恋が動き出す時
 人ごみの中でその人を見かけた時、すぐに彼だと分かった。
もう5年も会っていないし、過去に1度しか会った事がない人なのに、僕にはすぐに彼だと分かったんだ。

 5年前の夏。僕はその時、中学1年生だった。
あの日はとても暑かった。あれはたしか、夏休みに入って5日目の出来事だ。
当時僕は、電車で塾通いをしていた。夏休みは夏期講習が行われていて、連日勉強漬けの日々だった。
塾が終わって帰りの電車に飛び乗ったのは、多分午後5時頃だ。
いつもなら20分電車に揺られれば、家の最寄り駅に着くはずだった。 だけどあの日はどこかの駅で事故が起こり、僕の乗った電車は30分近くも線路の上で立ち往生した。
その時僕は、3両目のドア付近に立って外の景色をじっと眺めていた。
青い空と白い雲。その手前に見えるのは、大型スーパーの赤い看板だった。
車内には乗客が少なく、僕以外の人は皆座席に腰掛けて電車が再び動き出すのを待っていた。
3両目には、まだいくつか空席が残っていたように思う。でも僕は、ドアが開いたらすぐ外へ出られる位置に立っていた。
それはその時、おしっこがしたくてたまらなかったからだ。
僕はもう本当にギリギリの状態で、まったく変わらない外の景色を睨み続けていた。
塾から帰る電車は、1時間に1本しかない。だから僕は、慌てて電車に飛び乗った。 それを逃すと1時間も待たなければならないから、迷わずそうしたんだ。
本当はその前にトイレへ寄りたかったけど、それは結局後回しにした。 その時の自分の状況なら、20分ぐらいはおしっこを我慢できると判断したからだ。
ところが予期せぬ事故のせいで、30分も電車の中へ缶詰にされた。
おかげで僕は、その後おもらししてしまう事になる。

 どうしよう。もう我慢できない。
あの時は、心の中で何度そうつぶやいた事だろう。
1分ごとに強い尿意に襲われ、そのたびに体に力を入れてなんとか堪える。
それをずっと繰り返して、刻々と時は過ぎていった。
「大変お待たせしました。この電車は、ただいま発車いたします」
車内にそのアナウンスが響いたのは、恥を忍んで股間に手を当てた時の事だ。 その頃にはもう外の景色を見る余裕なんか失われていて、僕はただじっと俯いていた。
それから電車は、次の駅へ向かってたしかに動き始めた。 でもそこへ行き着くまでには、まだ5分もの間そうしていなければならなかった。
それは本当に、地獄のような5分だった。時々電車の揺れに体が傾くと、徐々にパンツが湿っていった。

 やっとやっと次の駅へ近付いた頃には、もう顔から血の気が引いていた。
電車のスピードが緩やかになり、駅のホームにたたずむ人の影が漠然と目に映る。
もうすぐ電車が止まって、遂にそのドアが開く。 それが分かった時、座席に腰掛けていた人の何人かが立ち上がってドアの近くへ移動してきた。
やがてシューッと音をたてて、とうとう目の前のドアが開いた。
それから僕は、股間を押さえてホームに飛び出した。
ところがトイレがどこにあるのか全然分からなかった。 そこは僕の家の最寄り駅ではなく、初めて降りた見知らぬ駅だったからだ。
一緒に電車を降りた人たちは、一斉に階段の方へ向かって歩いていった。 そこはこじんまりした駅だったので、ホームに降り立った人の数はそれほど多くはなかったと思う。
階段を下りれば、きっとどこかにトイレがあるはずだ。
僕はそう思って、とにかく彼らの後を追いかけた。 売店の横を走り抜け、ベンチに足をぶつけながら、必死に階段を目指したんだ。

 ところが、限界は突然訪れた。
階段まであと数メートルというところで、大量のおしっこが太ももに流れ落ちてきたんだ。
股間に当てた手は、すでに役立たずだった。階段へ向かう人の背中が、どんどん僕から遠ざかっていく。
そして僕は、遂にホームの真ん中で立ち止まった。
そっと俯くと、灰色の床に水たまりが広がっていく様子が目に映った。 その時はパンツもジーンズもびしょ濡れで、下腹部がやけに温かく感じた。
おもらししちゃった。おもらししちゃった。
頭が真っ白になり、その思いだけが心に大きく広がった。
するとその時、誰かがいきなり僕の腕を引っ張った。 それが誰なのかは分からなかったけど、僕はおしっこを垂れ流しながらそのままホームの端へ引きずられていったのだった。

*   *   *

 すっかりおもらしを終えた時、目の前に立っていたのが彼だった。
その人は、僕より少し年上に見えた。長髪で、肩の線が細くて、真っ黒に日焼けした肌と澄んだ目がとても印象的だった。
「坊や、早くこれに着替えなよ」
彼はそう言って、青いビニール袋を僕に差し出した。訳も分からずそれを受け取ると、今度はその人の手に背中を押された。
「ほら、人がくる前に早く着替えて」
一歩足を踏み出すと、すぐそこにトイレがある事に気付いた。 そこはドアのない小さなトイレで、中に人の気配はまったくなかった。
それから急いでビニール袋の中を覗いた。するとそこには、黒のジャージが入っていた。
その時になって、ようやく分かった。澄んだ目をしたその人は、僕を助けようとしてくれたのだった。
ありがとう。
僕はそう言うつもりで、すぐに後ろを振り返った。でも彼の姿は、もうどこにもなかった。
ホームに温かい風が吹いて、場内アナウンスが大きく耳に響いた。 すると遠くの方に、新しい電車の姿が見えた。
本当はその時、すぐに彼を追いかけたかった。でも濡れたジーンズをはいたままでは、そうする事ができなかったんだ。

 僕はその後、トイレの個室に入ってジーンズをそっと脱いだ。 黄色いシミの付いたパンツは、そこにあったゴミ箱へ捨ててしまった。
彼のジャージは、とってもいい匂いがした。香水なんかとは全然違う、大人の男の人の匂いがしたんだ。
ジャージのズボンに足を通すと、急に胸がドキドキしてきた。 むき出しのペニスが、彼の股間に触れたような気分だったからだ。
そして僕は、ズボンの裾を2回折り曲げた。当時の僕にとって、それはちょっと長すぎたからだ。
僕はそのジャージを、今も大切に持っている。本当の事を言うと、時々それをはいてオナニーをしたりもする。
あれから随分背が伸びて、今では彼のジャージは僕の体にぴったりだ。

 土曜日の午後。
人ごみの中でその人を見かけた時、すぐに彼だと分かった。
もう5年も会っていないし、過去に1度しか会った事がない人なのに、僕にはすぐに彼だと分かったんだ。
繁華街に温かい風が吹いて、すれ違う人々の話し声が小さく耳に響いた。
人ごみの真ん中で立ち止まった僕の肩に、見知らぬ人の肩がぶつかっていく。でもそんな事は、どうでもいい。
僕はただ、しだいに近付いてくるその人の姿を眺めていた。
彼は全然変わっていなかった。長髪で、肩の線が細くて、真っ黒に日焼けした肌と澄んだ目がとても印象的だ。
ありがとう。
あの時言いそびれたその言葉を、今こそちゃんと伝えたい。
僕は5年前のあの日、名前も知らない彼に恋をした。
その思いはずっと立ち止まったままだったけど、僕の恋は今再び動き出そうとしていた。
END

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