕は
どこにもなかった。
少年の素朴な疑問は、皇帝の痛いところを突いたのである。
そう、フロイライン・マリーンドルフは復帰の挨拶から後一度もラインハルトの前に、私事で立つ事はなかった。
表面上はともかくラインハルトのあの夜の記憶に対する照れくささはかなりのものだったし、冷静な状態の彼女と仕事の話だけを事務的にこなせると
わかってほっとしたのは事実である。
だがその安堵は最初のうちだけだった。
復帰して十日もたつが、常に直線距離にして二人の間には五メートル以上の空間が開いているような気がする。
考え過ぎかと思っていたのだが、あれはたしか三日前。
ラインハルトが書類を受け取るためにふと手をのばすと同極の磁石のように滑らかな動きで彼女がよけたので、それが意識的に置かれた
距離らしいということが彼にもわかった。
仮にも、あのような夜があったのである。
しかも、彼は逃げも隠れもせずにヒルダに、彼女の父親を巻き込んで正々堂々求婚しているのである。
いくらなんでも、彼と視線すら合わさないようにしているらしいのはいかがなものか。
安堵はゆっくりと疑問にかわり、解消されぬまま苛立ちへとかたちを歪めつつある。
ヒルダと話をしようにも、欠勤後の多忙を理由に、今日のようにお茶の誘いにものってこない。
このままでは苛立ちが怒りに進化を遂げるのも時間の問題だ。
得難い有能な大本営幕僚総監との関係を軟弱な理由で壊すなど、そのような不毛な事態はラインハルトには耐えられない。
(銀河の覇者がこれでいいのか。
キルヒアイス、俺はこの程度の男だったのか)
訊ねられても答えようもないような呟きを胸中の面影に漏らし、彼は豪奢な金髪を揺らして立ち上がった。
この生ける黄金獅子の行動様式はそもそも直情径行型のはた迷惑──いや、迅速なものである。
容姿の優美さを見くびった貴族の子弟たちを次々に血祭りにあげ、士官学校時代には(アンネローゼ以外のことでは彼の直情を果断に変える
努力を怠らぬ)赤毛の親友と一緒に数々の武勇伝を轟かせたものだ。
いつまでも、己の本質とは別の領域の問題でうじうじと悩んでいるのは彼本来の性に合わぬ。
(そうだ。これ以上こじれぬうちに、フロイライン・マリーンドルフと話し合おう。
明晰なフロイラインの事だからきっと誠意は通じるはずだ。今こそ行動の時だ)
再考を促す親友の不在がこの場合歴史上の観点から見て良かったのか悪かったのか、それは後世の誰にもわからない。
ラインハルトは薄れはじめたコーヒーの残り香をかきわけて、扉へと向かった。
***
彼の美しい幕僚総監は唯一の上司が不意に部屋に押し掛けてきた事を知り、口に含んでいた菓子を危うく喉に詰まらせるところだった。
すぐに通すようヴィジフォン越しに受付の士官に伝え、ヒルダは急いで立ち上がると手にした包みを机の引き出しに押し込もうとした。
慌てたてもたついているうちにすぐさま執務室の扉が開いた。
ラインハルト以外のものでは有り得ない、豪奢な髪の色がさっと視界にとびこんでくる。
言う事をきかない引き出しを諦めて、ヒルダは躯の向きを変えた。
「陛下」
「ああ、急に、すまない」
ラインハルトは軽く片手を拡げて抑えるような仕草を見せると、執務室に備え付けの応接セットにまっすぐ進んでそのままソファに腰掛けた。
無造作な優雅さで脚を組み、彼女に呼びかける。
「フロイラインもこちらに。話があるのだ」
ヒルダはようやく引き出しを閉める事に成功した。
ラインハルトの蒼氷色の視線が、縁からはみ出した、学生が昼食を包むために使うような茶色の包み紙に止まった。
「…もしかして、食事中だったのだろうか」
ぎこちない口調は、まず世間話でふたりの間の微妙な雰囲気をやわらげようとする意図が見え見えで、ヒルダは思わず胸の中で微笑を浮かべた。
「いえ、もうほとんど済ませておりましたから」
「しかし…」
皇帝は、壁にかけられた昔風の意匠の時計にちらと目をやった。
「もう、四時に近い。フロイラインは、時間通りに昼食も摂られぬほどの量の仕事を抱えているのか」
ヒルダは机を回ってソファに近づき、控えめに立ち止まった。
気付いたラインハルトが自分の横を指し示す。
「どうやら予はあなたの才知に頼り過ぎて、過重な労働を強いているらしい」
「いいえ、そんな事はございません。今日はたまたま、このような流れになっただけの事でございます」
傍らに腰を下ろしたヒルダの短いくすんだ金髪がなびき、ラインハルトの鼻先にわずかな風を送ってきた。
近い距離でないと気付かぬ程度の、ほのかな香りがする。
ラインハルトは女性用の香水に詳しくもないし興味を持ったこともなかったが、それがあたためられた秋の陽射しを受けた林檎の匂いに
よく似ている事だけはわかった。
ヒルダが香水をつけているかどうかは知らないし、聞いてみた事もない。
もしかしたら化粧品とか、洗顔料の類かもしれない。
彼女に最も接近した夜──あの時に彼女からどんな匂いがしたか、それすら実はあまりよく覚えていない事に思い至って皇帝はかすかに
頬を赤らめた。
だが、この香りの趣味は悪くない。
女としての彼女をほとんど意識せずにこれまで過ごしてきてしまったが、いま初めて気付いたこの事実は彼の心にヒルダに抱く自分の、
異性としての好意を再確認させるに充分だった。
求婚までしておいて今更好意もなにもないのだが、ことラインハルトの場合にはその、非性的な分野に著しく偏った半生の特殊性を考慮せねばなるまい。
ヒルダはさりげなく、だが実は内心かなりの胸騒ぎを覚えつつ、急に黙り込んだラインハルトを見やった。
幕僚総監としての職務は欠勤後は完璧にこなしている。問題はないはずだ。
呼びつければいいものを皇帝自らここにわざわざ足を運ぶということは、さしたる理由がほかにない以上ラインハルトの話とはあの一件についての
ものに決まっているのだ。
一夜を共に過ごし、その翌朝に求婚され、まだ彼女はこの一週間、否とも応とも返事を返してはいない。
ラインハルト以外の専制君主なら、怒り始める頃合いはもうとっくに過ぎているのである。
果断即決の彼らしくもなくヒルダに返事を促す事さえしないのは、彼自身事態の展開にとまどっているのだろうし、実際自分が本当にラインハルトに
ふさわしいのかどうか、それが彼女にわからないのだからどうしようもないのだが──。
皇帝の傍らにも関わらず、ぼんやりと考えにふけっていたヒルダはふいに刺激を感じて我を取り戻した。
瞳を膝にやると、ラインハルトのかたちのいい手が自分の手の甲に重なっている。
ヒルダの心臓が飛び跳ね、彼女はとっさに、気付かぬふうを装ってさりげなく手をひき抜こうかと考えた。
だが、ラインハルトの手は揺るごうとしない。偶然ではない意思の存在を窺わせた。
「フロイライン・マリーンドルフ」
真剣な響きを口調にこめて皇帝が呼びかけてくる。
耳朶に吐息があたるほどの至近距離である事に気付き、ヒルダは動揺した。
「はい」
快活で明快ないつもの態度にはないしおらしさで思わず俯き、ヒルダは高鳴る胸を持て余すした。
求婚されたとはいうもののヒルダがラインハルトの意思を知ったのは父マリーンドルフ伯を通じてのものであり、直接皇帝の口から聞いたわけではない。
蒼氷色の目が注がれているのを感じ取り、ヒルダの頬は目に見えるほどに染まった。
「他でもない、その、最近──」
「はい」
「この…」
「はい」
言いよどむラインハルトを愚かとは笑えない。
ヒルダの舌も、はい以外の言葉のかたちを忘れてしまったかのようである。
「この、林檎のような香りは、何なのだろうか」
「……は?」
ヒルダはブルーグリーンの瞳を見張り、間近の蒼氷色のそれを見つめた。
「林檎の汁を絞って作った香水、なのだろうか」
「…………」
噴き出せばいいのか、それとも淡々と答えればいいのか、ヒルダは迷った。
だがラインハルトの目が真面目なのでとりあえず後者を選ぶことにする。
「林檎の香水はつけておりません。たぶん、リンスかなにかの香りではないでしょうか」
「?」
「そういうものには、カモミールという保湿成分が使われる事があると聞きます。林檎と似た匂いがいたします」
ヒルダが唇を閉じると、ラインハルトは感心したように頷いた。
「フロイラインは、なんでもよく知っているのだな」
「よくは存じておりませんでしたが、先日たまたま見ておりました番組の広告で──」
ヒルダの言葉が途切れた。ラインハルトの目が近づいてきたような気がして、座ったままかすかに躯を退く。
「広告で?」
皇帝が促した。
意識過剰を恥じ、ヒルダは話を続けた。
「はい。広告で、丁度このたびフェザーンの製薬会社が新しく開発した天然素材仕様の──」
今度こそ、ヒルダは背をのけぞらせた。
ソファの背もたれに後退を遮られたヒルダの胸元ぎりぎりのところで黒と銀の華麗な装飾の軍服が止まった。
「フロイライン」
「…はい」
「申し訳ないが、予は、その、本当は匂いの正確な素性はどうでもよいのだ」
白磁のようなラインハルトの頬の輪郭が淡く染まっているのを目の当たりにし、こんな場合なのにヒルダはそれを美しいと思った。
「…最近あなたに避けられているのではないかと」
ラインハルトは、握ったヒルダのほっそりとした手を安堵したふうに眺めた。
「だが、やはり杞憂だった。もう愚かな邪推はしない」
「そのような…」
ヒルダは歯切れ悪く口ごもった。実はラインハルトの推測の通りなのである。
別に避けているわけではないが……いや、嘘である。最大限に避けているのだ。
あのような事があったのは事実で今さらどうにもならないのだが、いくら自分で決心し一夜は彼の役に立ったのだと割り切ったつもりでもどうにもラインハルトに面と向かうのが照れくさくてたまらない。
あの夜の決意自体には一点の後悔もないが、事後の照れくささといたたまれなさの点だけでいえば後悔していると言われても言い逃れができそうにない。
それは自分だけの問題であると思っていたのだが、ラインハルトがそんなふうに気にしているとは思わなかったのでヒルダは少し驚いた。
少なくとも彼は求婚という彼なりに考える最大限の誠意を示したことでもあり、まさかヒルダの気持ちを把握しかねて困惑しているとまでは考えが及ばなかったのである。
彼がじっとヒルダの答えを待っているのは、その寛容さによるものとのみ考えていた。
比類なく聡明な頭脳と優れた洞察力を持ちながら、恋愛関係に限って異常に疎い。
この男女はまことによく似た者同士であった。
ヒルダがまた黙ってしまったので、ラインハルトは気遣わし気にブルーグリーンの瞳を覗き込んだ。
「それとも、杞憂ではないのか。フロイラインは、予が、その。好ましくは思えないのだろうか」
ヒルダは真っ赤になった。
まさか。
「以前は」
ラインハルトは、ヒルダのくすんだ金髪に視線を逸らせた。
「あなたは、初めて会ったときからこれまで、予になんら腹蔵なく接してくれていた。このところ避けられているのは、やはりあのことがあったゆえなのだな」
「違います、陛下」
反射的にヒルダは否定したが、その反応が早すぎたらしい。
ラインハルトの目が寂寥の色あいを帯びた。
「気遣ってくれずとも良いのだ。これも自業自得というものだろう。女性は、歓びを与えてくれない男性には冷たくなるものだとロイエンタールが話しているのを聞いたことがある。…あなたはあの時、とても辛そうだったし」
一体どういう席での話か、こういう場合なのにヒルダは思わず興味を抱いたがすぐに本題に話を戻そうとした。
「陛下、お言葉ですがそれは…」
「予は、彼とは違って実戦の経験に無惨なまでに欠けている。あなたに嫌われても不思議はないな」
ラインハルトはゆっくりとヒルダから離れた。
ヒルダを助け起こし、そっと手を放す。
「フロイライン、久しぶりにあなたの目を見て喋る事ができて嬉しかった。食事を続けてほしい」
ソファから立ち上がるラインハルトに、ヒルダは呼びかけた。
「陛下」
無言で振り向いた蒼氷色の視線にぎこちなく微笑む。
「もしお許しをいただけますなら、少しだけ私の言い分を聞いてはいただけませんでしょうか」
ラインハルトは迷うように黄金の頭を傾げたが、彼女の横に再び腰をおろした。
座り直し、ヒルダは躯の向きをほんの少しラインハルトに向けた。そういえば、目を見ることも避け気味だったような気がする。
ラインハルトの言は勘違いも甚だしいが、その内に見え隠れする真情はヒルダの不安をほぐすには充分だった。
「ロイエンタール元帥のお言葉ですが、それが真実かどうか、判じかねますから私には言及はできません。ですが、そのような理由で陛下を避けているわけではないのです。信じていただけますでしょうか」
「だが」
ラインハルトは唇をひき結んだ。その、どこかだだっ子じみた表情はヒルダがあまり見た事のないものだった。
「あなたは予を傷つけまいとしているかも知れぬ。それに事こういった現象に関しては、その道に詳しい者の言葉に重みがあるというものではないか。彼の見識を疑うなど、常に公平なフロイラインらしくはない。理由を」
「理由は」
詰め寄られたヒルダは少しく赤くなった。
「…よ、歓び、に至るまでには…あの、まだ、私の方が…未熟なのではないかと…思われるからですわ」
「………!」
ラインハルトの目が理解に煌めいた。頬が上気し、ヒルダに改めて向き直る。
「許してくれ、フロイライン。予は愚かだった。自らの技能ばかり気にしていてその可能性をすっかり忘れていた。すまぬ」
すっかり忘れていたのだそうだ。微笑ましいのか身勝手なのか、流石のヒルダにも判断がつかない。
「いいえ、これは私個人の問題で、陛下のみ心をお騒がせするような問題ではないのです」
「いや、フロイライン」
ラインハルトは彼にしかできない無意識の優雅さで眉を寄せた。
「それは違う。自分の都合であなたを手折ったのは予なのだから、問題があるとすれば改善の為介入すべき責任と、義務があろう」
ヒルダは一瞬実に複雑な表情になったが、ラインハルトは気付かなかった。
「それに」
皇帝は顔を逸らして呟いた。頬の上気が収まっていない。
「予は、その……あなたが許してくれるなら、介入したいのだ」
ヒルダの目が最大限に見開かれた。
ここに男女の間の機微に通じた人物がいて彼女の心を訪れた膨大な感情を分析したならば、報告書に費やされるべき字数の総量は朝刊一日分を
軽く越えるに違いない。
だが彼女は何も言わず(正確には何も言えず)、皇帝の手がさまよってきて自分の手にまた重ねられるのをじっと見つめるのみである。
身じろぎをしないままの躯の中に荒れ狂う嵐は、ヒルダが生まれて初めて味わう類の興奮を伴っていた。
ラインハルトがここにやってきたのも、自分が今身動きできないのも、おそらく同根の感情によるものであることが、理性の分析というよりも
彼女の躯自身が本能として知っているようだった。
皇帝は彼女に会いたくて、そしてそれはヒルダも同じだったのだ。
ラインハルトが体重をかすかに傾け、重なった手を軽くひかれた。
促されるようにヒルダは顔をあげ、蒼氷色の視線に包まれている事を知るとぱっと赤くなり、整った顔を再びさげようとした。
顎を皇帝のもう片方の指が軽くはさみ、彼女の動きを妨げる。
ラインハルトの唇が自分の唇に触れるのを、ヒルダは目を閉じるのも忘れてみつめていた。
彼はわずかに離れ、ヒルダが固まっているのに気付くと表情の選択に困ったような微笑を浮かべた。
「予は、あなたに無理強いしているのだろうか」
ヒルダは急いで首を振った。それだけは違う。
ラインハルトの目が和らぎ、ヒルダは肩から背中に皇帝の腕が廻された事で自分たちがこれからの事に同意しあった事を悟った。
これは本当に自分の執務室で起こり得べき事なのだろうか──ゆるやかに押し倒されながら、ヒルダはラインハルトの胸に震えている手を添えた。
***
頬に、瞼に、黄金色の長めの髪が触れている。
「フロイライン・マリーンドルフ」
色気のない普段通りの呼びかけに伏せていた睫をあげると、ラインハルトが上気した顔で見つめていた。
蒼氷色の瞳に映り込んでいる自分の顔を認め、ヒルダは魅入られように微笑した。
ラインハルトの唇に呼応した微笑が浮かび、重みで負担をかけぬよう彼は肘をつきながらヒルダを座面に横たえた。
接客用の大きめのものとはいえソファはソファである。
狭苦しく不自由な体勢で縮まった距離に、双方ともに互いの少々倒錯めいた興奮を感じ取った。
「…嫌なら、今のうちに言ってほしい」
指先の温もりがヒルダの硬質の唇の輪郭をかすめて撫ではじめ、ヒルダは羞じらいをこらえながら、ラインハルトの指先が縁を越えて内側に
入り込むのを許した。
ヒルダの唇を柔らかく摘んで揺らし、ラインハルトは彼女が厭がらないことを自分なりに納得したのか、ぐいと顔を近づけた。
午後遅くの光が窓全体からやや斜めに差し込み、執務室全体をどことなく現実離れした明るさに染め上げている。
再び接吻を受けながらヒルダは腕をあげ、頬を刺す黄金の髪に遠慮がちに掌を添えようと──して、口腔の刺激に注意をとらわれた。舌がヒルダの
唇の内側に入り込み、滑らかな歯の表面を確かめるように撫でている。
確認されるのが恥ずかしくなって逃れるように顎を開くと、ラインハルトは遠慮の気配を見せず、さらに内部へと入り込んで来た。
豪奢な髪の流れを彼の額から掻き揚げるようにヒルダは掌を滑らせ、反射的に押しやろうとした。
軽くではあるが呼吸が苦しくなったせいもある。
押されるままに皇帝は顔をあげ、ヒルダの唇からわずかに離れた。
拒絶の仕草を見せてしまった事にヒルダは気付いたが、ラインハルトは怒りを覚えてはいないようだった。
どうやら彼の胸の内で迷いの時はすっかり終わりを告げたらしい。
蒼氷色の瞳をやや細めて息のあがっている彼女を眺め、彼は今度はかなりの力でヒルダに胸を押し付けて来た。
背に廻された腕に力がこもるのがわかり、ヒルダはほっそりとした躯をくねらせた。
その動き自体には特に意味はないのだが、ラインハルトはヒルダが身をよじるとますます強く抱きしめてくる。
「ダメだ。逃げる事は許さない、フロイライン」
「は、…あ…っ…」
すでに一度抱かれてはいても、酒の気配のないラインハルトに気合いを入れて取り組まれるのは当然ながらに初めてのヒルダは、
その意思の強さと発散される雄の迫力を感じて一瞬怖じ気づいた。
締め上げてくる腕の環が彼女の躯を絡めとって身じろぎもできない。
「陛下、…逃げはいたしません、あの、く、苦し…!」
「あ」
耳元でラインハルトが呟いた。苦痛の声に、一瞬正気に戻ったようである。
急いで腕の力を緩め、彼はヒルダの顔を覗き込んだ。
「すまない。大丈夫か」
「は、はい」
ヒルダは息を整えながらおそるおそる、乱れた皇帝の髪を撫でた。さっき、抗う爪先で思い切り引っ張ったような気がする。
皇帝はそれに気付き、温かな微笑を漏らした。
「あなたの力程度ではそう痛くはない。フロイラインは心配性だな」
「お許し、くださいませ」
自分たちが状況と乖離した的外れな会話を交わしている事にこの男女は気付いていない。
このごに及んでフロイライン呼ばわりをしているラインハルトもラインハルト、それに気付きもしないヒルダもヒルダである。
ラインハルトは額から垂れ下がっている自分の髪の先端を眺め、呟いた。
「もういい加減、長過ぎるのだ。そろそろ切ったほうがいいと今朝もエミールに言われた。わかってはいるのだが面倒で」
「陛下はご多忙でいらっしゃいますから、無理もないのではないでしょうか」
言い添えるヒルダのくすんだ輝きの金髪にラインハルトは指先を潜らせた。
「だが、そう言うあなたは忙しくてもいつも身綺麗にしているような気がする。心がけの問題だろう」
そのままヒルダの短い髪に顔を埋め、ラインハルトは呟いた。
「林檎」
ヒルダは頬を赤らめた。
「いや、なんといったかな…」
呟きはやんだ。
こめかみから頬にかけて唇を押し付けられ、ヒルダは居心地悪く反対の側に首を巡らせた。
視界の隅を鮮やかな色の布が流れる。
喉が空気に触れた頼りない気配に、襟元のスカーフを抜き取られた事に気付いた。
てきぱきとした作業過程である。敵、ではなかった、皇帝陛下の士気は高水準で維持されているようだ。
ヒルダは突如、自分の目の前に立ちふさがり至急の決断を迫っている分水嶺を発見した。
微妙に分かれて二方向。
ひとつは、まだ馴れておりませんどうか無作法をお許しください的遠慮勝ちにラインハルトの好き勝手にさせる側。
もうひとつは、二度目でもありますしできる限り協力させていただきます的開き直りでラインハルトのし放題にさせる側。
ヒルダがどちらを選んでも皇帝大満悦という結果に流れ込む点では同じだが、彼の心に与える印象は随分変わってくるに違いない。
(無理矢理ではなく)征服される側としてはなかなかに頭の痛い心構えの問題である。
最初の夜は悩む暇などなく、ただひたすらラインハルトに寄り添っているだけで精一杯だった。
してみると彼女にも、二度目の余裕が生まれているのかもしれない。
だがどちらの側を選んだとて、自分がその選択を厳守できるかどうか、ヒルダには自信が持てなかった。
ヒルダが悩んでいる間にも、黄金の獅子は彼の美しい花を愛でていた。
スカーフに隠れていた透き通るようなと形容するに相応しい柔肌に視線を止め、唇で輪郭を確認する。
舌越しに喉が震えている。
彼女がくすぐったげにおさえた喘ぎを漏らすとラインハルトの接吻は熱意の度を増した。
ヒルダの躯つきは優美ですんなりしたものであり、腕にはまりこむとまことに抱き心地がいい。
中性的な、美貌の少年めいた雰囲気を持つ彼女だが、こうして味わう躯の熱や柔らかさは男としてのラインハルトの欲望を刺激する。
大本営幕僚総監として、あるいは知的に対等な得難い相談相手としての彼女の半面はこの時ばかりはラインハルトの認識からどこか遠く
離れた場所に滑り失せていた。
皇帝という立場にありながらラインハルトは、女関係での潔癖さにかけては原因はともかく結果的には同類の故ヤン・ウェンリー元帥と
同じ位置に佇んでいたのだが、どうやらそれは適当な相手が身近に現れなかっただけということになりそうだった。
かといって、ヒルダが特殊な性的魅力を持ち合わせていたというわけでもない。
たまたま(あるとすれば)彼の好みに合致したのであろう。
だがそんな後世の歴史家のややいかがわしげな考察は、好ましい女性を腕に抱き、先を急ぐ若者には関係のない事だった。
ラインハルトは顔をあげた。彼女の軍服の襟に手を滑らせた。
ヒルダはブルーグリーンの瞳を見開いて喘ぎつつ、どう反応すればよいのか未だに決めかねて迷ったように彼を見上げている。
その清楚に染まった美貌に誘われて、ラインハルトは唇の端に微笑になりかける寸前の表情を刻んだ。
フロイライン・マリーンドルフは可愛い。
その感慨をとりあえず胸の奥に畳み込む。
今は彼女を感じたいだけだ、好ましい理由についてくどくどと考えている暇はない。
あの夜とは違った熱が頭の奥に火照り、それが酒精どころではない酔いで彼を彼女に惹き付けている。
いかに構造を熟知していようが、他人の衣服は脱がしにくいものである。
ラインハルトが手間取っているのを察知したヒルダが、ためらいながらも繊細な指をその傍らに置いた。
協力しながら襟をくつろげ、少しずつ上着をはだけていく。
前がすっかり開いてしまうとラインハルトは彼女の指に指を絡ませて空中にのばした。
ソファから床までの空間に腕が重なって揺れ、もう片方の腕が背中を持ち上げるのをヒルダは感じた。
不安定な体勢を自力で維持するのは無理なのでラインハルトに任せると、彼は持ち上げたヒルダの肩から上着の袖を、
ややもたつきながら抜き取った。
もう片方は背もたれのせいでもっと難しかったが、ラインハルトはやり遂げた。
ヒルダはその間手持ち無沙汰でもあり、やはり明るい場所が恥ずかしいのか長い睫をぴっちり閉じてしまっている。
思い出したように皇帝はその頬に接吻し、訊ねた。
「予も脱いだ方がいいと思うのだが、フロイラインはどう思う?」
瞼が揺れ、綺麗な色の瞳が現れた。
湖みたいな色だな、と皇帝はまた胸の奥に独創性には欠けるが真情のこもった感慨の切れ端を蓄えた。
ヒルダは紅潮したままの頬をラインハルトの唇に委ねながら小さな声で囁いた。
「陛下が、そうなさりたいのでしたら」
ラインハルトは頷くと、ヒルダの手をとった。襟に彼女の指をあてるとヒルダは理解し、協力作業を再開する。
その間にもラインハルトはヒルダのベルトを外し、さっさと緩めてズボンを引き下ろしてしまった。
この場合、彼女が男のような格好をしているのは彼にとって実に好都合である。
もし女の格好をしていたら、構造自体はともかく違和感にとまどって、かかった時間は倍どころではなかっただろう。
華麗な黒と銀の軍服の上下が床の絨毯に滑り落ち、彼女のそれと重なった。
ブラウスの生地がまとわりついたヒルダの細い躯に腕をまわすとラインハルトは動きやすくなった肩に彼女を引き寄せた。ヒルダの腕が
背中に廻されたので満足し、膝をそっと押し上げて互いの脚を絡めていく。
自分でも知らぬ幼児性を持ち合わせているのか、皇帝陛下はとりあえず彼女にもっとくっつきたいのである。
密着すればするほどヒルダの躯はあたたかく、柔らかく思えて彼は自分でも驚いた事に非常に幸せな気持ちになった。
ブラウスの生地は上質であるがゆえにいささかひんやりと冷たいが、それも互いの体温で挟まれているとすぐに感触だけの存在になった。
その裾から手を差し入れてみるとヒルダの頬の色が濃くなった。
だが、彼女はじっと息をひそめてラインハルトを見上げている。
その縋るような目に頷き──どういう意味で頷いているのか、実は自分でもわかっていない──彼はブラウスとは比べ物にならない、しっとりと
心地よい肌に掌を這わせた。
なめらかで遮るもののない柔肌は掌に染み通るような熱を抱いており、あちこちを探るとヒルダの唇から呼気のかたまりが少しずつ漏れる。
さらに掌をおしあげ、彼は下着の存在に気がついた。
指で探るとレースらしき防御物で彼女の胸のかなりの部分が覆われている。
ラインハルトの、画家が描いたようにかたちのいい眉が顰められた。
…わからない。前回、どうやって外しただろう。
ヒルダはラインハルトの困惑に気付かなかった。じりじりと太腿を押し広げられている脚のほうも気になるし、胸のあたりを這っていた手が急に
動きをとめたのも休息が与えられたような気がしてほっとした程である。
だから、いきなりブラジャーの裾をくぐって彼の指が直に肌にめりこんできたので仰天した。
いくらヒルダがほっそりしているといっても躯にぴったりあった下着なのである。
そんな事をされれば痛いに決まっている。肩を竦め、ヒルダはラインハルトに視線をやった。
皇帝はしばらく指を動かしていたが、やがて癇癪をおこしたようにぐいと指の関節にひっかけて邪魔なブラをずりあげてしまった。
外せないのだわ、とヒルダは思い、こんな場合なのにそれがどうしようもなく可笑しくてラインハルトが愛しくなる。
急いで背中を浮かせてホックをゆるめようとするが、長身の彼の重みでうまくいかない。
「陛下」
ヒルダは囁こうとしたが、ラインハルトが頭をさげたので耳には届かなかったらしかった。
あらわになった淡い色の頂点に唇を感じ取り、ヒルダは協力を諦めた。
どうやらラインハルトは焦れているらしいと悟ったのもあるが、ヒルダにしてもいろいろ照れくさくてやりきれないのだ。
それに、すぐそんなささいな違和感は消えてしまった。
ラインハルトの唇が片方の乳房の先端に触れたあと、さまようように移動を繰り返し始めた。
ヒルダの胸は豊かというわけではないが、それでも細身なりにそれなりの質量を備えている。
柔らかく沈みこむような肌で形作られた重みも張りも充実しており、ラインハルトはその甘やかな感触にそっと顔を埋めながらもしみじみと思った。
(うむ。フロイラインは、まぎれもなく女性なのだな)
特に名は秘すが(秘さずとも丸判りだが)その武勇のみならず女性達との豊富な交流の数々でも名を馳せている元『薔薇の騎士』連隊長あたりが
知れば不逞の仲間とともに床を蹴り付け腹を抱えて吼え笑いまじき感慨である。
だがこれでもこの、軍政覇道に著しく偏った人生を歩んで来た皇帝にしてみれば強い感動を伴った真摯な想いなのだ。
人生いろいろ、男もいろいろ、他者がどうのこうのとコメントを付け加えるべき問題ではなかろう。
***
人生いろいろ女もいろいろ、愛撫されている当のヒルダにしてみても皇帝を笑い者にできるほどの経験など生憎薬にしたくとも持ち合わせてはいなかった。
なにせ交渉相手は『この』ラインハルトだけ。
しかも前回彼は酔っぱらっていた上に深刻に救いを求めていたのである。
当然彼女も必死でラインハルトを『慰める』事だけで精一杯、快楽追求など有り得ない状況だったのだ。
だが今回は双方ともにそれとは全然別の状況だということが、彼女にはわかっていた。
ラインハルトはどうやらヒルダとこうしている事を『愉しんで』いるように見える。
さきほどからまごついているだけだったヒルダは、ラインハルトが乳房の輪郭を撫で、唇で啄みはじめるとついに腹を括った。
どこをどうすれば男性の気に入るのかさっぱりわからないが、現に彼はヒルダの躯に没頭している。
余計な気は使わなくてもいいのだ、そうなのだ。
媚びを厭い、これまで己の犀利な知性のみを武器として生きてきた彼女はまがりなりにもそう結論づけ、次の瞬間美しい唇のかたちを歪めた。
「あ、…はぁ、ん…んっ…?」
誰の口から出たはしたない喘ぎかと聞かぬふりで無視したくなったが、それはできなかった。
自分だ。甘くて頼りなくて常にはない色気を帯びている。
ヒルダはまだしっかり頭の片隅に残っている理性を総動員させて唇を閉ざした。
濡れた熱い感触が敏感な先端を覆っている。ラインハルトが口で覆って軽く吸っているらしい。
とてもその光景を視界にいれることができず、ヒルダは喉を仰向けて吐息を逃した。
ラインハルトが吸うたびに、自然と躯がびくびくと動く。
熱が離れたかと思うともう一方の頂きが襲われてヒルダは呻いた。
しっかりと歯を噛み締めてこらえていると、顔をあげた皇帝が囁いてきた。
「フロイライン」
「は、あ……は…い、へいか…」
くっきりとした返答ができなかった。ふちが蕩けてぼやけたような声で彼女は応え、ラインハルトが量るように乳房の重みを掌で持ち上げると
さらに溢れそうになる甘い声を押し殺した。
「手を」
ラインハルトの首に廻していた腕をひかれ、ヒルダはようやく睫をあげた。
柔らかな重量に触れ、それが自分の乳房である事に気付いてけげんな顔をする。
ラインハルトはヒルダの繊細な指を掴むと、唾液でつやつやと濡れている彼女の乳首に誘導した。
確認させようと、ヒルダの指もろとも乳房の先端を摘む。
「ほら、こんなになった。綺麗で、可愛らしいかたちだ」
「……っ…」
びくん、とヒルダの躯がはねた。
鼓膜をくすぐるような声で彼女は啼き、喘ぎながら首を振った。
大きな掌の熱に包まれ、はるかに細く感じる自分の指先で敏感な芯を擦るなど、これまで想像もしたことのない強い快楽だった。
「あ……あ、いや…」
ラインハルトの得意げな表情に不審が滲んだ。
「いや?」
「お赦しください。いや、いやでございます…」
「綺麗なのに」
残念そうに呟いて、ラインハルトはそっとヒルダの指を放した。
だが彼女が急いで腕を戻しても機嫌を損ねた様子はなく、気を取り直したように掌を滑らせてくびれた胴を掴んだ。
胸が密着して見上げて来たヒルダの唇に、彼は唇を押し付けた。
「ん…」
すぐに舌が入ってきてヒルダは対応を余儀なくされた。
とはいっても大した対応をせずともラインハルトの舌は喜び勇んで彼女の内部を確認して回っている。
なんだか性急な動きだったから、ヒルダにも皇帝の興奮と期待がそのままつぶさに伝わってくる。
ヒルダは唇をさしだしながら、金髪の覇王の首から背中に掌をずらした。
引き寄せるように力をこめると、ラインハルトがうっすらと目を開いた。
いつもは鋭い蒼光色の瞳がけむったように和らいでいて、彼はその光に微量の了解を混ぜるとヒルダの背に再び片方の腕を廻した。
互いに好ましく思っている人間同士が仲良くくっついているのは、基本的に愉しい事なのである。
それが男女なら言わずもがな。
さっきからラインハルトがもう片方の掌で彼女の太腿の輪郭を撫でている事をヒルダは知っていたが、その力が強くなってきている。
肌を撫でながら時折ぐいと内側に親指をかけるようにしているので、どうしたいのかがあまりにも明白だ。
ヒルダはちょっと躊躇したが、少しずつ膝を緩めた。
たぶん今皇帝と彼女が行っているのはいわゆる『前戯』というものなのだろうが、どの程度で切り上げてもいいものか、おそらくラインハルトにはわからないのだろう。ヒルダも同様ではあるが。
その証拠にラインハルトは、しばらくヒルダの膝が緩んだ事に気付かなかった。
深い接吻が何度か繰り返され、彼女が新鮮な空気を求めて喉をそらしたので顔を離した彼のけむったような目がふいに輝いた。
整ってはいるが今は染まりきった顔に視線を投げ、彼女が伏せた目にぎこちない羞らいを含ませるとラインハルトは頷いた。
急いで腿を割る掌の動きはそれでも優しさを感じさせるものだったから、ヒルダの心遣いは報われたといってもいい。
挟み込んだラインハルトの腰は、いくらすらりとしていてもやはり男性だからきっちりと横幅がある。
締め付けぬよう精一杯腿を開こうとして、今の自分たちの体勢に随分無理がある事にヒルダは気付いた。
いや、体勢自体はこの種の行為には最も一般的とされるものなのだが、問題は場所にあった。
てっとりばやく言えば、ソファの背もたれが邪魔なのだ。
だがヒルダの当惑は短くて済んだ。皇帝自らが解決にのりだしたのだ。
ラインハルトはヒルダの脹ら脛を優雅に掴むと、そっとソファの背もたれにかけるようにして排除した。
そのごく自然な対処にヒルダは思わず賞賛を禁じ得なかったが、ただ、問題が解決してみるとこの姿勢は恥ずかしいどころの騒ぎではない。
皇帝の躯の下にいるからそれほど露ではないが、大股開きと称されるポーズに間違いはない。
そうと知った美貌の伯爵令嬢は真っ赤になったが、ラインハルトのほうは一向に動じた様子はなかった。
極めて珍しい調子を声に含ませて皇帝は彼女に呼びかけた。機嫌をとるような響きである。
「フロイライン…」
そのまましばらく、狭苦しい体勢で鑑賞している様子なのでヒルダはついに叫んだ。
「陛下、どうかご覧にならないでくださいまし」
「…ああ」
夢から醒めたようにラインハルトは呟き、視線をヒルダのやわらかくひきしまった下腹部のあたりから持ち上げた。
「大丈夫。この姿勢では、あまりよくは見えない」
一瞬、自殺でもしかねない表情になったらしい。ラインハルトは慌てたそぶりで伯爵令嬢を引き寄せた。
舌打ち寸前の低い声で彼は呟いた。
「すまない。おれ、いや…予は失態ばかりしているな」
ヒルダは吐息をつき、ラインハルトに引き寄せられるままにしがみつく。
豪奢な髪が伝わる鼓動にあわせて目の前で揺れる。
ヒルダは溶けた黄金のようなその髪に指をくぐらせた。
至尊の冠を戴く男に対して畏れ多い振る舞いではあるのだが、どうしようもなく不器用なこの若者が無性に好ましいのはその特別な身分のせいではないのだからこの場合ばかりは許されるだろうと思う。
ラインハルトはヒルダにしがみつかれた感触をしばらく味わっている様子を見せたが、やがて彼女の腕を掴むと距離をおいた。背に廻されていた彼の掌がおりてゆき、やがて小さめの尻に落ち着いた。
さしこんだ掌で腰を軽く持ち上げられ、ヒルダの背に緊張が走る。
だがここまでくると今更どうのこうのうろたえられる状況でもない。彼女は余計な力を抜こうと試みた。
狭い入り口に熱い肉が触れる。
その感覚にヒルダが身をこわばらせる間を置かず、ラインハルトは先端を突き立てるように押し入ってきた。
声をあげず、ヒルダのやわらかい背がかるくのけぞった。
二度目だからとどこか楽観視していたのだが、やはり興奮した状態の男を楽に受け入れるにはまだ彼女の躯はこの行為に馴染んではいないのだ。
それでも、ラインハルトの侵入が乱暴ではないので彼女はすぐに我に返った。
目をあけると、気遣わし気に上気した顔で、皇帝が様子を眺めている。
ヒルダは頸をふり、頬にかかった短いくすんだ金髪を払った。
ラインハルトの肩に改めて掌を置き、自分から腰を押し付けるようにして控えめに次の行動を促した。
豪奢な金髪の若者はヒルダの躯を抱えなおし、侵入を再開した。
それがとてもゆるやかなので、きっと相当に気を遣ってくれているのだとわかった彼女の胸は熱くなった。
時間をかけてすっかり躯を密着し終えると、ラインハルトはヒルダの胸に黄金色の頭を落として軽い吐息をついた。
「…フロイライン」
声が胸郭に響く。
「心地いい」
美しい頭を抱きながら、ヒルダもそう思った。
馴れぬ肉を開かれた瞬間はともかく今は痛みはさほどではなく、それよりも全世界の誰よりも身近にこの若者を感じている現実に、頭がくらくらするほどの喜びを感じていた。
この喜びのためならば、どんな事でも耐えられる、かもしれない。
だから、ラインハルトが上体を起こし、貪るようなキスをはじめてもヒルダはもうなにも怖くはなかった。
唇を挟みあい、唾液を吸われながら彼が動き始めたのがわかった。
重く脈打つ違和感よりもその情熱的な速度のほうが今のヒルダには重要で、彼女は若者の躯をかき抱いた。
ただもうラインハルトが愛しく、彼に自分をそっくり与えることができるのが嬉しく、ヒルダは昂る熱のまま甘い声をあげはじめた。
その声の質をもはや恥ずかしいとは思わなかった。
ラインハルトが繰り返しおしあげるたびに革張りのソファとヒルダの汗ばんだ肌が異議をとなえて奇妙な音をたてていたが、双方ともに夢中になっていて気付きもしない。
突かれるごとにヒルダの思考が輪郭を失い、白く漂されていく。
自分がなくなってしまう恐怖は、だがこの場合ひどく甘美なものだった。
普段の二人を考えると確かに常軌を逸していたこのひとときは、だが実際にはそれほど長い時間でもなかった。
ヒルダを労るあまり精一杯慎重に事をすすめてきたので、たがが弾けてみると一直線に疾走するしかなかったのだろう。やがてラインハルトは小さく呻き、美しい伯爵令嬢の腰を力任せに抱き寄せた。
いつのまにかソファから離れ、ラインハルトの腰に巻き付き、動きにあわせてぎこちなく揺れてたヒルダのすんなりした脚が震えた。
奥深くまで彼を呑みこんだ躯の芯が限界を越え、彼女はラインハルトの耳朶に頼りな気な啼き声を漏らすと体中の力を抜いて、くたくたとその腕に沈んだ。
最後の力で彼女を抱き直してその胎内に滾りを叩き付け、ラインハルトも優しい躯の上に崩れ落ちた。
***
身支度を手伝わねば、と起き上がろうとするがどうにも力が入らない様子のヒルダを制止して剥き出しのままの肩にひとつ接吻を落とし、ラインハルトは躯を起こした。
怠い。
いつの間にやら午後の陽射しはごく低い角度に変わり、室内に夕刻と呼んでもいい雰囲気を醸し出していた。
この後の予定は何だったろうと彼は考え、思い当たると、かなり乱れた豪奢な金髪を振った。
「…今夜は確か、お出かけのご予定がおありでは?」
ヒルダの声がしてラインハルトは振り向いた。
彼女が首席秘書官だった時分にはラインハルトの行動予定は全てその管理下にあった事を思い出し、彼は頬に微笑を刻んだ。
「ああ、今夜は舞台を…古典のバレエだったかな」
潤いを帯びたブルーグリーンの目が見開かれるのを、皇帝は少し楽しむような気分で眺めた。
「古典バレエ…ですか?」
非礼を忘れて訊ねてくるその驚きようがおかしくて声をたてて笑う。
「うむ。ビッテンフェルトと一緒に」
今度こそヒルダが呆然としたので、成功したいたずらを誇るこどもに似た表情を見せた若い皇帝は、ソファの傍らに立った。
ヒルダを助け起こし、それぞれ身支度を整えながら、ラインハルトはどうしようもなく塞いでいた胸の鬱屈がかなりのところまで吹き飛んでいるのを感じ取り、頷いた。
逢いに来たのは正解だった。
最初は話し合いのつもりで来たような気もするが、まあいいだろう。
フロイライン・マリーンドルフは先日の件を根に持ってはいないし、5メートル以内に近づける事もわかったし、求婚を受け入れてくれるかどうかは不明だが少なくともさっきの反応を見る限りでは希望が持てそうな雲行きである。
もうしばらく待つことに決め、ラインハルトはヒルダを見つめた。
「フロイライン」
なんとか見苦しくない程度に身支度を終えた彼女は、幕僚総監という要職には相応しくない表情で皇帝を見返した。
「はい、陛下」
「ありがとう」
ヒルダは赤くなり、俯いた。
それ以上の言葉はやめたラインハルトの脳裏に、ふと、いつもひたむきな少年の顔が浮かんだ。
「…伝言を預かっているのだ。エミールが、フロイラインに今度ぜひお茶の時間に来て欲しい、と」
ヒルダは頸を傾げた。
「エミールが、ですか?」
「そう。エミールが」
ラインハルトの蒼氷色の瞳には苛烈さだけでない活き活きした光が宿っていて、ヒルダはわずかの間、見蕩れた。
「予の居間を提供するように頼まれている」
「………」
彼女はゆっくりと唇をほころばせた。ますます、幕僚総監には見えなかった。
「ぜひ伺うと、お伝えくださいまし」
「良かった。エミールが喜ぶ」
***
皇帝ラインハルトのすらりとした長身が幕僚総監の執務室の扉から現れた。
外の柱の傍には影のようにキスリング准将が控えており大本営の中心部にも関わらず周辺の廊下には人の気配が絶えていたが、黄金の獅子は一向構わず(気付かず)、自信と精彩に満ちた足取りで自分の部屋へと歩いていった。
皇帝とフロイライン・マリーンドルフの間柄に自分が果たした役割をエミール・ゼッレ少年が知る事は決してなかったが、知ったとすれば非常に喜んだことだろう。
おわり