さて、そう言う一幕があったとは言えその後の対応、そうここに住む為に必要な手続きに要した時間と言うのは本当にわずかなものだった。まるで本来かかるべき時間が短いが為に、あの玄関にて僕が気付かずに立ち尽くして余る時間をその分、消費していたのかとすら思えてしまうのがどこか滑稽であったと言えるだろう。そんな具合だから、逆に気をどこかで使ってしまい、これからしばらく僕が滞在する事となる部屋に通され、鍵を手にして軽い会釈の後にドアを閉めるなり、大きく息を吐いて手にしていた鞄を投げ出してしまう。
エポルティオン・ハイツ、ここが今日からの僕の住処だった。今日からと言うのは文字通りそのままであって、それ以上の意味はない。だがどうしてこうなったのか、と言う理由だけは当然ある。
それは単に、と言ってしまえる問題ではあったが少なくとも自らが強く望んでだとか、そう言う次元とは別の類。即ち良い理由ではない、あくまでも自分にとってとは言え、先に到着していた自分が発送した自分宛の荷物を確認してから解きつつ、気を紛らわそうと言わんばかりにその部屋を自分の色に染める事に専念し始めた。
部屋はおよそベッド付きの6畳間でそれとは別にそれぞれ風呂とトイレがあり台所は無い、よって食事に付いては1日に決まった時間に食堂で出されるものを食べる事になるのだが、それ以外はある程度自己完結の出来るのはこれまでと変わらなかった。最も自前で食事の心配をする必要が無い、と言うのはありがたい事であったから数少ないメリットなのだろう。だがあくまでもある程度に過ぎない、と改めて認識させられたのが、それから間も無くの事だった。
「おっ新入りさんか」
少しばかり気持ちを落ち着かせて荷物を整えていた最中、扉に向かって背を向けて黙々と励んでいた時、不意にドアが開いた、と感じると時を同じくしてどこかひょうきんな声が伝わってきた。だがそれは冷静で、しかも予想していればの話だろう。少なくとも前述の通り、全く備えが無かったものだからその声は不意打ちの得体の知れないもの以外の何物でもない。
よって体が軽く強張る事、そして慌てて振り向き、取り繕いに等しい愛想笑いを浮かべて生返事を返すのは避けられなかった。だがかけられた言葉の響き自体からは、ふとした親しげな気配を感じ取っていたものだから、ただ全てが取り繕いで会ったと言う訳ではなかった。
「あ・・・はい、初めまして・・・今日からこちらに入ります・・・」
「ん?何だ、まだ入り立てで知らないのか。じゃあ改めてだな、俺は・・・まぁ顔を覚えておいてくれれば良いから」
「え・・・?あっちょっと・・・」
それは振り返れば先ほど自分がした様な、そう玄関でのやり取りの際の立場を入れ替えた様な物だったのだろう。相手がやってきて尋ねられ、僕が尋ね返すもその語尾は遮られて相手の言葉に妨げられる、ただし途中で自ら言葉を切ると言う相手の見せたわずかな隙はあったのだが、と言うのは正にその反復だった。不可解なのはその言葉を遮られたタイミングであろう。挨拶の途中、と言うのも中々常識外れなものだが、何よりも僕が自らの名前を名乗っている際にされたのがどうにも解せない。
入り立てで、この場での勝手を良く知らないと言うのは否定出来ない。そうだと把握しているからこそ、相手に対しての印象と共に早口のその言葉、そして名を名乗らずに立ち去られた事実からは、まるで自分がどこか小馬鹿にされてしまったかの様な印象を拭いきれない。そしてそれはふと気が付くと、どうにか追い払っていた筈の現状に対して納得していない僕自身の気持ちが、再び舞い戻って心中の多くを覆う、その大きなきっかけとなってしまったのだから。
そしてその大きさの前には、ふと抱けていた別の小さな、若しかしたらもっと大きくあるべき疑問は微塵な埃程度の重さしかなく、しばらくもしない内に忘れ去られていた。