「あーあ、ただいま」
「おかえりなさい、今日はどうだった?学校」
「ああ、まぁ何時も通りよ。ほら試験の結果、ようやく帰ってきたから見といてよね」
私はシャワー浴びてくるから、と少女は明るい鞄の中から取り出した紙を食卓の脇に置いて、ささっと階段の先の自室へと入る。そしてその足でまた駆け下りては、浴室へと姿を消して行く。
(ふぅ、まぁある程度予想した通り取れたし、これで当分は何か言われることもないでしょ…)
キュッとひねった蛇口を介してシャワーから流れ出るお湯の具合を確かめながら、彼女はふと浮かべては軽い溜息を吐く。
最もそれは何か、気落ちしただとか負の感じのある溜息ではなかった。言うなれば安堵、そして満足感をほんのり漂わせる、充足感を感じたが故の寛ぎの一息であったと出来るだろう。
それだけに、それからのしばしの湯浴みで、良い具合に力の抜けた感のある表情を得るのは容易なものだった。用意しておいた部屋着を身に纏えば、再び食卓の元へと舞い戻る。そして先ほど渡した紙の内容を見た親の反応を聞きつつ、夕飯に箸を走らせる。
親の反応は上々なものだった。良かった、これだけ出来ていれば―親とは言え、ただ親ではなくある程度、そう言った事情に明るい職業に就いている人間からの言葉は、彼女の気持ちをより前向きに後押しして行く。そしてその中で親はある提案をしてくる。そう、もっと上に行く為に塾だとかに行く、あるいは何か参考書だとかで必要なものはないか、とのそれを彼女は一言、大丈夫、今はまだ必要ないの、とだけしてやんわりと断る。
最もただ断るだけではないのが然るところであろうか。ふっとした微笑を上乗せして返す事で、その場の空気を上手くまとめてから、食卓の席を後にして再び、自室へと戻っていくのだから、親にしても彼女にしても後味の悪さを覚える事はない幸せな光景であった、演じたのであった。
「さって寝よう、これだけしておけば、うん」
そしてその自室の中にて独り言の呟きがもれたのはそれから1時間ほどはしてからだろう、持ち込んでおいたペットボトルの水を口に含んだ流れで、その部屋の電気は消され、しばらくもすればまた安らかな寝息がその部屋には響く。時計の針も静かに回り、ただゆっくりと新たな朝へ向けて夜だけが流れて行くのみであった。
明るめの類似した鞄にストラップが着いているか、いないか、との違い程度の2人は昔からの幼馴染、と往々にして間違えられる。最も実際の所は幼馴染などと言う事はなく、高校に入る前に通っていた塾で知り合った関係でしかない。そしてそこまで仲が良い訳ではない。
しかし、そうした縁こそ伸びる時には伸びるもの、と言えたものか、今では前述の通りに、決して彼女達が望むと望まずとも関係なしに周囲がそう扱うものだから、自然と共にいる機会は増える、あるいは用意されて行く一方であって、そうでないとおかしい、と思われるほどにまでなっていた。
そんな周囲の、ある種の勘違いによってその仲を結果として深めている彼女等は、ある事を忘れている。端的に言えば彼女等は3人であって、彼女等が最初に知りあってからしばらくの間は確かにもう1人、そこにいた事と書ける。周囲はともかく、彼女等の認識からすっかり欠落しているのは、奇妙で、しかしその通りである事実でしかない。
そして不思議と片方―ストラップの鞄を持つ少女―だけは、時折、曖昧ではあるが思い出す事があるのもまた妙な事であるのに違いはなかったが、彼女等、並びに周囲の認識からはその「もう1人」の存在は基本的には失せている、それだけは確かな事と言えてしまえるのだろう。
それから数年後、あの日、彼女等がいた高校は存在していなかった。正確に書くなら、卒業と同時に統廃合によって廃されて、その敷地や建物こそ残っていたが高校としては今はもう過去の物になっている。だからその場所に入れる門扉には鍵と掲示がされていて、掲示を見れば許可のない立ち入りが禁じられると共に、跡地の利用に関する意見を求める告知が成されていた。
日常的に使用されていないのだから管理は最低限の維持がされる以外は、放置されるに任されていたと出来るだろう。整えられていたグラウンドは所々の泥濘に草が繁盛しているものであるし、建物にしてもその堅固な造りはそのままであったにしても、中にいるべき人を失ったそれ等の色合いは日々、特に一雨が降る度に褪せていく様に見えたものだし、窓硝子に至ってはぼんやりとした曇り色をすっかり呈している。
時折、関係者が状況確認に来る以外は、あとは静まり返ってその土地と共に眠るのみであったし、そこまで辺鄙でないからこそ、忘れられたらそのままに関心も払われる事もないまま、ただあり続けるだけであった。
そんな道を1台の車が来る。良く見かけるミニバンタイプの軽自動車は、放置された年数分、落葉だとかによって狭められてはいるものの、二車線は確保されている道のやや中央寄りを走って高校の方角へと向かっていた。
その車は時折来る、管理者の車ではなかった。だから管理者の車であればそのまま入れる―厳密には鍵を開けてであるのだが―門扉をくぐる事はなかったし、その手前にある角を曲がって、より荒れた高校の敷地の外周をなぞる様にある一車線程度の道をしばらく走っては、その門扉からは一番遠くにあたる場所の路肩に生い茂る笹の上に乗り上げる様にエンジンが切られた。
そんな場所に車が来るのは、道に意識があるとすれば、それはいきなり叩き起される様なものであったに違いない。何故ならその外周道路はただ校舎のある敷地をなぞる様に走るだけの、単純な環状に等しい道路であって、幾ら走ったところで同じ場所に戻るのみでしかない。だから、管理者ですら見回りに立ち入るのは稀、故にその荒れ具合は半端ではなかった。
「ふぅ、幾年振りかしら。我が母校に来るなんて」
「卒業以来じゃない?本当久しぶりよね」
降り立ったのは2人の女性、母校と目の前にある敷地に向かって言うからには関係者である事は違いなく、回りくどく書かないならそう、卒業生である。
「今じゃ私はいっぱしの社会人で…」
「私は大学院生、でしょ?望ったら本当、良くそれについて言うよね、高校の話になると」
「仕方ないじゃない、飛鳥。私だって本当は院に行きたかったんだしさー…気持ち分かってよぉ」
彼女等の名前は河原望と吉川飛鳥、同級生としてこの高校を卒業し、大学こそ別であったものの何やかんやと交流が続いて、今なお、折を見ては共に旅行に行くなどしている、そんな関係だった。
今回はふと以前に今、卒業した高校はどうなっているのか、との話題で盛り上がった事がきっかけで訪れた次第。しばしエンジンを止めた車を背に立てば、すっかり人気と無縁になった一塊の学校であった存在に対して、最初のやり取りの後は無言のままに視線向けてはかなりの時間を、ふとどちらかとも知れずに漏らした溜息が響くまで過ごしてしまったものだった。
「ほーんと、廃校になっちゃったのねぇ」
「あれだけ賑わっていたのにねぇ、改めて感じちゃうと凄く奇妙な感じがする」
「うんうん、本当だよねぇ」
しばしのやり取りは辺りをほんのり賑やかにする。最もそれ以上の事はなかった、ただ立ち止まっているだけではその場だけが一時賑わうだけの事。それを特に指摘した訳ではなかったが、ふらっと歩き出すと片方が車の鍵の確認をしたら、あとはしばらく外周に沿って2人の足音が刻まれて行く。
歩きながら2人が交わしたのは当時の思い出だった。入試の時の事から始まり、入学、クラス分け、部活、学祭…思い起こせばそれはキリがなかった。普段から時折、断片的な回想で盛り上がっていたものの母校であった場所で話すとこうも沸いてくるとは、それは新鮮さであり、廃校になったとは言えここが彼女等の母校であるのが確かであるのを改めて実感出来る機会であるとしか言えない。
だから自然とその足が、ふと見かけた隙間―そこはかつて通用門として使われていた小さな間口だった―を見出すとふと彼女等の足は止まった。そして視線を互いに交わして、どこか同じ気持ちを抱いているとの確信を得たからだろうか。その足はすっと隙間に進んで行き、まだある程度は歩きやすかった道路とは異なりすっかり落ち葉だとかで埋もれた敷地の中へと入り込んで行く。
ざくっざくっ、との足音はまるでこだましているかのように耳に届いていた。しばらく、またも口を噤んでいたのもまたその効果を大きくしていたし、立ち入り禁止のところに入り込んでいることへの妙な達成感と高揚感は彼女等の気持ちを一層刺激して止まなかった。
言ってしまえばもうエスカレートするのみでしかない。ひたすら進む、掻き分けて、踏み分けて―実のところ大した距離でもない、かつての通用門から校舎の間をくぐっての校庭までの道のりは数百メートルに過ぎないのだが―開けた場所に達した時の気持ちと言ったらそれは久々の、強い懐かしさを伴った快感以外の何物でもなかった。