「私とした事が…いけません」
姿勢を正す度に揺れる白い髪の毛の中に耳が見える。三角の犬耳、いや犬耳と言ったら彼女に失礼だろう。
「こんな所、誰かに見られでもしたら…」
生真面目な声で呟きながら、脇に半ば投げ出された盾と剣。それを手にする彼女の名は犬走椛。この妖怪の山に住まう天狗の中の白狼天狗の一員として、日夜、妖怪の山に出入りする存在、特に侵入者に目を光らせている哨戒天狗である。
「さてと戻りません、と…?」
哨戒天狗は見張るのが仕事。だから基本的に任務中と言うのは見渡しやすい、そう空中に浮かんで辺りを見張っているのが基本であった。
しかしどう言う訳か今日はそれをしていなかった、いや出来なかったと言えるだろう。何時も通りに任務についてしばらくした辺りでふと催した眠気。普段であれば感じる筈もない様なその眠気に戸惑うと共に、ある考えが彼女の頭の中を過ぎる。それは彼女としても有り得ないものだった。
(…誰も今日も来ないよね、うん)
頭に抱けるその考え。それはいわゆる「サボろうか」と言う心の囁きだった、そして体も否定しようとせずに、まるで裏づけを得よう、と言わんばかりに辺りを見回す。四方八方、言うなら360度を見渡しても広がっているのは何時も通りの光景だった。誰が見てもその通りでそのままであるのが見渡せたものだった。
そしてそれは彼女の、千里先まで見渡す程度の能力を通してみても変わらなかった。どこにも侵入者は見当たらない、こちらに向かってくる不審な存在も当然見当たらない平和な午後の光景がそこにはある。
実の所、彼女がその手にしている剣や盾を振るう事は極めて珍しい。するとしても極稀にいる侵入者に対して威嚇として示す程度であるから、基本的にはただ見ているだけなのが任務の実態であった。
だからこそ何時かは来るべき時が来たのかも知れない、それは暇だと思う事。見張るだけの任務に飽きを感じる、そう言う時が来たのだろう。
そう思う事自体は別に悪い事ではないだろう。既に暇な時間に河童と将棋を延々と打っているのは普通にしているものであるし、他にも来ると迷惑ではあるが、時たま襲来してくる黒白の魔法使いが来ないかな、と思いを巡らせる事もあった。
だがそれ等は誰かと関わっての事だった、河童にしろ魔法使いにしろ、何かと理由をつけられる。つまり私が率先したのではない、とすら言えてしまえる要素があるのは否定出来ない。しかし今回は違った、誰とも関わりがない中でふと浮かんでしまったその思いに、椛は自らの事でありながら動揺を隠す事が出来なかった。
辺りを再び見回したのはその動揺の気持ちを少しでも外に逃がそうとした、反射的な反応だったのかもしれない。最も見渡した程度で消えるなら儲けものだろう。
当然、そんな上手い話にはならなかった。それ以上に誘惑とも言える光景を彼女は見つけて視線を奪われてしまう。それは眼下の足元のほぼ真下にある、木々の連なりが少し切れた場所だった。太い大樹の周囲はほど良い具合に明るく、山肌を伝ってくる小さな川筋が近くを走っている、そんな場所に視線が釘付けとなってしまったのだ。
(…ま、ちょっとだけ様子見ようかな)
あくまでもそれは、その時点ではその場所がどんな物かを「哨戒」の一環として確認してみよう、そうすれば…そうすれば、別の事に関心が行く、それであの「雑念」を消す事が出来るだろうと考えての事だった。あくまでも助け舟を見出した程度に分けて考えていたのである。
しかしそれ以降、数時間に渡って彼女の姿が哨戒天狗としてあるべき位置に戻って来る事はなかった。それは妖怪の山においては珍しい光景、しかし幸いにもそれ以外においては全く何時も通りであったのが妖怪の山たる所であろう。
今日も侵入者はいない。そんな日常の唯一の例外が、浮いている哨戒天狗の姿が見当たらないだけ。それだけで何も問題はなかったと言うのは、真に珍しく、そして平和の証でもあった。
だがそれがその後も続くとは限らない。慌てて、一応平静は装いつつも空に上がっていった椛を待ち受けていたのは正にそれだった。待ち受けていたものと相対するなり、彼女はふとした当惑に包まれたのは言うまでもない。それは彼女が今まで経験してきた中で、最も有り得ず、また対処が瞬時に浮かばないほどの出来事だった。
「椛が私を呼び出すなんて珍しい…どうしたのです?」
それからしばらくが経過した夕暮れも深まった頃、妖怪の山の一角に灯る明かりの中へ舞い降りる翼の音が辺りに響いた。翼の音が消えると共に明かりの中へと現れたのはカメラを片手にした鴉天狗の射命丸文、その姿だった。
文はチラッと辺りを見回す。正直なところ、文が椛に呼び出される事は滅多にない。椛と接する時は大抵自ら近付く、近付くと言っても半分は暇潰しの一環。新聞を作る為に日夜幻想郷の各地を飛び回るのが普通な鴉天狗から見ると、何時も同じ場所に留まって真面目に辺りを見回している白狼天狗はどうにもつまらなさそうに見え、どこかでからかいたくなってしまう存在だった。
だから暇潰しと共に少しは「楽しませてあげよう」との思いから近付くのだが、どうも彼女等にはそれが通じない。特に椛はその中でも堅物な方だった、何かと話しかけたり誘ってもむっとした迷惑そうな視線を向けてくるものであるし、時として口を開けば断りの文句以外では、以前に文が外の人間を連れ込んだ事を持ち出して非難して来る。
そんな具合だから喧嘩とまでは行かずとも、軽く言い争っては皮肉を口にしあうのが常であった。だから出会った時の記憶には何かと後味の悪さが付き纏っているのは最早仕様のレベルだろう、故に文は椛を少しばかり苦手としていたのである。
それは単に文の自業自得でもあろう、だがそれ以上に職務に忠実、見方を変えれば遊びのない椛の姿に己とは対極的な姿を見出せる。だからいたのも事実であるからこそ、文にとって椛はどこか普段通りでは接せられない相手であったのもまた否定出来ない。だからこそ苦手意識を抱けたのだろうし、同時に観察対象として色々と相手にしていたのだった。
その椛から来て欲しいと呼び出される、いや請われるとは。それ等は文の全くの想定の範疇外の事であった、だからこそそれは応えなくてはいけない、そんな興味と驚きを綯い交ぜにした気持ちに押される形で、幻想郷随一の俊足で駆けつけて、今ここにいるのだ。
「椛、入るわよ。迎えにくらい出て来なさいよ、もう」
そんな言葉を口にしつつ、文は立ち入る。半ば開かれていた扉の中にある光景に軽く目を細めつつの一歩だった。
「あ…文さん、すいません急に呼び出してしまいまして…」
文が入って来た事に気付いた椛は、すっと立ち上がって頭を下げつつ迎え入れた。その椛の顔には何時も文に対して向けてくる、不快さの混じった視線が見当たらない。代わりにどこか困惑の色が多く含まれているのを文は認めつつ、同時に奥に腰掛けている人影にも視線を向けてから頭を下げた。
彼女が頭を下げると言う事、それは幾らかの場でしか有り得ない。1つは取材相手と接する時であろう、あるいは読者と関わる時かもしれない。何れにしても自分の利害関係が関わる時、と言うのが専らであろう。それ以外では目上の者に対して、半ば儀礼的か本能的に頭を下げる程度でしかないのが彼女のポリシーですらあるのかもしれない。
今回はその後者だった、儀礼的ではなく本能的に頭を下げた相手は椛よりもずっと長くこの幻想郷に生きる存在。文よりも長いかは分からないが、何れにしても元は獣であった、そう言う点でふとした近しさを感じられる相手であったのは言うまでもなかった。
「なんであなたがこの様な場所にいるのです?椛を、それとも私を式神にでもしに来たのですか?」
「ちょっと、文さん…っ」
だが同時に発せられた文の言葉は相変わらずの調子であった。それに対する椛の言葉と視線の中に、何時もの不快さが一瞬ではあるが含まれていたのに気付きながらも文は静かに相手の返事を待つ。
「ああ…すまない、迷惑をかけてしまって。矢張り私はそろそろお暇した方が良いのかな」
それは落ち着いた、しかしどこかで華やかさのある声。しっかりと一語一語を発する口元は白く、そして発せられる度に金色の髪がかすかに揺れる。何より印象的なのはその背後にある尻尾だろう、壁との間にある隙間を正に覆いつくさんと言わんばかりのそれは、言うなれば金色の海であり波だった。
それだけの尻尾を我が身に持つ存在となると、それは幻想郷のどこを探してもただ1人しかなく、多くの人間、また妖怪が知り得る存在に仕える存在でしかない。そう、この幻想郷を覆う結界を管理する大妖怪、八雲紫の式神たる八雲藍、その者がそこにはいた。
「いえ、大丈夫ですから…もう、文さんったら、そんな目的で来た訳じゃないと言っていますよ」
「ふうん、まぁお久し振りです、八雲…」
「藍で良い、今回は。私の方が押しかけてしまったのは事実であるし…さて、どう説明しよう」
名前を呼ぼうとした文の言葉を遮った藍はふと視線を泳がせた。そこには普段の彼女、それは以前に文が取材した時の彼女にはなかった戸惑いの色、それが隠し切れずに浮かんでいるのを文が見逃すはずが無かった。
「珍しいですね、本当、あなたほどの人がそこまで言葉を濁す喋り方をするなんて。椛から伝え聞きましたけど…本当なんですか?」
「ああ、本当だよ。紫様に命じられてこちらに来たら、ちょうど椛と出会ってね」
「え、あっはい、そうなんです。哨戒していたら不意に現れて山に入りたいと言われまして、それで…」
藍と椛から返ってきた言葉、そして表情を見る限りでは2人の口にしている内容のおおよそ辻褄はあっていた。
とにかくこう言う事である、藍は紫にたまには自由に遊んできなさいと言われていきなり外に出された、のだと。
だが余りに唐突に言われたものであるから、一体どうすれば良いのか分からずにふらふらと辺りを飛んでいたら、自然と妖怪の山に行き着いた。そこで椛と出会い、今に至った、それが流れであると2人は口を揃えるのだ。
「ふうん」
文はそう返しては2人、特に椛を見つめた。確かに2人の言っている言葉の内容には繰り返し考えても不審な点は見られない。一致しているし、どうあわせても納得の行ける内容であった。
しかし文にはある疑問が浮かんでいた。どうして椛が何時も非難して来る己の行動、つまり部外者を妖怪の山に連れ込んだのか、と。
この妖怪の山は排他的、よって部外者は侵入者と扱うのが原則であり、そしてその最前線に立つのが白狼天狗達、つまり椛なのだ。
その椛に対して文はと言えば、何かと外の人間を妖怪の山に連れ込んだり、また匿ったりしている。それは文の行動における利益を考えたら全うな、ケチの付け所のない必要な行為であるのだが、妖怪の山のルールに反する行為であるのは重々承知しているし、また否定出来ない。
故にその行為が、ルールを遵守し、維持する最前線にいる椛との折り合いが良くなかった一因であるのは言うまでもない。それに対する自覚こそ、文の椛に対する苦手意識の一角であったのであり、今、こうして椛を見つめた理由でもあったのだった。
つまりそこにある、ルールに実効性を持たせる存在が背くだけの理由とは何なのかとの疑問。確かにその時の事情、困っていた藍の姿に心動かされたのかもしれない、また椛に比べたらずっと力量が上の存在である藍を前にして咄嗟にそう反応してしまったのかもしれない。
しかしそれ等は良く考えるとどこか不自然さがある、前者はとても普段の、堅物、よく言うなら職務に忠実な椛を見ている限りでは中々有り得た姿ではない。そして後者はもっと有り得ない、手に負えない相手を前にしたら白狼天狗は上司に報告し、更に上の存在、例えば文をはじめとする鴉天狗の一党が対処する、そう言うルールがあるのだから、そもそも恐れる必要性がない。
だからこそルールまで破ってまで、椛が今回の行動に出た背景となる理由としては弱いのだ。故に文は椛を見つめたのである。そしてしばらく見つめて、ふと溜息を漏らすと2人を見つめなおして、文は口をまた開く。
「…そうですね、じゃあ私も協力しましょう、藍さん。当然、椛にもさせます」
「え、あっはい…」
椛は一瞬口ごもり、そして同意の返事をある種の意思のこもった視線と共に返す。だがすぐにその視線は止んだ、そして文と言えば、改めて投げかけた言葉の中である条件をつけた。
それは文の役割に関してであった、文はあくまでも藍が紫に言い渡された暇を外から支えるのに留める。そして椛は常に藍と行動させる。つまり椛もまた暇を、哨戒天狗の役割をしばらく休ませましょう、と言うものだった。
椛がその言葉に驚いたのは言うまでもない。それは純粋に、その様な事は出来ない、と咄嗟に出た一言に現れていただろう。つまりそれだけ彼女にとって「哨戒」の任が自らの存在意義とイコールであった証なのである、だからこそ狼狽したのは当然だったとしか出来ない。
だが最終的に椛はそれを受け入れる。何故なら、椛がしばらく任を休むのに必要な許可。それをほんの少しの間に姿を消した文が、次に戻って来た時には手にしていたからだろう。それを見せられたら、任務に忠実な分、上から示された命令を自らが不服だからと取り返す、その様な「冒険」をする気はとても浮かばなかった。
だから彼女は受け入れたのだ。同時にそこには藍と出会った時の事を探られたくない、そんな気持ちがあった事を指摘しておかなければならないだろう。そしてそれこそが藍と椛が文に対して明かしていない唯一の事柄であった、とも言わなくてはならない。
こうして奇しくも場所や中身は異にするものの、任に対する忠実さにおいては幻想郷随一であろう2人が暇を得て、自由に行動を共にする。例えるなら紫が冬眠せずにばりばり働いている、それに匹敵する珍妙な出来事が始まったのだった。