「はっ・・・今のは夢・・・嫌な夢か・・・縁起でもないわね。」
気がつくと真雪は退避口内にある歩道用なのか低い台の上に腰を下ろした格好でいた。ここまで冷えていると言うのに皮膚には汗の感触、何時の間にか寝入ってしまいそしてあの悪夢を見たと言う事の様だ。
「本当縁起でもない夢・・・夢の中とは言え人狼に襲われるなんて・・・本当に、まぁこっちではまだ来ていない様だから一安心だけどあんな夢を見たばかり、用心しないと・・・。」
呟いて取り出したハンカチにて顔の汗を拭う。白いハンカチは染み付いた汗の部分が薄黒く染まっていた、恐らくこのトンネル内に滞留する排ガスの黒煙なのだろう。こんな事でもなければ絶対長居はしない所だ、そうしみじみと思いそれを見詰めてしまう。何事かを思いしまい掛けたその時、不意に風が流れ始める。
感想を述べる間も無く風は急速に強まり立っているのさえ困難になり掛けていた、本線から窪んだ形になっている退避口内は風が激しく渦巻きとても居てはいられない。風に飛ばされぬ様に壁に取り付けられてあったパイプに手を掛けて本線の方へと脱出しようとしたその時、まだパイプを握っていなかった片手が抓んでいたハンカチが思わず渦へと巻き込まれて宙を舞う。
反射的に手元に戻さねばと反応した真雪は、じっかりと考える間も無く手を大きく伸ばしてハンカチを捕らえようとした。次の瞬間、ハンカチが消えた。手のわずかに先の所で風の動きとは全く関係ない動きをして消失したのである。
そして殆ど間をおかずに真雪も退避口へ新たに吹き込んできた強風によって引き剥がされ、さもあのハンカチであるかの様に渦巻く風に飛ばされて本線の路面へと叩き付けられた。風はそれを合図とするかのように始まりと同じく唐突に止まった。背中から感じる強い痛みに殆どの関心を奪われつつも、彼女はある者の到来を悟りその目で確かに見据えようと視線を巡らせる。すると薄暗い非常等の下、先程まで自分がいた退避口の中より何かがこちらへ向けて重々しく近付いてきたのを捉えた。
"油断したわ・・・ハンカチなんかに気を取られて・・・。"
先程の自分の行い、それがたとえ反射的な物であったとしても結果としてこの様な事態を招いてしまった軽薄な行為を悔やんだ。だがその一方で彼女は密かにある物を探していた、だがこうもなっては見つけるのも至難の業、とにかく立ち上がろうと力を込めかけたその時影がようやく喋り始めた。
「よう・・・久し振りだな女・・・俺をここまで走らせやがったその根性は褒めてやるよ。その敵対的な目と共にな・・・。」
その声は内容こそ感心出来た物ではなかったが、声に関して言えば何処か聞き覚えのある声が混じっていた。
「た、田中君・・・正気に戻って・・・。」
「はっ田中?あぁあいつか、あの人間だとか言ってのたまっていた奴か・・・残念だなぁ女、あいつは俺の中に封じられているんだよ。これまでの俺みたいに、そして永遠にな。へへへっ、だから今の俺が正気なんだよ・・・正気な奴に正気に戻れとはあんたも逝かれちまった様だなぁ・・・怖さでか?ひひひ。」
人を完全に馬鹿にした様な口調で話し続ける人狼。真雪は既に知っていたとは言え、今そこにいる相手は吉康の変じた存在ではあるも全く違う存在である事を改めて心に刻んだ。そして同時に人狼の口から出た吉康の存在に勇気付けられ、人狼に対する思いもまた新たにされる。
「正気・・・正気だ何てあなたこそ何を言っているのよ、あなたが田中君である訳が無い・・・私はあなたなんて知らないわ。所詮陰の存在のあなたなんて・・・だから田中君を返して!そして早く消えて!田中君は・・・私が助けるんだから。」
そして怯む事無く真雪は声を上げた。もう背中の痛みは気にはならなかった、それよりも確かに存在している事が明らかになった吉康を救う。その事に対する思いがこれまでに無く込み上げて来たのである、だが人狼は強く出てきた彼女に対して余裕でありそして不満そうであった。尻尾が忙しなく動いている。
「獲物の癖に生きがいい奴め・・・そんなに喰らって欲しいのか?まぁ喜べ、お前がそう言わずともそうしてやるよ。生きたままな・・・お前みたいな奴は特に堪能してやろう、悲鳴と共にな・・・。」
人狼は大きく言い終わると共に腕を振りかざし落とす、真雪はとっさに回避するもその一撃は衝撃となって伝わり鈍痛が傷に響いて走った。だがそれに屈する事無く何とか這う様になりながらも、その隙に立ち上がった真雪は数歩後ずさると、何時の間にか再び握った鉄パイプを前へとかざし睨み付ける。鉄パイプも先程の風の影響でこちらに転がってきていたのであった。
「あんたなんかに・・・食われてたまるものですか・・・。」
「ふん、それで俺に抵抗するつもりか?他愛ねえ・・・命乞いでもするのかと思ったらそれかよ。はっこれだから人間ってのは良くわかんねぇなぁ・・・不利だと分かっても抵抗する、益々お前が美味そうに見えてきたよ、楽しみでならんな・・・。」
"さっきから聞いていれば私を食べる事しか言わないわね・・・これが田中君の中に潜んでいた人狼なの?最悪・・・絶対に許せない・・・。"
さも得意げに語る人狼に対して不信感をますます募らせる真雪、そして睨みつける彼女を見て得意げに更に饒舌になる人狼・・・理屈っぽい所は吉康の中に潜んでいたが所以の物なのかもしれない。と正にその時だった、不意に人狼の背後から何かが迫ってきたのは・・・人狼は気がつく間も無く宙に舞った。
「きゃっ!?」
調子良く言い放題にしていた人狼が声を濁らせると共にこちらへ向かって宙を舞う・・・屈んだ真雪の上を綺麗に放物線を描いて飛んだその体は、勢い良く壁と設けられていた看板に衝突し盛大な音がトンネル内に反響した。流石の人狼もこれには応えたらしくしばらく動き出そうとはせず、その場で唸っている。
「何なの突然・・・。」
鉄パイプを手にしたまま目を丸くしてそれを見詰めていると、背後で何者が動く気配がした。すぐに首を回して見るとそこにはつい先程まで連絡を取ろうとした相手の姿があった。
「おい大丈夫か、真雪とやら。助けに来たぞ。」
「その声は・・・サルサさん?助けに来てくれたの!?」
「あぁそうなのだ、まったくここまで来るのはエライ苦労だったのだ・・・。怪我は無いのか?」
「そう、怪我は特には無いわ。たださっき吹き飛ばされて背中が痛いけど大丈夫。それよりも田中君を・・・。」
「そうか、あれが吉康の人狼か・・・。」
真雪が指差した先にいまだ横たわっているその体を見てサルサは忌々しげに呟いた。するとその更に奥から銀色の毛並み・・・銀星が駆けてこちらに戻って来た。
「サルサ、予想通りだ。この先の道は封じられている、さっきの音はトンネルを破壊した音だったらしい。」
サルサが人狼を背後から思いっきり蹴飛ばした時、銀星は単身奥へ進んでいた。それは先程耳にした大音響の原因を突き止める為である。幸い人狼がマーキングに使った際の生命力が新鮮かつ強力な物であったので、峰を越えずともトンネルの中にてそれを見る事が出来る事はトンネルへ入った時点で嗅ぎ取っていた。言い換えればそれだけ大規模な事を人狼が仕出かしたという事、長年生きて様々な物を見聞して来た彼でさえも思わずその力には身震いせずには居られなかった。
「そうか銀星、真雪は無事なのだが・・・。」
サルサが無言で人狼を指差すのを見て銀星は静かに頷いた。
「・・・とにかくサルサは真雪を外へ、ここに置いておいては危険だ。」
「わかったのだ、では真雪は俺と外に出る。銀星は?」
「俺はお前達の後から行こう、さぁ早く今しか時間は無いぞ。」
「了解なのだ、では行くぞちょっと頼むぞ真雪。」
「えっえぇ・・・どうすれば?」
どの様にして掴まって行けば良いのか、その様な表情を戸惑いと共に真雪は見せた。するとサルサはいきなり手を動かし真雪を捕まえるとそのまま持ち上げて脇へと挟んだ。
「こうなのだ、良いか?では行くぞ。」
少し妙な姿ではあるがサルサは駆け出した。その加速力に思わず目を回す真雪、サルサにしてみてもこの格好は走り辛いらしい何時もよりも速度が遅い。本来ならタケトをそうするのと同じく背中に背負うべきなのであるが、それは不測の事態をも考慮した上での事だ。例え後ろから銀星が護衛をしてくれているとしても・・・。
人狼がようやく起き上がったのは銀星が折りしもその場から一旦離れた時であった。すぐに獲物を逃した事を知った人狼の中には強い憤りが込み上げはじめ、それには人狼自身、獲物を喰らう事によってしか収める事は出来ないと悟っていた次第である。しかし今目の前にはその姿は無い、その代わりに銀色のワイルドハーフが1人・・・幸いまだ意識を取り戻した事には気が付いていないらしい。しかし間も無く気が付かれるのは明らかであり余裕も無い。
"それに・・・こいつは手強い奴だ、あと獲物を連れ去った奴も・・・先手を打たんとな・・・。"
吉康の記憶からそのワイルドハーフ、つまり銀星とサルサの事をその様に評価していた。人狼の下す良い評価は即ち己の身に危険を及ぼしかねない存在と判断したという事である。彼は慎重に事を行動へと移そあと機会を窺い、そして一気に動く。
「くっ!気が付いてしまったか。」
突如としてトンネル内にこだました叫び声、同時に周囲から高速で迫って来る何かを辛うじて回避した銀星は忌々しげに人狼の方へと顔を向けた。
「てめぇら、人の獲物を勝手に分捕っていくとは言い度胸してるなぁ・・・犬の分際で俺の物を捕るとは。」
立ち上がりながら呪詛に満ちた言葉を吐く人狼、だが突然の不意打ちによるものなのかその心には大きな動揺がある事を銀星は嗅ぎ取っていた。
"流石は人狼の力・・・だがこの様な力を持ちながら、俺を捕らえ切れなかったとはまだ若い吉康の人狼だからか・・・そうならば勝機はあるな・・・。"
「うるさい、この人狼風情が!血を求める事しか知らないお前に何が分かる、真雪はもう無事な所へ逃れた。あとはお前を倒して・・・吉康を取り返すだけだ。俺とサルサで・・・。」
人狼と銀星の間の距離は50メートルほど・・・そして2人の間には厚い氷の壁が存在した。先程迫ってきた物はトンネル脇に設けられた排水溝を流れる大量の湧出した地下水にマーキングをしたものであった。氷はトンネル内を縦横無尽に走っており、所々に出来た隙間の一つに銀星は動ける状態ではいたが実質的には閉じ込められているに等しい。
「しかし、まぁ俺の方が上手くやったようだ・・・お前、今サルサとか言うお仲間と俺を倒すと大口を叩いただろう?少しは心配してやったら如何だ・・・へへへっ。」
"心配する・・・まさか、サルサは・・・!?"
だが動揺しつつも、一向に言葉にこもる覇気に衰えが見られないどころか、ますます強まっていく人狼の言葉にハッとした銀星は慌てて元向いていた方向に振り返った。真雪を脇に抱えたサルサは銀星よりも先に発ち、恐らくは人狼が目を覚ますまでにはかなりの距離を稼いで逃れられた筈・・・そう銀星には信じ込んでいる所があった。しかし人狼の言葉に気が付かされて振り向いた先には、最悪の光景が広がっていた。
「サルサ・・・!」
サルサは捕らえられていた、人狼の勢力圏から逃れられていなかったのである。ただ足などの体の一部を氷に絡め捕られたと言う訳ではない、何と全身が氷漬けにされていた。その上、その脇には真雪がは抱え込まれたままであった。
「今はまだ生きているから安心しな・・・鮮度保全って奴だ、俺も死んだ奴を喰らう趣味は無い。矢張り生きている新鮮な奴の血肉じゃないと駄目なんだよ、それに喉も渇いているから氷と共に喰らえば一石二鳥じゃねぇか・・・感心するだろ?」
「感心出来ないな・・・とても。」
この鬼畜な人狼め・・・銀星は大きく憤った。そしてわずかにサルサとタケトの事例は余りにも幸いであった事、そして兄が人狼に目覚め掛けて自ら死を選んだ事を思った。サルサの時の様にしていてはやられるのは最早明らか、咄嗟にそれまでの考えを見直した銀星は自らの力を振りしぼり相打ちする事も覚悟に戦う事とした。
"カオル・・・すまない、しかしこれだけはしなくては・・・。"
力を込め睨み付ける銀星、悲壮感すら感じられるまま宙へ飛ぶ。
「へへへ、何だやる気満々じゃねぇか・・・おもしれぇ、獲物を喰らう前にお前を喰らってやろう!」
人狼は嬉しそうに嬉々として飛び跳ねる。氷塊がその多くを覆いわずかなスペースのみが残されたトンネル内、2人は空中にて衝突した。