アッテンボロー×ヒルダ1/◆UyhdNh9lUA(4-244) さん
中年…いや、青年アッテンボローは景気の悪い顔を引っさげて街を歩いていた。
彼は倦んでいた。
永年の戦乱に終止符が打たれた後、彼が宇宙の次に選んだステージは地上であった。
アッテンボローは見通していたのである。
平和な時代に必要なのは天才ではなく、日常を維持していく賢人であるということを。
もちろん賢人とは彼自身のことではない。旧同盟軍の男どもの上に気高く立つあの人だ。
荒れた野原が回復すれば、可憐な花ばかりでなく雑草も勢い良く伸びるというもの。
アッテンボローは彼が敬愛する人たちが命がけで守り抜いた、民主主義という庭園の
草刈番として自ら立候補して、政治の世界へと身を投じたのである。
「いや、ありゃ身投げというより嬉々として首を突っ込んでいった感じだな」
外野の声を右から左へと通過させながら、アッテンボローは日々政治に励んでいた。
最初の頃は帝国との折衝やら議会の成立に東奔西走するやら活気に満ちた毎日だったが
適切な環境が整えば、民主主義のささやかな双葉のほかにも、毒草だって生えるのである。
トリューニヒトを百分の一にしたような輩が、戦乱中にはとんと見られなかったのに
同盟が復興するにつれ、清潔であるべき庭園の中に厭らしい蔦をワサワサと伸ばし始めている。
したがって、アッテンボローは草刈番として非常に忙しく働かねばならぬ最近である。
正常で健全な政治の天秤のバランスを保つための片方の重りとして、彼の役目は重要だが
現実には多数与党の席端に追いやられた弱小野党の党首という立場でしかない。
それでも、彼は差し伸べられてくる手を丁重に退け続けていた。クリーンな相手であっても。
一匹狼を気取っていたわけではない。徒党を組み、それが暴走したとき誰が食い止めるのか?
「そのために、俺はあえて孤高を選んでいるんだ」
「何言ってやがんだ、頭を下げるのが嫌だっていうお前さんの性格だろうが」
「解釈はどーぞご自由に」
「っか〜!そんなところだけいっぱしの政治家に成長しやがって」
「いやいや、貴方様にはかないませんよ?」
「その嘘くさい選挙スマイルやめろって、うわ笑顔でこっち向くな!握手してくんな!
もーこいつをなんとかしてくれよユリアーン」
「ははは…相当ストレス溜まってるんで仕方ないですよ」
「ちょ、見捨てんなよっ!」
「彼も忙しいですからね、貴方も彼の立場を理解したほうがよろしいですよ?」
「すみません、よろしくお願いします」
「てめえ!先輩の窮地よりも女をとるかぁ!!」
「はっはっは。夜はこれからですよ飲みましょう!ポプラン君ぅん!」
「いーやーだーーーーーーーーーー!!!!!!」
雑草退治の精神的疲労にはそういった他愛も無い話を気心の知れた相手とするのが
なによりの解消法であったが、それにも限界がきたようだ。
昨夜の深酒だけではない疲労が彼の内側で澱み、沈殿し積もり重なっている。
ニュース速報の光る文字が右から左へと流れていくのを、重い頭で眺めていた。
(政治家の看板を降ろして、ルポライターにでも鞍替えすっかな)
整ったインテリアの会議室で繰り返される徒労に似た質疑応答の地味さに比べて
ペン一本で巨悪を叩くという行為は遥かにアッテンボローの意欲をそそった。
(にしても、巨大メディアに殴り込むには特ダネの一本も持ってないと無理だろうな)
「なんか、いいネタでも飛び込んでこないかなあ!」
いつの間にか丸まっていた背中をそらし、大きく伸びをする。
頭上には彼の内心風景そのもののような曇り空が広がっていた。
どれくらい立ち止まっていたのか、アッテンボローの背中に柔らかい物が衝突した。
謝りながら背後を振り向くと、ぶつかっただけなのに泣き出す手前の顔で相手に見上げられた。
「ど、どうなさいましたか?!」
「息子を探しているんです!迷子なんです!一緒に探して下さいませんか?」
突然そんな頼みごとを持ちかけられてもと戸惑いながら相手の正面へと向き直った。
サングラスをかけ、帽子を目深にかぶっているがそれでも相当の美女だというのが分かる。
身なりも、かなり上質なものだと見て取れた。
息子というからにはダンナ持ちだな――ポプランじゃないので人妻は圏外だが、
美人のSOSに応じるのはむしろ歓迎、もちろん喜んで引き受けますってことで
アッテンボローは「イエス」と力強く彼女の頼みに頷いた。
「で、ミセス。そのお子様の名前は?」
「…ごめんなさい、それは言えません。けれども服装なら。年は四歳、白のセーラーに
紺の半ズボンで金髪の子です」
「こんな人ごみの中じゃ、名前を呼ぶほうがてっとり早いでしょうに」
「それはできないのです。お願いです、なんとか一緒に探していただけないでしょうか?」
一度は承諾したのだし、目の前の彼女は見るからに焦燥している。
助ける気が失せたわけではちっともないが、それにしても、奇妙な事情である。
「ここらへんで子供が迷い込むようなところといえば…セントラルデパートですかね」
「連れて行ってください!」
すぐ50メートルほど戻ると、巨大なウサギが子供たちに風船を配っている。
ピンときたアッテンボローがそのウサギに尋ねると、はたして、まさにその格好の男児に
風船を少し前に渡したのだという。
「じゃ、きっとまだ近くにいますよ」
緊張のあまり肩を震わせる彼女の肩をなだめるように優しく抱いて励ましたあと、
彼女の手を引いてデパートの玩具売り場の階まで足を速めた。
しかし、どの棚の陰をのぞいてみても、彼女が探す息子は見つからない。
とうとう、彼女はその場に手をつきうずくまってしまった。
宥めようと同じく膝をついたアッテンボローは彼女のハンドバッグから鳴る電子音に気が付いた。
それも耳に入っていない彼女にそれを教えると、彼女はもどかしそうに通信機を引っ張り出して
ボタンを押す。すると、画面にはまさに探していた姿の男児が映し出された。
お人形のような、という形容では足りないほどの美形な子で、アッテンボローが心底感嘆して
画面を眺めていると、彼女の珊瑚色の唇から帝国語が流れでた。
聞くともなしに聞いていると
「ああ!アレク!あなたいったいどうしたの!」
「ムッター、どこに居るの?」
甘えた可愛らしい声の後、次は同じく幼い子だがしっかり喋る子に代わったようだ。
「ごめんなさい!僕がいっしょにいながら」
「ああ、あなたもそこに一緒にいるのね!」
うん、うん、と彼女は相槌をうつ。
「いいのよ、大丈夫、貴方はとても偉かったわ、フェリックス。いいえ、私がいけなかったのです」
ついで今度は大人の女性に代わった。クリーム色の髪にすみれ色の瞳をしたこれもなかなかの美人である。
「プリンツアレクを連れたフェリックスが二人だけでホテルに戻ってきて、こちらは仰天しましたわ。
とにかく、二人とも無事でようございました」
「ああもう、本当に申し訳ありませんでした。慣れない事はするもんじゃないわね」
「いいえ、あの年頃の男の子は本っ当に大変でございますから」
苦笑交じりに、しかしふんわりと優しげな女性の声がスピーカーから響く。
「少し…気を落ち着けてからホテルに帰ることにします。あとしばらく二人のことお願いしますわね」
どうぞお気をつけて、という声のあと画面はプツリと暗転した。
「息子さんも無事見つかったようですので、私もお役御免ですね」
耳に飛び込んできた幾つかの単語に、まさか、と思いつつ彼女にいとまを告げると
「いいえ!なにか、お礼をさせてください。一緒に探し回ってくださったのだから」
そう言った後、何かに気付いたように濃い色のサングラスの奥の瞳が見開かれた。
「貴方は…共和国議会議員のアッテンボロー氏?」
おや、というように眉をあげ、アッテンボローは首肯してみせた。
「しがない弱小野党議員ですがね。それにしても帝国人の貴女がよくご存知でいらっしゃる。
政治に興味がおありで?」
今度は彼女が可笑しそうに肩をすくめ、
「興味も何も…私は当事者ですから」
サングラスを外し、帽子を取るとふわり、と微笑んだ。
現れたくすんだ金髪、ブルーグリーンの美しい目にアッテンボローは息をのんだが
それよりなにより、そのあたりをはらうような気品はまちがいない。皇妃、
いや今は摂政皇太后であるヒルデガルド・フォン・ローエングラムその人であった。
アッテンボローは絶句した。
(おい、こりゃまた………とんでもない特ダネが降ってきたもんだな)
周りに気付いた人は居ないようだが、それにしても賑わうここで長話はまずいだろう。
そうだ、あそこがいい、馴染みの喫茶店。あそこのマスターの寡黙さは信用できる。
そこに案内することを告げて、そして彼女をなんと呼べばいいのか迷う。
「ヒルダ、でいいですわ。父もそうやって私を呼びますから」
「では、ヒルダさん。こちらに」
そうして車道側を自分が歩き、ヒルダをエスコートする。
街を行くすれちがうカップルには目を引く美女を連れた男もちらほらみかけるが、
(銀河随一の女性を傍らに歩くというのは、誰も一生無いだろう貴重な体験だよな)
士官学校に入る前まで志望していたジャーナリスト根性が、誇らしさよりそんなことを思わせる。
十人も入れば満席、というような喫茶店はいささか古びているが長年磨きこまれた様子が伺え
非常に居心地が良い場所で、アッテンボローは気に入っている。だが、ホテルの喫茶室のほうが
失礼がなかったんじゃないのか?そう気が付いて一瞬腰を浮かせかけた。
「なんだか落ち着きますわね。とても…懐かしい感じがします」
「そう言ってくれてこちらも一安心です」
冗談ではなく本気で胸をなでおろして見せるとヒルダは可笑しそうに微笑んだ。
コーヒーが来る間にヒルダから先刻までの事情を話された。
会見の予定があったが先方都合のキャンセルで半日オフになったこと。
ホテルの窓から下をみてアレクが騒ぐので少しだけ街を見るつもりであったこと。
そして一瞬目を離したらいなくなっていて、お付きの子も一緒にいなかったこと。
で、その子は幼いながらタクシーを止め、連絡先と共和国紙幣を入れた封筒を出して
無事にホテルに戻ってきたということ。
「しっかりしているの、フェリックスは。本当にあの子には苦労かけてばっかり」
皇帝ともなれば幼少時からお付きの子がいるのか、と驚いたアッテンボローに、
ヒルダはその子の身分を明かして見せた。それはさらにアッテンボローを驚かせた。
あの、ロイエンタールの遺児で、あの、ミッターマイヤーが養父!!
「そりゃ、もう、そういう運命の子なんでしょうな」
そんな溜息に似た感想しか出てこない。
帝国風に濃厚なクリームが付くコーヒーではないが、ヒルダには好評だったようである。
あとで誰にコーヒーを出したのかマスターに教えてやろうか、そんな悪戯心が胸に沸く。
「――じゃ、そろそろホテルにお送りしましょうか?」
「お忙しかったんですか?お引止めしてしまったかしら」
「いいえ、な〜んにも。侘しい独身男の休日ですから、私に出来る事なら何でも言って下さい」
では、とヒルダは控えめに切り出した。民主主義に反しない範囲であるならどんなことでも
引き受けようとアッテンボローは心を決めていた。
「これから共和国との折衝が続きますが、その前に、共和国の空気を感じておきたいのです。
文書を取り交わしても、一般民衆の心情までは書類に記載されていませんから」
さすがに皇太后となると考えが違う。率直に賞賛の気持ちを述べたがヒルダは笑って返した。
「…実は、アレクを口実に私も外を見て歩きたかっただけなんですけどね」
そう正直に言ってアッテンボローに向けた笑みは公的に整えられた笑顔ではなく、
ずっとくだけていたが、彼女の魅力を損なうどころか親しみを感じさせるものであった。
アッテンボローはカップを持つ手を空中停止させ、生気が煌くその笑顔に見惚れていた。
いつの間にか分厚い雲は切れて青空がそこからのぞけている。
気温も急に上がって、四月だというのに初夏がいち早くやってきたようだ。
ジャケットの内側に汗が浮いている。視線をさ迷わせた先に、屋台が目に入った。
けっこうな美人をお連れですねえ、という親父にあいまいな表情で小銭を渡して
ベンチに座るヒルダのもとへ戻っていった。
「どうぞ、お好きなほうを」
「まあ。ではこちら、よろしいですか?」
ヒルダはアッテンボローに手を伸ばし、コーンに盛られたジェラートを受け取った。
冷たい甘みが口の中に広がり、清涼な風味が喉を滑り降りていく。
(噴水のある公園でアイスを食べる王女様、いや、彼女は女王様か。)
「『ローマの休日』だな」
独り言のつもりで呟かれた単語は、ヒルダの興味を引いたようである。
そこでアッテンボローは、それが古い古い、地球にまだ人類が留まっていた頃隆盛した
旧式のフィルムで記録され広く愛された映画の題名であるということをヒルダに教えた。
そしてその内容もかいつまんで。今の状況と一致の多さにヒルダも驚き、笑みが零れる。
「とても、おもしろそうですね」
「ええ、なんで士官学校の官舎でそれの上映会をやったりしましたね」
「そういうところまで自由なのですね、共和国は」
かなり真剣にヒルダは帝国との違いに感心している様子である。
「いいえ!とんでもない。官舎ですからね、もちろん娯楽は禁止でしたよ」
あたりを憚るように声をひそめて付け加えた。
「鬼教官の目をかいくぐってやるからこそ、面白かったんですよ」
目が丸くしたあと、とうとうヒルダは噴き出してしまった。
「そうそう、ヤン提督のアイディアでポップコーンやらジュースやら売って幾らか儲けました。
賞味期限ギリギリで廃棄手前のものを備蓄庫から拝借したんで元手はゼロってなもんで
…これも彼のアイディアですよ」
さすがに堂々と闇流しは威張れなかったので、さりげなく事実も付け加えておく。
ふざけた話に怒ることもなく、ヒルダは楽しげにアッテンボローの話に聞き入っていた。
「で、その売り上げはどうなさったの?」
「いやもなにも、上映成功を祝った打ち上げで、全部すっからかん」
ブルーグリーンの目をきらめかせ、ヒルダはその先を続けてみせた。
「もちろん、それも監視の目を盗んで抜け出した先のお店で、だったのでしょう?」
ずばり当てられて、そのとおりです、と二人で笑いあいながらアッテンボローはヒルダの
嫌味のない、非常に質のいい頭の良さにただただ感嘆しまくっていた。
(『あの』カイザーのお眼鏡にかなったのも、このひとならそりゃ当然ってものか)
「あの人も若いときはずいぶんと無茶をしたものだと姉上様が話してくださいましたが…」
「そんなすごい人とうちの提督を並べるなんて罰あたりますよ」
ヒルダがあの人、というのは一人しかいない。
「共和国の英雄とまで称された、提督なのに?」
「ええ。あれは軍の頂点だというのに、そう見えないことでまた軍随一の人でしたからね」
真面目くさって、実際は失礼なことを悪びれもなく口にする。
「じゃあ、皆があらたまった口調で作戦会議を進めようものなら」
「お前ら変なものでも食べたのか?なんて心配されるのがオチですな」
想像して一瞬の間があり、今度は声を出して二人で笑いあった。
アイスも食べ終わり、噴水の縁に腰掛けて公園を満喫する人々を二人、眺める。
戦争終結からまだ数年も立っていないのに、街はほぼ回復し終えたようだ。
父親が欠けた家族連れが多いが、子供の笑い声は希望の鐘の音のように公園に響き渡る。
「…あれから、あっという間に時が過ぎ去った気がしますわ」
アッテンボローは短く頷く。体制は違えど感傷というものは人類共通であるらしい。
「議員の仕事、大変なのでしょう?フレデリカさんから聞いています」
あーそれはそれは、と相槌を打ちながらも、アッテンボローが日々てこずっている事と
共和国が帝国に掲げてみせた理想とのギャップを思うと、赤面の至りという単語が脳裏をよぎる。
「あの人が民主主義の芽を摘まず残したのは、ヤン提督への寂寥からではありません。
自分の目前にまで乗り込んできた人達、その人らの覚悟の様を見て手を止めたのです」
語るヒルダは遠くを透かして見るかのような目をしている。
「自分の家族を愛するような自然な愛国心と、人為的に作られたナショナリズムを峻別できる程度の
賢明さを持ち合わせる、もしくは有権者に持たせるような民主主義が根付くほどには成熟している
と踏んだからです。そのように成長している過程なのでしょう?貴方が恥じることはありませんわ」
いや、その、となんとも歯切れの悪い返事をして、アッテンボローは自分らしい言い方にして返す。
「ヤン提督の置き形見ですしね。俺も他の皆も、民主主義の良しも悪しきも承知してます。
それに、死ぬときにああ楽しかった!と俺自身納得できる人生が送れそうなのはこっちでしょうし。
いいんです、俺は伊達と酔狂で議員やってんですから」
最後のところはいまいち飲み込めない様子であったが、ヒルダは概ね同意してくれた。
「わたくしの方も、なかなか難しいですわ。やはり帝国に憲法を成立させるというのは…
でも、ヤン提督の遺志とあの人が約束したことなのですから、やりがいのある仕事ですわ。
見てなさい、負けないんだから!」
最後の所は頑迷な老貴族らへの布告だろうか、彼女の身分にしては直截な言い様である。
すらりとした立ち姿と完璧な顔の造作は一流モデルといっていいほどの美しさであるが
それよりもきびきび律動的な挙措と、抜群の知性とたおやかさが同居するブルーグリーンの瞳、
変化を厭わず常に前を見据える健康な精神、さらには可愛らしい負けん気まで見せられた
アッテンボローはすっかり、ヒルダから目を離せなくなっていた。
――涼しい風が吹き始めた。
太陽はまた厚い雲に隠れ、時計は四時を回っている。公園の外に出て無人タクシーを掴まえ、
ヒルダをタクシーに乗り込ませた。
「さようなら。今日は貴方のお陰でとても…良い思い出がつくれました」
「もっと、あちこち案内してさしあげればよかったですね。それだけが残念です」
交わされた手がそっと離されるとタクシーの扉は閉じ、ヒルダが告げた先へと静かに走り出していった。
風は先刻より強くなりつつある。もう太陽が雲から出ることはないだろう。
胸に生まれたつむじ風を抱え、アッテンボローは自宅へと帰っていった。
アッテンボローは特に独身主義者というわけではない。事実、今の職業は男社会の軍隊と違って
出会いは多いし、また前途有望な青年とあって、ほとんどの相手が彼との交際に前向きであった。
「だいたいがいい子なんだが…」
「いまいち物足りないってか」
「贅沢、ってやつかもしれんな」
「ああ贅沢だ。ただでさえ少ない機会を自分からゼロに近づけてるんだからな」
「そちらさんこそ豊富だとかいう機会とやらを毎度毎度ゼロに戻してんでしょうが」
そう返すと、ポプランの顔がやに下がった。野郎に微笑まれるほど不気味なものはない。
「俺?俺ならもうプラスに戻してるぜ。健気な子で当然美人!知り合ったのはだなあ」
「お前のナンパテクニックなんぞ聞きたかないわ!」
「なんだと!人の親切を要らないたあ、お前政治に骨まで染まって庶民の人情を忘れちまったか?!」
以降どうなったか記憶がない。目を開けると見慣れた天井があり、自宅の寝室なのだと知れた。
どうにか帰ってきたようだが…見ると肩の付け根と頬に派手な青痣がスタンプされている。
ずいぶんと久しぶりの感覚を懐かしく思いながら、洗面所に向かい口をゆすいだ。
「っつ!」口の中も切れているようだ。ザブザブと冷水で顔をこすり、言い聞かせるように
鏡に向かって独語した。
「どうかしてるぜ、いくら伊達と酔狂とはいっても…相手は銀河頂点の女王様、だぜ?」
議院の長い廊下を歩きながら、アッテンボローはぼやいていた。
「ったく、国の大きさにまったく比例してない無駄なでかさだぜ」
それでもここを使用しているのは、さらに小さい庁舎を建てるのがもったいないからだ。
新政府とはいえども華々しい立ち上がりではない。つまり倹約、いや合理的精神からである。
戦火を免れた古びた通路を数十メートル歩いて角を曲がり、ようやく目的の部屋に辿り着く。
扉を開けると廊下の暗さとは対照的なまぶしさに包まれた。
眼前一杯に広がる窓には一面の青空が広がり白く輝く入道雲が盛夏であることを告げているが
室内はエアコンの快適な空気で満たされていた。
自分を呼び出した相手の姿をアッテンボローは確認した。
無駄な飾りなどないシンプルなスーツ姿であったがそれでも十分に美しさを感じさせる女性。
「お呼びかかりまして参じました。小生、微力ながら力を尽くさせていただきます」
「そんなにかしこまらなくていいのよ」
とフレデリカに笑われてしまったが、もちろん彼流の冗談だという事は十分承知している。
控えめに彩られた唇を開き、呼び出した目的をアッテンボローに告げた。
「今月下旬、輸出業にかかわる条約の締結にフェザーンに向かいます」
「ええ、存じております」
「その随行員として、あなたにも付いてきてもらいたいのです」
「他に誰でも適任者がいますでしょうに」
「いいえ、与党だけではどうしても利益を重視する向きになりますから、政治的偏りを防ぐために
あなたが居ることが必要なんです。お願いしますわね」
物腰は柔らかながら、ノーと言わせない静かな迫力は、軍服に身を包んでヤンの側で立ち働いた
往事のフレデリカそのままであった。
「イエス、指令に従います」
唐突にフェザーン行きを命じられたアッテンボローに、フレデリカの微笑みは目に入らなかった。
――満面に焚かれるフラッシュの雨の中、二人の女性はペンを執り書面にサインを交わした。
互いの利益配分に衝突も起こることもなく、場は和やかに晩餐会へと移った。
そして大ホールのパーティへと流れ、そこでようやくアッテンボローはヒルダと対面できた。
国交のパーティであるからアッテンボローも正装で臨み、ヤンとは違い男ぶりを上げていたが
ヒルダはその彼さえくすませるほど非常に神々しいローブデコルデ姿で彼の目の前に現れた。
幼い姿で正装した皇帝アレクと共に、少し前まで幾重もの人の輪に埋もれていたヒルダだったが
ご就寝という事でアレクが下がった時に、彼女も人波から抜け出したということだった。
再会のあいさつを交わした後、アッテンボローから会話の口火を切った。
「最初は、どうなることかと思っていたんですよ。行きの船の中で血気盛んな人もいましたから。
帝国のことだ、どんな不公平なレートを持ち出してくるか知れたもんじゃない、とかね。
けどその男、今やすっかり貴女のファンですよ。女神と天使が相手とあっちゃ仕方ありません」
そんな体験はしょっちゅうなのであろう、驚きもせず、ヒルダは話の続きを待った。
「これだけこちら側の人心を懐柔させる効果があるなら…共和国のテレビに毎日出て頂けませんかね?」
真に受けたヒルダがそれはさすがに…と眉をひそめて考え込んでしまったので慌てて付け足した。
「いや、地道な交流こそが互いの永年の誤解を緩和していく一番確かな方法だと思ってます!
すみません。その…再会の嬉しさに舞い上がりすぎました」
柄にもなく赤面したアッテンボローにヒルダは怒ってませんよ、と優しく言葉をかけた。
「相変わらずですね」
ヒルダの視線に懐かしさ以上の感情が篭っていると思ったのは自惚れであろうか?
そしていくらか言葉を交わした後、ヒルダが尋ねてきた。
「あの二人に、続きはあったのかしら?」
しばし頭をめぐらせ、その質問があの映画の二人であることに思い至った。
「あれで終わりです。彼は新聞記者のまま、彼女は王女様として生きていくんでしょう」
映画の結末を教えながら、どうにも言えない感情も同時に胸に染み出していく。
「無邪気な王女様は心の痛みを知って一つ大人になり、事件を追うばかりの彼も記者として
一回り大きくなったという、いい話。なんじゃないですかね」
「あなたは、別の感想をお持ちという事かしら?」
あいまいにぼかした部分をヒルダは鋭く衝いてきた。
「そうですね…せっかくの記事を破り捨てることはなかろうに、とは思いました」
「そういえばジャーナリスト志望されていたんですわね」
質問の答えをはぐらかしたくせに、ヒルダが公園でのたわいもない会話を覚えてくれていたことに
しみじみとした嬉しさがアッテンボローの全身にこみ上げてきた。
「記者として、他になにかインタビューしたいことでもあります?」
「そう、ですね…。例えば、皇帝ラインハルトの話とかお願いしたいところです」
だしぬけに聞かれ、あまり考えもせずに口に出した図々しい希望をなんとヒルダは承諾した。
「でも、それをお話しするにはもう、時間がありませんね」
「いや!いいんです。出すぎたことを申し上げました」
そして沈黙が訪れ、あとに残された言葉は別れを告げるあいさつでしかない。
言うんだ、いやここで終わりにしたくないとアッテンボローの内はせめぎあっていた。
どちらの心情も折れないのは、ヒルダも、別れの言葉を言いにくそうにしているからだ。
(またいずれかの機会ににこやかに挨拶しあう、最初っからそれ以上でも以下でもない関係だろ?
もともと別の世界で生きてきて、これからもそう生きていく二人じゃないか。)
最後に勝ったのは、常識であった。アッテンボローは鈍る口を動かし別れを告げようとしていた。
突然、二人の間に電子音が割り込んできた。パーティバッグから通信機を取り出しヒルダは電話に出る。
通話を終え、振り向いたヒルダの顔には困惑という文字がありありと浮かんでいた。
「時間が、丸一日出来てしまいましたわ…」
「それだけあったら、インタビュー本一冊仕上げることも可能でしょうな」
これは神がもたらした幸運というべきか、悪魔の悪戯というべきか、とりあえず分かるのは
ヒルダに返した自分の言葉がとんでもなく間抜けなものだという、それだけであった。
今回の条約に好感触を得られた感激に双方大部分のものが浮かれており、壁際の二人に
目を留める人はほぼ皆無であった。電話はフレデリカ側からの予定変更の連絡だったようだ。
翌日の予定は、親和を深めるため皇太后私有の別荘で昼食会というものであったが
背後に財界を背負った共和国議員が、帝国側財界の大物との面会を希望したため
その予定が流れたというのである。もちろんフレデリカ本人から十分な謝辞もあった。
「急に、こんなこちらの都合をおし通してしまってまことに申し訳ありません」
「そちらこそタイトな日程で遠路お越しいただいているのですから、どうぞ気になさらずに」
「昼食会は、私的なもので、という意味でしたわよね?」
「ええ」
「でしたら、私の代理として一人行かせます。私が信頼を置く、とても大事な友人です」
「その人とは…?」
「きっと隣、いえ…その、迎えの車を約束した所にその者がいますから、よろしくお願いします」
「……分かりましたわ。フレデリカさんも今日の疲れを十分お取りなさいますよう」
「お気遣いありがとうございます。それでは」
翌朝、アッテンボローはまだ夢に片足突っ込んでるような心地でホテルの車止めに立っていた。
まさかまさかと足が浮きそうになるのを地面に縫い付けているのは一般常識というものであり、
フレデリカの友人として昼食を共にするというだけであって、個人感情なぞ混じっておらず、
(だから…だからなんだっていうんだ?!)
昨夜から堂々巡りしている脳内議論に決着がつく前に、アッテンボローの前に帝国印のハイヤーが
滑りこんできた。
昨夜のパーティで、フレデリカとの会話をヒルダから聞いたときは半信半疑であったが
お開きになり、宿であるホテルの部屋に戻るとフレデリカからメッセージが届いていた。
「私の代理として昼食会に出席するよう、お願いします」
澄ました声で、承諾した旨をフレデリカに内線で伝える。敵ではないがこういう状況に
背を向けることなどアッテンボローは意地でもしたくなかったのだ。だがそれだけか?否。
とはいえ、私的とはいえども相手は公人である。
「それがどうした!本でも何でもインタビュアーとしてやってやろうじゃないか」
アッテンボローは、開き直った。
そうなると車窓の景色も目に入るようになる。なだらかな隆起を描く低い丘が続いた後
視界が開け、夏の日差しを乱反射する湖が大小あちこちで銀色の光を発している。
ゆるいカーブを走り抜けたのち、瀟洒な趣味でまとめられた山荘の前でハイヤーは停車した。
出迎えたヒルダは供もつけず、身軽なパンツ姿でアッテンボローを歓迎した。
「フェザーンにも、こんな風光明媚なところがあったんですね」
「ええ、なかなかですわ。思い出の場所に似ている景色で、それで気に入って…」
湖から吹いてきた涼気を含んだ風が、二人の髪を散らしていく。
「さあ!席にどうぞいらして」
「ではお招きにあずかりまして」
供された昼食はコース料理のかしこまったものではなくカジュアルな料理ばかりだったが
どれも美味しく、付けられたパンの熱さとその美味さがいっそう彼の食欲をそそった。
「アレクに作っているのと同じで工夫とか何もないんですけど」
「手作り?!いや、お世辞でもなんでもなくとても美味しいです。うん、うまい」
「教師の教えと腕がいいんですわ」
フェリックスの養母で、ヒルダの育児の良き先輩でもあるミッターマイヤー夫人の
エヴァンゼリンの名が挙げられ、その後の話題はもっぱら彼ら夫妻についてとなった。
「――腕一杯の、黄色いバラを。」
「ええ、あの人もなにもそこだけ取り入れなくても」
「じゃあ、貴女も同じく」
「はい。ほとんどの色のバラを取り揃えて。玄関中にバラの香りが数日漂っていましたわ」
「はー」
次々に出てくる帝国軍の秘話に、アッテンボローは質問することをすっかり忘れていた。
戦場で相見えた数々の将官の違う一面を知って驚き、時に笑いを堪えられなかった。
食後のコーヒーにたっぷりとクリームを注ぎながらヒルダは話を続ける。
「ヤン提督の話も、もっと聞かせてくださいな」
「なにから話していいか…ちょっと、待ってくださいよ」
「迷うほど、あなた方の付き合いは長いんですのね」
「ええ、士官学校から含めるともう片手じゃ足りないぐらいです」
「羨ましいわ。副官として仕えていた年数はともかく夫婦としては私達短かったから」
「…その方面は、うちの人とゆっくり話されるのがよろしいでしょう」
視線をコーヒーに落とし、アッテンボローは音をさせないよう静かにカップを皿に置いた。
この山荘にエアコンはないが、開け放された窓から涼しい風が通り抜けていくので空調に慣れた身に
清清しいほどの爽快感をもたらしてくれる。
ヒルダが辞し、アッテンボローはあてがわれた客室にわずかな手荷物を置いてベッドに寝転がった。
綿のシーツは肌触りが良く、昼食に幾らか飲んだワインにも眠気を誘われ、意識がすっと沈んだ。
目覚めると、熾烈な太陽は勢力を弱めオレンジ色の光が室内に満ちていた。
そろそろここを辞さなければいけないな、と思ったが少し遅かったようだ。
ノックの音がして女主人が顔をのぞかせた。
「夕食を作らせましたので、これから食堂にどうぞ」
昼間とは違って、いまは夏らしく涼しげなワンピースに着替えている。
麻の清潔な質感はヒルダによく似合っており、アッテンボローは思ったままそれを告げた。
「え、ええ、ありがとうございます」
先導で前を歩くヒルダの耳が染まっているのに気付き、アッテンボローも面映くなる。
夕食は湖で取れる魚がメインで、ヒルダも飲める方なのでワインが二本空けられた。
食後はコーヒーではなく強い酒へと変わり、談話室のソファーに並んで腰を掛けた。
「本当はここまで長居するつもりはなかったんですが、お言葉に甘えてしまいました。
お子さん、プリンツアレクも寂しがっているんじゃないでしょうか?」
「あの子はフェリックスと一緒におりますし、それに母親がこのような立場という事も
幼いながらに彼なりに理解しています。これから今以上にあの子は大変になるのですから」
厳しいことを語りながら、その横顔はわが子への慈愛に満ち溢れていた。
「『アレクサンデル・ジークフリート・フォン・ローエングラム』あの子の名前ですね。
二つ目の名は、故ジークフリード・キルヒアイスからだと。そのように聞いております」
「ええ。あの人はわたくしの出産の報を聞いた先の執務室でインクで汚れた紙くずを山のように
こしらえたとかで。それを侍従のエミールから教えられてもちろん、嬉しかったのですけれども
可笑しくて仕方なかったのもよく覚えていますわ。父親らしい心も持ち合わせた人なのだわって」
その笑顔が、一瞬後に曇る。
「それにくらべて、わたくしは…妻らしいこと何一つあの人にしていなかったような気がします。
エヴァンゼリンさんを見ていますと、あまりいい奥さんじゃなかったかもしれませんね」
語尾が、震えていた。
「少し、酒がすすまれてしまったようですね」
ヒルダを立ち上がらせ彼女の寝室に送り、食堂から水差しとグラスを持って部屋に向かう。
私室に入るのは気がとがめてドアのところで立ち止まると、中に入るように促された。
部屋にあかりはついておらず、窓から差し込む月光が意外にも明るく部屋を照らしていた。
「何度も思っていたのです。皇妃がわたくしであの人に本当に良かったのかどうかを」
「良かったに、決まっているじゃないですか」
若葉からの木漏れ日の化身のようなヒルダが、いまは月の光に溶けていってしまいそうだ。
「あなただからこそ、皇帝ラインハルトも皇妃にあなたを選んだのだし、あなたがいたからこそ
皇帝は皇帝自身でいられたんです。彼と戦った俺の実感がそう言うんです、間違いありません」
「そう、かしら?」
ヒルダは微笑んだが、月光の陰になった側に一筋光るものがあった。
たまらず、アッテンボローはヒルダの細い体を胸のうちに引き寄せていた。