小さな悲鳴があった、それは恐らく彼女等が生み出したものだろう。しかし、それは跡形もなく呑まれていき、その肉体も同じ展開の道を免れない。
本棚に机、扉に壁。ただ不思議なのは窓硝子とか建物の外と内を隔てるを成す壁の内に完全に留まった事。だからもし外から見ていたならば、全ての窓と言う窓の内側がまだ明るい時間帯と言うのに真っ黒一色になった、と見れたものだろう。
その中では全てが解けていた、「とけ」ではなく「ほどけ」ていた。本棚も書籍も床すらも、何より望と飛鳥の全てが渾然とした闇となってうねっていた。ただうねりがあるとならばそれは力の作用がある証、それこそが彼女等の意識の欠片だったのかもしれない。最もそこには悲嘆も何もない、ただ「アスミ様」との呼びかけの動きだけがあって、それはしばらくの後、更なる圧力を闇の中に生じさせていく。
うねる動き、それは気体的と言うよりも液体的であり、密度の濃さを増していくにつれて凝縮されていく勢いを示す。低密度から高密度、それ等は次第にはけ口を求めていく、ただあるだけではなく意義ある、意味あるモノを欲して変わっていく。
途端に闇が薄まっていく、しかし闇が晴れた後にようやく居場所を回復出来た陽光が「色」となった時、そこに広がるのはそれまでの荒れた場所と全く対極の空間だった。
それを彼女等のいる部屋を例に示してみよう。まず現れたのは机だった、ただその机は金色を主体とした見るからに手の込んだ造りをしたものに変わっていて、続いて現れた寝台と共にその脚には持ち主を称える文句が表語文字―ヒエログリフとして無数に記されていた。それはカーテンにすらも及ぶ、埃まみれでくすんでいた姿はどこへやら、今や分厚くなった生地には金糸の刺繍が施されては太い紐で形をとって窓際を飾っているのだ。
正に変わった姿、全てが真新しくてきらびやか、什器とするよりも調度品と言った方が相応しい品々で満たされた空間となった中に最後まで残る紡錘型の闇。それもふっとした途端に緩むとひとつの個体となる、そう生体の形を取る。
その姿はヒト型であった、皮膚は浅黒く、真っ黒な縮れ髪の混じった長髪は背中の半ばまで至る。その黒さをより印象付けてくれるのが身に着けられている装身具の類であった、ひとつは首から乳房に至るまでの物。その多くは鈍く輝く金からなりで、結び目等は帯として青や緑、時に赤の糸が太く結びつけているのが見える。同様の配色であるのが手首や足首にある環であろう、そちらはシンプルに金、即ち金属の輪の内側を青と緑を二重に彩ったものになる。
更に腰から足首にかけては長い腰巻が覆っている。その色合いは鮮やかな黄色であってくびれ辺りで留め具として巻かれている金の飾れのお陰で乳房の豊満さが強調されており、永きに渡って日に焼かれた事で得たと思しき浅黒い皮膚との組み合わせは最早麗しかった。
そして特筆すべきは手足の環の先だろう、そこは完全と言えるほどに黒色に染まるのみならず、その黒の正体が皮膚ではなく濃厚な密度で生えている毛、獣毛であるのに気付けるのは指先にある鮮やかな赤色に染まった鋭い爪のお陰かもしれない。
その肉体の有り様を確かめようと言うのか、繰り返しさ握っては開かれる手を見れば、その平の部分に大きな肉球があるのが見える。それは正しく獣にしかないものであって、空間の変容と合わせて、そこにいる「ひとり」はヒトではないのは、腰巻の上に見える長く垂れた尻尾と共に分かってしまえる。
「ああ…久々に目覚めて、うーん眠いわ…っ」
大きく体を伸ばして開かれる口、その顔自体はヒトと大差ないが咥内には鋭い歯牙があるのがふっと見えてしまえる。鼻にしても先端部が黒い獣の鼻であるのは言うまでもなく、瞳の色に至っては右は金色、左は赤色に染まるも左目のみ片眼鏡、モノクルと言う極めて人間的な装身具を纏っているのがまた特徴的な、彫りの深い顔立ちである。
その顔の端々にはふと、彼女等、望と飛鳥を見いだせてしまう。しかしそれは時折でしかない、それさえ見いだせなければ完全な別人の顔であり、ヒトならざる金と赤の双眸に見つめられたら思わず動きを止めてしまう、とれだけは必至だろう。
「はあ、全く、私の飼い犬だと言うのに中々やって来ないから困るのよ、貴女達」
すっかり整った空間の中、彼女は椅子へと腰を下ろす。独り言の様であってそうではない呼びかけである、と取れる言動は一定の間隔を発せられていて、会話であるのがうかがえる。
「まぁ、いいわ。こういう事もあるもの、ねぇ、私、アスミの忠犬達だものねぇ、ふふ」
すると彼女は自らをアスミと呼んだ、それに対する同意の反応―アスミ以外の姿は見えない、しかしその場を見ているとしかと示されているのが分かるだけに、彼女がアスミ、そう犬吠埼明日観であるのは確実なのだろう。
アスミにして犬吠埼明日観、前者の呼び方であればしっくりと来る外貌や言動は後者とはどうにも合わない。何故なのか、知りたい、と思えるまでが幸いだろう。何故なら彼女はヒトではないのだから、それ以上踏み込む事は彼女に全てを委ねる、を意味するのだから。
彼女とは、と事情を知るモノは語る。異国の神、アヌビスの化身である、と。しかしそれは後天的であって、元来の姿ではないとも。
ではどうしてそうなったのか、きっとそう思えるだろう。もし、あなたが何らかの手段を介して今の姿を見ていたなら、そしてその事情を知れたなら関心の深さとは関係なしに思えしまえる、その時にその背後からこう言われるかもしれない。
「それは魔娘結社モンソウルの力ですよ」
呼びかけてくる存在は一体何者なのか、更に知りたいか、知りたくないか、と言うのは最早何の意味も持たない。何せ伝え聞くところでは、その名前だけ聞いて済んだ、聞くだけで終われた人間と言うのはまずいないと言う。聞いてしまった時点でもうその人間の何もかもが相手方たる「モンソウル」に掌握されたのも同然なのだから。
「魔娘人アヌヌビスと言いましてね…どうです、とても尊い姿でしょう?何せアヌビスの化身なのですから。そしてほら、携えているあの立派な杖、先端の意匠、鎌みたいでしょう?ええ、とっても立派ですよねぇ」
愉快そうな響きに満ちた何者かもわからぬ声は意識も肉体も包まれる様な響き。その内に「アヌヌビス」はこちらに近付いてくる。大きく通る獣の一鳴きを辺りに響かせて、輝ける双眸はあなたを捉えて離さないままに迫り、さてどうなるのか、それはまた語る機会があれば触れる事にしよう。
きっと、それが幸いと言うものであろうから。