だから僕はカーテンも閉めずにいた窓の向こうから朝日が差し込んでいるのを目にした時、ようやく目が覚めたと感じたものだった。そして自ら扉の鍵を外して廊下へと出て体を伸ばした時は、本当に目が覚めた事を強く実感してしまう。しかし朝だと言うのにすっかり静まり返っているのもふと気になった、自室の時計を見てみると確かに時間的にはまだ朝食時間の前。だから皆まだ部屋にいて寝ているとか、そうなのだろうと思えたからこそふと、昨日は行けなかった「歓迎会」の会場、即ち食堂へと足を向けた。
このハイツの構造は3階建、と言うのは外部から見た時に分かっていたが、意外に奥行のある建物と言う事に気付いたのはようやくこの時だった。少なくとも全ての階の基本的な構造、建物の縦の形に沿って伸びる廊下に2階と3階は交互に向き合う形で扉があり、それぞれが入居者の自室である事。そして1階は廊下の形こそそれであるが中央の空間が食堂となっており、その両脇の廊下を挟んで向かい合う空間は何か倉庫だとか、入居者の部屋以外の用途に使われている部屋であるのがうかがえる。更には2箇所ある階段の内、一番入口から奥にある階段には地下へ続く階段があるものの、そこは鍵のかかった扉で閉ざされていて、食堂と向き合う形である部屋と同様に立ち入る事は出来なかった。
そしてそれだけ歩いたからには最低でも10分は要していると言うのに、その間、誰一人とも会わなかったのが改めて不思議なものだった。少なくともここは食事、つまり賄い付きのいわゆる寮の一種、と説明されて入居してきた身にとっては途中の廊下にあった時計の時刻から見てもその時間であるならば、もう朝食が始まっていて当然ではないかと思えてならない。つまりむしろ首を捻る事頻りでキリがなく、だからこそ二度三度と文字通り徘徊しても変わらぬ調子に何時しか、強いストレス、つまり不安感を抱けてしまって胸が苦しくなってくる。
そうなってくると朝日を見て抱けていた新鮮な気持ちと言うのは、それによって白く輝く霞に等しい。そして次第に晴れて風景が露になるのと同様に、どことなく抱けていた不安だとか言うなれば現実がますますそれを強めて、落ち着く為にも異様にベッドが恋しくなってしまう、そんな時だった。
「・・・あっおはようございます」
「あえ・・・ああ、おはようございます・・・あの朝食の時間ですよね?」
そこで遭遇したのが昨日、僕を食堂に連れて行きかけた女の子だった。背格好は僕よりも小柄で太っているとかそう言う事は無い、落ち着きのある雰囲気を纏った、しかし昨日の姿と重ねるとどこかおっちょこちょいな面もある女の子。その子が階段のある角の脇からいきなり現れたのだ。
「え・・・ああ、今日はお休みですから、土曜日ですから普段よりも遅いんです」
問いかけた質問に対する答え、それは単純過ぎて僕は咄嗟に言葉を投げ返せず、いたずらに空気を喉の奥からしばらく吐くのみだった。
「あっ知らなかったんですか?えーと、あとハルキさん、丸1日以上寝ていましたからきっと・・・ええ」
丸1日以上寝ていた、その響きに僕は口をぽかんと丸くせざるを得なかった。目で思わず本当か、と相手を凝視するとその意図を察したのか、無言のままその首は縦に振られる。それを見るなり改めて僕はそうである事を悟ると共に思わず微笑んでしまう、最もそれはそのまま受け入れられたらしく相手の女の子も僕に対して微笑み返してきた。そして無言のまま場が和んだ事を良い事にしばらく向き合った後で、再び口を開いたのは女の子の方だった。
「その、先日はごめんなさい。私の手違いでハルキさんにも皆にも迷惑かけてしまって・・・あの、今お時間大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫ですけど・・・あの色って本当、一体何なんです?尋ねられたから答えましたけど」
2度目の僕の問いかけに対する答えも矢張り1度目と同様だった。どうやら僕が知っているものとして色々と行動していたらしく、逆に微笑みの端で少し焦っている調子のうかがえるのが何ともかわいさを引き立てている。そしてそんなに気付いて思わずドキドキとしてしまった時、僕は耳の中に届いた声の響きに頷いて足を前へと出していた。そう、再びあの時と同様に彼女の後について歩き出た、と言う事。そして彼女が現れた方向へと無言のまま、いや何かを話していたのだろうが実はそれが全く頭に入らないでただ流れていくだけ、と言う正に上の空のまま連れて行かれる、と言うのがより相応しい。
ようやく耳に入る空気の振動が、鼓膜を通じて音となり、更には明確に頭の中で認識した時はひたすら相槌、あるいは頷いて同意を繰り返すだけになっていた。肝心の所は正直分かっていないのに、とにかくその場の勢いで繰り返すと言う、ある意味典型的だろう。典型的な、例えば数学の講義とかで内容も良くわからないけど取り敢えず返事をしておく、と言うそれとしてのやりとりであり結果である。
だから辺りを見渡して僕は思わずぎょっとなった、そこは窓1つ無いコンクリートだけで構成された箱の様な空間。唯一換気扇が幾らかあり、そこから外部へと溜まっている妙な熱気と臭気が排出されている以外には、恐らくどこかにある、自分達が入ってきた通路以外に外に通じている抜け道は見当たらない。その様な空間に入り込んだ自覚がまるでなかったから、そう言う咄嗟の認識をしたのだろう。更に気が付いたのは何時の間にか履物だとかそう言う物をすっかり自分が脱いでいた事だった、それだけではないおよそ衣服と言う物を全て脱いでしまっているのにも、数コンマ遅れて気が付いた事だった。
「これは・・・!?」
よくよく見ると体も水平に、縦ではなく水平のまま固定されている。それも平たい寝台の様な上にあって、ちょうど真上には恐らく僕が寝かせられているのと同じか一回り大きいサイズの板が、向き合う様にして据え付けられていた。そして少し離れた脇であの女の子がニコニコした顔で僕を見つめている。
「実はこれをもうしてあるのかなって思ってて・・・ごめんなさい、それを知らなくて。とにかく今は皆で明日の晩、歓迎会を改めてしましょうと言う話になってるから、しておかないといけないの」
謝罪の言葉も含まれていたがどこかウキウキとした、一種の高揚感がまとわれた響きだった。
「もう、してあるかって・・・どう言う事だよ・・・!」
理解し難い、それが全てだっただろう。一体何なのか、一気に過ぎる記憶の中で強く浮かんできたのは好きな色に付いて尋ねられたあのシーン、更には丸一日以上寝込む前に見たのかも知れない、少なくとも夢の中だと信じていたい見てしまった光景の2つが鮮明に浮かんでくる。それらに共通していたのは「色」だった、特に後者は鮮やかな色で、今、目の前の板も色付けられており、それは自分が好みだと答えた色以外の何でもなかった。
「どうって・・・あなたも見たでしょ?もう皆知ってるわよ、だってあれがここでの姿だもの・・・ほら」
そういって振り向こうとした時、不意に視界が奪われた。それは感覚から目隠しをされた、と言う事だろう。しかし聴覚は奪われていなかったものだから何か、布のこすれる音がはっきりと届く。そして強く吐かれる息の音に続いて、悪くはないがツンとした臭いが鼻に届くと共に視界は回復した。
「・・・それは・・・!?」
わずかの空白の後に僕は思わずそう漏らした、だがそれ以上は全て閉ざされる。そう彼女が1つのスイッチを押した、と見えたなり一定の衝撃と共に僕の全身を覆った冷たい、寒天の様な感触の中へと僕が覆い隠されてしまったから。僕の体と相対して置かれていた板が実は蒲鉾型をしていて、その中身は前述した様な感触の物質がひたすら敷き詰められていた事。そしてその中にめり込む様になった肉体は何時の間にか背中に感じていた寝台の感触すらなくして、完全にその半粒状の物質の中へと取り込まれた所で、咥内に侵入してきた苦さに頭がくらっとしてまたも意識を失ったのだった。
(これは夢じゃない・・・)
不思議とそれを最後に意識して。